四 掛け違えたもの
それは真に娥玉に相応しい持ち主だった。
娘にも老女の様にも見える、年齢不詳の美貌。月の女神亘娥もかくありきと言う風情の女性だった。
娥玉は元々「月の庇護を受けた瓊瑶」として有名だと、後で紗甫に聞いてみると教えてくれた。流石六天楼で働く良家の娘だ。
娥玉は知らなくとも、亘娥は庶民の間でも信仰されている。日輪は猊と呼ばれる男神が、月は亘娥が司るという自然崇拝の神話。
「どうして私の名を?」
外見を裏切らない涼やかな声は、仄かな明かりの宿る庭で余りにも現実味がなく。
幽玄の中でさえも色濃く、よく知る人の面差しを浮かび上がらせていた。
「そ、それはちょっと。聞いた事があったものですから」
「私の話を?」
季鴬は首を傾げる。
「あの子が母親の話をするはずはないし、おおかた魔物か幽霊ぐらいの扱いかしら。どちらにしてもすっかり忘れ去られたと思っていたわ」
皮肉めいた言葉が翠玉を現実に引き戻した。
返答に困って黙っていると、何故か逆に相手の方が決まり悪そうにする。
「あ……またやってしまったみたいね」
碩有の母親ならば少なくとも四十は間違いなく越えているはずなのに、悪戯を見つかった少女の様に口をとがらせた。
「私はどうも口が悪くていけないの。別に貴方をどうこう言うわけではないから、気にしないで」
ありがとう、と手を差し出して季鴬は優婉に笑った。
「耳飾りを拾ってくれて。とても大切なものだったの」
月明かりにさえ輝くその貴石を受け取り握り締め、すぐさま自分の耳に付ける。一瞬翠玉は彼女が泣き出すのではないかと思った。口元は笑みを形作っているというのに。
「……思い入れのあるお品なのですね」
きっと恋人からの贈り物だったのだろう。普通に考えれば、碩有の父親からという事になる。
夫の両親の恋愛を思い顔を綻ばせた翠玉を、迎えたのはだが複雑そうな瞳の色だった。
「ええ、忘れてはいけないものだという点ではすごく。思い入れというよりは妄執ね」
「──え?」
「何でもないわ。ところで貴方は今日一人みたいだけど、あの子とはどう、上手くいっている?」
翠玉はすぐには返事が出来なかった。不躾な内容と、痛いところを突かれたと思ったからというのもある。
「私、まだ名乗ってもいないと思うのですが」
ようやく切り返すと、軽やかな笑い声が起きた。
「ここは六天楼の主人が住まう房ですもの。側室なら別の房に入れられるし、夜中にそんなあられもない姿で房から出て来るなんて、当主の夫人しかありえないわ」
「そ、そうですね。なるほど……」
絹の寝着に褂を羽織った姿をあられもないと言われれば、確かに紗甫などはそんな恰好はしないだろうと思った。
さらに言外の意味を汲み取れば、この人はかつて此処に住んでいたはずだ。見覚えがあって当たり前だろう。
「最近の邸内の話はあまり聞いてないから、詳しくは知らないけど。早いものよね、もう夫人を迎えたなんて」
季鴬の眼差しは遠く、何処か別の場所に思いを馳せているかに見える。
領主が結婚する年齢としては、二十五歳は決して早い方ではない。
この辺りでは、庶民でさえもおおむね二十歳前に結婚するのが慣例だ。
それは男女の別を問わないし、貴人ならば尚の事、政略的な思惑も絡んで婚約なども早く、十代での婚姻も珍しくなかった。
「碩有様は御年二十五にお成りですが……遊学なさっていなければ、二十歳にはご結婚なさっていたでしょう」
戴剋の思惑など知らないままな彼女は、ただ前夫が側室の処遇を案じて計らっただけだと思っている。
もし二十歳の頃なら祖父は存命だ。自分などとは結婚しなかったのだろうな──想像が飛躍して勝手に少し切なくなりそうなのを慌てて振り払った。
それにしても明らかに高貴なこの女性は、息子の年齢をまさか覚えていないのだろうか。
夫から父親はともかく、そう言えば母親の事を聞いた覚えがない。
なのでこちらからもあえては聞かず、漠然と亡くなったのだろうと思っていた。──だが。
「そうね。でも私が言うのはそんな意味ではないのよ。あの子が貴方みたいな伴侶を得られる日が来るなんて、と思ったの」
あの子は私の血を分けた人間だから。
呟くとやはり先ほどと同じほろ苦い笑みをひらめかせた。
何か言おうと翠玉が口を開いた一瞬に先じて、季鴬は「此処は冷えるわね」と身を縮める。
「今日は本当にありがとう。良かったら明日にでも、私の住まいにいらっしゃらない? 改めてお礼もしたいし」
「いえ、そんな。ただ拾ったものをお返ししただけです。お気になさらないでください」
「じゃあ、気軽に来て話し相手になってもらえる? 実は私、長く世間から離れていたの。貴方みたいな方が訪ねてくれたら、鉦柏楼も華やぐわ」
それじゃあ、と片手をひらひらと振って彼女は来た時同様、闇に溶け入る様に去っていった。
遠慮がちに手を振り返して見送り、翠玉は房へと戻る。身体がすっかり冷えてしまっていた。
何処か腑に落ちない。
──亡霊と囁かれるからには、もっと奇矯な人物を想像していたのに。
全くそんな風には思わなかった。人懐こい、いかにも育ちの良さそうな女性ではないか。
ただ季鴬の印象と、何処か陰りを見せる言葉の数々は落差があり、翠玉の興味をかきたてた。
──明日、鉦柏楼を訪問してみよう。
阿坤は「禁じられている」と言ったが、住人に許可をもらったのだ。今度は駄目と言われはしないはずだ。
翠玉は籠に丸まって眠る莉を抱き上げ、寝台へ持ち込みながらそんな事を思った。
※※※※
「駄目です」
あくる日の朝、食事を終えるや否や鉦柏楼へ行きたいと告げると、阿坤はにべもなく答えた。
「どうして! 季鴬様が『来てほしい』って仰ったのよ。一体何の不足があって」
「鉦柏楼に人が入るのを禁じているのは、棲んでいる方ではないからです」
「じゃあ誰が!」
言いながらも嫌な予感がして、翠玉は言葉をためらった。
そんな事が出来る者なんて、一人しかいない。
「はい。御館様に許可を頂かなくてはあちらに渡る事は出来ません」
「え、でも確か貴方、『此処は御館様自身も入るのを禁じられている』って」
「だから、でしょう。詳しい事情はわたくしにはわかりかねますが。どうしてもと仰るのであれば、許可を頂いて下さいませ」
槐宛ならばともかく、恐らく他意はないのだろうが──皮肉だろうかと勘ぐってしまう。
夫を遠ざけてから早三日目、もはや完全に仲直りする時機を逃してそのままにしてしまっていた。
最初の頃こそ感じていた憤りも冷え、今ではあちらに落ち度があったわけではないとさえ思えている。
だからこそどれほどに怒っているかと恐れて、つい後回しにしたいという逃げと、会えない寂しさとの板ばさみになっていたのだが。
「……わかったわ。許可をもらってくれば良いのでしょう。付いてきて」
「どちらへ」
「もちろん決まっているじゃない。──御館様の所よ」
今ならまだ執務に向かう前だろう。翠玉は庭に降り立った。
邸の当主が棲まう東の奏天楼は、彼女が起居する西楼とちょうど向かい合う位置にあった。
普通に行くと、各楼を繋ぐ廊下を渡り南か北の楼を通り抜けなければならず、家人に出会う機会も多い。
格式ばったものに未だ慣れない彼女にとって、庭をまっすぐ突っ切った方が話は早いと思われた。
──大分庭の様子もわかって来たし、迷わなければすぐに着けるもの。
阿坤も今度は反対せず、黙って後に付き従っていた。
薄曇りの空のせいか庭はやや暗く、邸の中も今日はあまり良く見えない。
それでもほどなく見えてきた建物の中、開いた房の奥に目指す人物の姿を認めると翠玉の心は躍った。
──碩有様。
長椅子に斜めに座って肘掛に腕を投げ出すという格好は、疲れて見えた。いつも姿勢の悪くない彼には、らしからぬものだ。やつれていて尚色気さえ感じる姿が、まるで知らない人の様に新鮮に映る。
翠玉は自分が妙に緊張しているのを感じた。心臓が早鐘を打っている。
その存在から目が離せないのに、同じくらい息苦しくて逃げ出したい。
「奥方様、お時間が」
背後からの冷静な囁きに弾かれ、足を進める。
階近くに立つと、踏みしめた砂利が音を鳴らした。
「碩有様」
掛けた声があまり上ずっていなかった事に、翠玉は己を褒めてやりたかった。
驚きに目を見開く夫と、更に奥に控える朗世がこちらを凝視している。
「おはようございます。あの、朝から申し訳ないのですが、すぐに終わりますのでお時間を頂けませんか?」
明らかに歓迎されていない雰囲気は、彼女を打ちのめした。
やはりお怒りなのだろうか。それとも単に執務前に邪魔が入ったのを非常識だと咎めているのだろうか。
返事がない無言の間にそんな風に考えていると、二人が何やら耳打ちするのが見えた。
次いで朗世が一礼して房から出ていく。
碩有は椅子にもたれた体勢のまま、感情を窺わせない眼差しをこちらに向けた。
「それで、いきなり何の御用ですか」
──ああ、やはり怒っている。当り前か。
いたたまれない己を叱咤しつつ、言葉を探した。
「……先日は済みませんでした。追い出したりしてしまって、反省しています」
彼はこめかみを押さえていた右手を離し、少しばかり姿勢を正して座り直した。
「とりあえず──中に入ってください」
断られたらと内心気が気ではなかった翠玉は、そうと知られぬ様息を吐いた。黙って庭に控える阿坤を待たせて、房内に入る。
「座らないのですか」
長椅子の空いた部分をちらりと見るものの、腰を下ろすのをためらっていると怪訝そうな声がした。
「いえ……すぐにお暇しようと思っていますので」
「立ち話も忙しないでしょう。それとも、何か急ぎの用事だったのですか?」
これから執務に向かう時間のなさを配慮したつもりの言葉だったのだが、どうも雲行きが怪しくなってしまった。慌てて碩有の隣に座る。
「急ぎといいますか、早い方がいいと思って」
仲直りは。
きっと自分は、先に仲直りをしたかったのだと気付く。
季鴬の話もいい口実でしかないのではないかと、いざ会いに来てみるとそう思えた。
だが今さら引っ込みも付かない。傍らの人物が「じゃあ早く話せ」という苛立たしげな気配を放っている。
こんな冷たい態度は久しぶりで、どうしていいものか判断に困った。
「実は季鴬様からお招きを頂きまして、鉦柏楼にお邪魔したいと思うのですが」
許可を頂けませんか、そう続ける前に「駄目です」という返事が返って来た。
「ど」
理由を聞こうと尚も口を開いた翠玉は、夫の表情を見てそのまま何も言えずに閉じるしかなかった。
これはものすごく怒っている!
「……こんな時間にやって来るかと思えば。貴方はよほど他人が気に掛かるのですね」
真っ直ぐこちらを見下ろして来る黒い瞳は、強い怒りを伝えて余りあった。
背筋が凍る思いをしながらも、この表情は以前にも見た事があると記憶を巡らす。
同じ目をしている。墓参りから帰った後、彼女に荒々しく迫ったあの時と。
違うのは、今回夫は自分に触れていないという所だった。
「私がいるだけでは駄目なのですか」
「──だって、貴方のお母様なのでしょう。他人ではありません」
「あれは母親などではないのです」
ようやく碩有自身の口から出た季鴬についての言葉は、衝撃的なものだった。
「噂なら聞いたでしょう。その通りなのですよ。取り戻せもしない過去に縋り、周りの事など顧みもしない。亡霊と言うに相応しい──あの人の時間は、もう止まったままなのだから」
碩有は立ち上がり、「話がそれだけでしたら、お帰りください」と庭にいる侍女に顔を向け促した。
「仕事に向かいますので」
またいずれとも言わず、妻が房を去るのを黙って見送る。
「──奥方様」
余所余所しいばかりの態度に、触れられる事も。
すぐ傍にいるというのに、触れる事も叶わないなんて。
侍女の問いかけに何も言わず来た道を引き返す翠玉の目元から、小さな雫が零れ落ちていった。
脚注:褂はあてルビです。