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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第一部 
2/24

一 遺言

「……今、何とおっしゃいました。戴剋様」


 聞き間違いだと、翠玉すいぎょくは思った。でなければきっと、夫は熱に浮かされておかしなうわ言を言っているに違いないと。

 広い寝台に横たわった姿で、齢七十八になるとう家領主戴剋は辛抱強く、ゆっくりと言葉を繰り返した。


わしもそろそろ天命を待つ時期が来たと思うてな……以前より考えておったのじゃ。もう後のことは全て、この碩有に任せておいてある。この家の財産の管理も、領地の政務もな。ただ気がかりなのは翠玉、お前の行く末のみじゃ」


 かつて落雷の如き苛烈さで一族を牛耳り、精力的に政治を行った賢君ではあったが、年老いたせいか、ふとした折に得た病が悪化、医師に余命を宣告されることとなった。

 それは枕頭に侍るこの女も聞いているはずだったが──彼にとっては覚悟を決めた今でも、現実逃避はいささか嬉しくもあり、心配でもある。

 二十八という実際の歳より若く見える妻を、彼は愛情の籠もった眼差しで見つめ、同じく愛すべきたった一人の肉親に視線を移した。


「孫の碩有はお前より年下ではあるが、幼い頃より儂が手塩にかけて育て上げた男じゃ。今では立派に陶家の当主として跡を継いでおる。年齢も近いし、身内褒めをするのは何じゃが、儂が若い頃よりも佳い男になりおった。優しい性格じゃから、大切にしてくれるであろう」


 名指しされた当の碩有は無言無表情のままである。翠玉と同じく寝台の脇に控えてはいるが、礼儀正しく彼女より一歩下がった位置に膝を付いてこちらを見ている。

 これはこれで不憫な子だったと、老人は回顧した。

 父を早くに亡くした孫息子は、その心痛で母が心を病んだ為、両親の愛情をほぼ受けずに大人の世界に投げ出された。だからだろうか、四つ年上であるはずの翠玉よりも大人びて見える。


「良いな、碩有。この翠玉を正夫人として娶り、大切にするのじゃぞ。普段は明るいばかりの娘じゃが、寂しがり屋な所もあるでの」


 畏まりました、と返事は短い。


「お止めください! 第一、まるでご自分がもうお亡くなりになるかのような仰いよう。悲観的にもほどがありますわ! 碩有様、貴方も何をあっさりと受けてらっしゃるのですかっ」


 他の男に話しかけてはいけないという掟を無視して、翠玉は非難の声を上げた。視線を寝台に戻して必死に訴える。


「戴剋様、私は良家の出でもない、普通の商家の娘です。貴方様の側室にしていただいただけでも驚きだったというのに、跡継ぎの方の正妻などとんでもありません! 碩有様にはもっと、若くてご立派な出自の娘さんが相応ふさわしいのではありませんか」

「儂は其方達はきっと、良い夫婦になれると思うとるよ。そう思わぬか、碩有?」


 戴剋は面白そうに笑っている。


「お心のままに。私に是非はございません」


 淡々と応える声は何を考えているのか判別しがたい。


「碩有様!」

「翠玉。其方はこの碩有が気に入らぬと申すのか?」


 少しばかり哀しげな表情になって問う夫に、彼女は慌てた。


「そういう問題ではありません! 私は夫を貴方一人と決めた身なのです。万一貴方に何かあったとしても──そんなことはないと固く信じていますが──慣例通り、尼僧院に入るつもりでおります。以前から申し上げていたではありませんか!」

「琳夫人。病人の前です、お静かにされた方が」


 彼女はきっと背後を睨み付けた。


「貴方が冷静過ぎるんですっ」

「──まあ、落ち着きなさい。翠玉には悪いが、これはもう決めたことなのじゃよ」


 二人のやり取りを微笑ましく思いながらも、戴剋は堅固たる意思を翻さなかった。


「少し疲れたようじゃ。この話はこれで終わりとしよう。……碩有、退がって良いぞ」


 まだ何か言おうと口を半開きにしたままの翠玉をわざと無視して、戴剋は目を閉じた。

 かすかに扉の閉まる音がする。傍らに人の気配を感じないので薄目を開けてみると、予想通りそこには翠玉の姿もない。


──あれもなかなか、頑固な所もあるからの。碩有は手を焼くかもしれん。


 自分の命数が尽きる予感が確信に変わった時、まず懸念したのがあの娘の処遇だった。

 良かれと思って迎えた西楼で、五年も拘束してしまうとは予定外もいい所である。このままいたずらに花を散らせるには忍びない。

 お前が遊学なんぞに行ってしまったのが悪いのだぞ、と彼は独りごちる。おかげで隠遁する時に実行しようとした計画が先延ばしになったのだからと。

 拠って儂は黙ったままでいる事としよう──独り愉快な心持になって、彼は今度こそ本当に眠りに就いた。

 

※※※※


「碩有様! お待ち下さい、碩有様!」


 自分より歩みの速い青年に、翠玉は回廊を早足で追いすがった。

 純然たる陶風な木造の建物にあって、碩有の装いは異彩を放って見える。それが此処では次期領主の証なのだと聞かされていたが、今彼女自身が抱えている問題も相まって、得体の知れない印象さえ受けた。

 彼が着ている異国渡りの『背広』という衣服、その上着の一部を、必死に掴んで食い下がる。


「何故承諾しておしまいになるのです? 第一、一族の方々が反対なさるに決まっています!」

「御館様である祖父の決定に、抗う者はおりません。例えお亡くなりになっても、遺言は書面で残されます。側室の譲渡は先代にもあったこと、ご心配には及びませんよ」


 翠玉を振り返りもせず、碩有は静かな言葉だけで反応を示した。


「心配とか、そういうことじゃなくて……っ。貴方はそれでいいのかってことよ! もし他に思う人とかいたら」

「……とりあえず、手を離して頂けませんか」


 掴んだ所がはっきりと皺になっているのに気づいて、慌てて彼女は手を離す。


「ごめんなさい──でも、私は一夫多妻じゃない世界で育ったの。だから……相手の人が悲しむんじゃないかと思って。周りも……」


 碩有は振り返って翠玉に向き直った。頭一つ高い位置から刺さる視線は冷ややかで、威圧感さえ覚える。

 何年か前に一度会ったきりで、彼女にとっては久しぶりの再会である。以前は親切にしてもらったと思うが、こんな冷たそうな人だっただろうか。

 夫の言葉通り、立派な青年ではあるけれども──


「僕の恋愛にまで配慮頂かなくても結構ですよ。……色々と方法はあるでしょうから。それより祖父についていてあげてください。医師から話は聞いていると思いますが、ああ見えても本当に危ないのです」


 素っ気無く言い置いて、碩有は元通り歩き出した。その昂然とした背中を、絶句したまま見送る。


──そういうこと。


 庶民育ちの翠玉は、父に母以外の妻がいることなど想像出来なかった。両親は仲も睦まじく、彼女自身いつかは一人の男性と家庭を持つことをなんとなく思い描いてはいたものだ。そういう環境で陶家に入るまで暮らしてきたから。

 六天楼に現在、他の側室はいなかった為失念していた。高齢になって尼僧院に入ったり、氏族の者に下げ渡されたとは聞いていたけれども──ここでは、側室を持つのが当たり前なのである。人格者で聞こえた碩有でさえも、所詮は貴族の男なのだろう。

 冷たい態度は、暗に自分がお飾りの正妻になることを示しているように思えて──何だか哀しくなった。


──いいわ。それならそれで、尼僧になったと思って役目を果たせばいい。


 怒りなのか悔しさなのか、よくわからない気持ちを追いやって、彼女は夫の寝室へと引き返して行った。


※※※※


 医師の宣告を不幸にも裏切ることなく、その後間もなく戴剋は七十八年と五ヶ月の生涯に幕を下ろした。

 葬儀は盛大に執り行われた。領民も平和な治世の一つの終焉しゅうえんを粛々とした面持ちで受け止めていたのか、参列を許されないはずの葬儀の場に、遠まきに群がる人々の姿もかいま見られた。

 それは陶家の中でも言うまでもなく、翠玉を始め一族の者は一年間喪に服すこととなった。間に遺言は公開され、彼女の期待は外れ碩有の言葉通り、否と申し立てる者は誰一人いなかった。

 新たに当主となった碩有は、同時に宣言した。

 一年の喪が明けたら──その時は翠玉を正妻として迎えると。


 そして四つの季節が通り過ぎ、やはり彼女の期待は外れることとなったのだった。





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