五 季鴬と槙文
「翠玉様……炉に火を入れても宜しゅうございますか? 急激に冷えて参りましたし」
それまで黙って時折様子を窺っていた紗甫は、いくら経っても主が長椅子に座ったまま身じろぎする気配がないので、いよいよ心配になって来た。
翠玉は手に書物を持っていたから、表向きは読書に没頭しているかに見える。例え頁が開いてから一度としてめくられていなかったとしても。
「翠玉様」
重ねて聞くと、彼女はまるで初めて房内に侍女の存在を認めた様に驚いて顔を上げた。
「え、ええ。そうね。そうしてもらえる」
曇り空は夕方になっても回復する事なく、春とは思えない寒さである。故に昼を境に雨戸も閉めてしまい、室内はもう灯火が灯っていた。
ぼんやりと侍女の火興しを眺めていた翠玉だったが、不意に「消す時はどうやって消したらいいの?」と尋ねた。
鉄の格子扉を閉め、中の火がきちんとはぜているのを確認して紗甫は振り返る。
「おき火がなくなれば自然に消えますが、急に消したくなった時はこの把手を右に回してください。中の換気が切り替わって、炭に蓋がされますから」
指で示された炉の飾り縁の上に付いている小さな金具を、翠玉はしげしげと眺めて頷いた。
「でも危ないですから、私を呼んでくださいませ」
「ええ、わかったわ」
にっこりと笑う主にどうやら安堵して、紗甫の表情もまた明るくなった。
けれど卓に置かれた食膳の様子を見て、すぐにそれは消し飛んでしまう。
「翠玉様……」
「ああ、ごめんなさい。今日はどうも食欲がないみたいなの。下げてもらえるかしら?」
普段なら滅多に出された食事を残す事などないというのに、膳の中身はほとんどが箸を付けられないままである。
それでも作業などで熱中して、という場合には遅くなっても必ず後から平らげるのだが──娘は主の気丈さが、見せ掛けのものなのだと気づいた。
阿坤を連れて朝方外に出た後、すぐに帰って来た時翠玉は泣いていた。
しばらく一人にしてくれと言われて席を外したものの、心配になった紗甫は気づかれぬ様、実はこっそり次の間から中を覗いたりしていたのである。事情を阿坤に聞こうにも、元々あまり多くを語らない女性なのでこちらで察するしかなかった。
「奏天楼に行きました」という短い報告と、主の涙で。
「……今日はもう寝ます。火は自分で消せると思うから、支度をしてくれたら退がって構わないわ」
使用人にさえ気を遣う翠玉は、何もかも紗甫に打ち明けるというわけではない。
今ばかりはその優しさを寂しく思いながらも、紗甫は異を唱えずに食膳を手に掲げ、房から立ち去った。
※※※※
実は見た目ほど、翠玉は悲しみにくれているわけではなかった。
こちらに戻ってしばらくは泣きもし己を責めてはいたのだが、その内にふと、今回の仲違いの発端が自分の婚約者との再会にある事に気づいた。
自分がそうであった様に、夫にも触れられたくないものが存在してもおかしくはない。
哀しい事ではあったけれども、幸せな記憶よりも辛い記憶の方が爪痕となって、強く残るもの事実だ。
──問題は、私が知った方がいいのか、それとも知らない方がいいのかという事。
朔行との事はいずれきちんと話をしようと思っているが、碩有はどうだろう。
言われるまで待っていた方がいいのだとは思うのだが──そもそも、今となってはどう仲直り出来るのかわからない。
謝っても解けなかった怒りは、どうしたら解けるのだろうか。
こうして食事も忘れて考え込んでいるうちに、瞬く間に日は暮れ夜も更けていった。
いくら自分だけで考えても答えは出ない。紗甫も寝支度を終えて出て行ったのを見て、諦めて眠ろうと炉に近寄った。
何処からか奇妙に響く音が聞こえる。
──庭から?
こつん、と小石が当たる音に思えた。
「まさか──」
翠玉は雨戸の閂を外し、勢い良く押し開ける。
「こんばんは」
来てしまったわ、と季鴬が外套を羽織った重装備な姿で庭に立っていた。
「どうなさったのですか! こんな寒い日に。お身体を壊しますよ」
「とにかくお上がり下さい」と脇に避け促した。鷹揚と言うべきか、遠慮する気配もなく彼女は階を上がって房に入る。
「良かった。門前払いをされるのではないかと、少しだけ心配していたのよ」
ああ寒い、と身を揉む様にして炉に近寄り掌をかざした。
「此処は暖かいわね。私の所は火を入れていないから、寒くてしょうがなくて」
「何か暖かい飲み物でも、持ってこさせましょう」
椅子を勧めつつ戸口に向かおうとした翠玉を、彼女は手をかざして押しとどめた。
「お構いなく。私が此処に来ていると使用人に知れたら、困るのは貴方じゃない?」
「……そう思うのでしたら、何故おいでになったのですか」
「喧嘩しているのでしょう? 側室もいないのに二日連続で来ていないなんて、そうとしか考えられないわ」
翠玉は義母をねめつけた。多少不機嫌でも罰は当たらないだろうと思った。
「質問しているのは私の方です」
「だからよ、だから。あの子が何故ああなってしまったのか、話しておいた方がいいと思ってあえてやって来たってわけ」
「第一、もし此処に碩有様がおいでになっていたらどうなさるおつもりだったのですか」
人の気も知らないでよく言う、と刺刺しい質問を投げると季鴬は挑む様に笑う。
「小石を投げても中から反応がなければ、お取り込み中だと思うつもりだったわ」
言葉を失って、翠玉は隣の椅子に座り込んだ。
「……お話を伺います」
まあきっと私のせいなのは間違いないと思うのだけど、そう苦笑を浮かべて季鴬は話し始めた。炭がはぜる音がして、炉の中から漏れる炎の明かりが彼女の頬を照らしている。
「昔話よ──ある一人の愚かな女の、長くて退屈な思い出話」
嫋嫋たる声音で紡がれだしたのは、眠れそうにない夜に──いかにも似合いの物語だった。
※※※※
四番目に生まれた娘だから「季鴬」と、名づけられたと聞いている。
上は男ばかり三人兄弟。ただ一人の姫として、甘やかされて育ったという自覚がなかったわけではない。兄達はいつも季鴬を遠出に連れて行ってくれたし、父や母も欲しいものは何でも与えてくれた。
ただその嗜好は少しばかり偏っていたから、よくある着物や瓊瑶の様なものではなかったけれども、より手に入れにくいわけでもない。山野を駆けずり回って育った娘は、鳥や野草についての書物が大好きだった。瓊瑶よりも川に転がる石を集めるのを望んだ。
ともあれ彼女は十八の歳まで、自然豊かな鄭家の領地で何不自由なく過ごしたものである。──以前交わした約定通り、陶家に嫁ぐ日がやって来るまでは。
口さがない彼女付きの侍女は、陶家を「格下の成り上がり」と陰で蔑んだ。確かに歴史は鄭の方が大分古いと、母ですらも言っている。それを嘲る理由はよくわからなかったが、何処か頭の隅にあったのかもしれない。
だから季鴬は、夫となる槙文を初めて目にした時思ったものである──これからはこの優しげな人が、家族の代わりに私の世話をしてくれるのだと。
「野遊びが好きだと聞いていたけど、貴方の肌は白いのだね」
嫁して最初に肌を許した時に、その白さを褒めて槙文は微笑んだ。破瓜の衝撃に微笑み返す事は出来なかったけれど、言葉は印象強く彼女の記憶に残っている。
思えばあの時から既に、夫に笑顔を向けられない日々は始まっていたのかもしれない。
楼から一歩たりとも出られないという閉塞した環境は、想像以上に辛いものだった。
此処には自分を慰めるものが庭の木々しか存在しない。あんな人工的に植えられた生命を愛でろと言うのか。憤りは募るばかりだった。
陶家の次期当主槙文は一人息子で、元々係累の寡い一族だという。
多産で知られる鄭家の血筋を迎える理由はわかりきっていた。季鴬自身も、夫人はそうあるものだと教えられていたのだ。子を生し、出来るだけ多く育てる。それだけの役目だ。
故にこそ不満に耐えかねたのは、槙文に側室が多い事だった。
「父親の戴剋様程ではないが、血は争えぬ」と、家人の口の端に上るだけでも両手に余る側室を持ち、全てに平等に寵愛を分け与えているという。
それは困ると思った。
側室に割く時間の分だけ、自分が跡継ぎを設ける可能性が減るではないか。これでは何の為に生国を離れたのかわからない、と。
「側室の方に通うのを、せめて世継ぎが出来るまで控えてもらえませんか」
臆面もなく夫に申し出たのは、ひとえに愛情がない事の証だったが、本人はまるで気づかなかった。いつも細やかな気遣いを見せ愛想の良い槙文はからかう様に、
「貴方の言葉が嫉妬から出ているのならば言う通りにもしようが、そうでない以上は聞けないな。彼女達の方がよほど私を必要としてくれるからね」
と全く取り合わない。
「良いのかしら。世継ぎを必要としているのは、私ではなく陶家でしょう?」
年上でしかも夫という目上の立場であるにも関わらず、季鴬はいつも彼に対してそんな態度だった。この優雅な魅力を振りまく青年は、何故かいるだけで彼女の苛立ちを誘うからだ。
自分には許されない自由を持っているからだろうか。気ままに好きなだけ、行きたい所に行けるという。
皮肉の応酬の後、決まって槙文は苦笑し、妻の顎に指を掛けこう言うのである。
「まだまだ子供だね。もう少し大人になったら、自然に世継ぎが授かるだろう」
何を世迷言を、と季鴬は房を去って行く広い背中を冷たく見送りながら嗤った。
大人でなくとも身体が成熟し、行為さえあれば子供は出来るというのに。
槙文が傍目には良き夫であるのは──貴人の常識の範囲内では──どうやら間違いがなさそうだった。様々な贈り物を欠かさず、異国出身の妻が過ごしやすい様にと故郷の内装を房に取り入れる。暦を見ているのかというほど判で押した様な訪ない。遠ざかるでも、執着するでもない。
他の女性に対しても同じ事をするのか、と聞いた事もあった。月見をしていた夜の話だ。
「まあそうだね。他の人たちはもう少し喜んでくれるけど」
「貴方は私を喜ばせようとしているの? それとも怒らせようとしているの」
「その言葉はそっくり返すよ。全く季鴬と来たら面白いね。今ぐらいは情緒というものを汲み取って欲しいな」
まるで亘娥の様だ、と彼は頭上に広がる澄んだ天穹を見て笑った。真円に満ちた月は煌煌と闇を照らし、雨戸を開けた房は灯火がなくとも明るい。
「ではご自分は差し詰め猊とでも言うおつもり?」
華やかなおおらかさと博い情。灼熱のそれではなくとも、春の日和程度なら似つかわしいかもしれない。秋や冬の憂いを決して知る事などない光輝だ。
「まさか。猊ならば亘娥には触れられないからね……」
弓の名人でもあった猊は誤って天を射抜いてしまい、天の神尭卯の罰を受けて妻に永遠に会えなくされる。だから日と月は同じ時に姿が見えないし、見えても昼の月は顔色が悪い、という謂れだ。亘娥に会えなくなった猊は己の行動を悔いたが、彼女は不名誉を受けたと夫を憎んでいる為だという。
一体いつまでこんな事が続くのだろう。
伸ばされた手に身体を委ねるしかないというのに、幾度迎え入れても一向に夫の肌は己に馴染まない。
女性の身体を知り尽くしているであろう愛撫も、広がって行く彼女の内なる空洞を埋める事は出来なかった。