三 亘娥(こうが)の誘(いざな)い
奏天楼の執務房は沈黙に包まれており、大抵の事では動じない朗世でさえも、これはおかしいと思わざるを得なかった。
主碩有はいつも通りに椅子に座って、尚且ついつも通りに仕事をこなしている。表情も仕草も声音一つも、全てに特に表立った変化は見られない。山積みになった地方領土についての洛庁からの書類を、正確迅速に処理していく。
だだ広い室内には、主と彼の二人きりであった。他には壁際に置かれた獅子や龍を象った彫像や、座る者のない黒檀の長椅子がいくつかといった、人でないものばかり。つい先ほどまでいた部下達も、用事もないと退出させてしまっていた。
それにしても、入室する者達が後に口を揃えて「御館様は何かあったのですか」と自分に聞いてくるのはどういうわけか。
「御館様」
「何だ」
「そろそろ一休みされてはいかがでしょう」
「何を言う。ついさっき昼餉を摂ったばかりではないか」
言いながらも、彼の視線は書類から上がりもしない。
隣の卓に向かって認可印を押された書類をまとめる手を止め、朗世は軽く息を吐いた。
「もう夕餉の時刻になりますが。一休みというよりは、終了なさっても良いくらいのお時間です」
碩有はすぐには返事をしなかった。
数十箇所ある陶家の領地の細かな手続きの書類に、この青年領主は全ていちいち目を通している。その日に来た全てを処理するのはどだい無理というもの、いつもなら時間を区切って仕事を終わらせているのだ──夫人との夕餉に必ず間に合う様に。
朗世は邸全てに独自の情報網を持っており、当然六天楼にて主が夫人と仲違いしたのも知っていた。それが結婚以来初めてのものだろうという事も。
けれど私事については彼自身あまり関わりがないので、一昨日から取り憑かれたごとく働き続ける碩有に、諫言するのは正直面倒だと避けていたのだが──
「あまり無理をなさるとお身体を壊しますよ。気晴らしに何かされるなどして、そう根をお詰めになりませんよう」
「……無理などしていない」
碩有は溜息混じりに力なく答える。
「私に出来る事は、今のところこれしかない。だからそうしているだけだ」
「領主があまり働き過ぎると、部下の仕事を奪います」
素っ気無く言い放った朗世に苦笑して、彼は持っていた印璽をようやく印座に戻した。
真っ直ぐに下ろしていた両脚を組んで、繻子張りの椅子の背もたれに上体をもたれかける。肘掛けに腕を投げ出し、くつろいだ姿勢で隣の席を振り返った。
「お前の家族は、変わらず息災なのか? 最近話を聞かないが」
突然の自身への話題変えに、朗世はやや怯んだ。彼にとって実家の話題はあまり持ち出して欲しくないものだったからだ。
領主の片腕と名高いこの青年は、結構な上流家庭の出自だった。戸主は洛庁の上官を務めた者なども多い。
父親もまた結構な地位まで上り詰めたが、人格者で有名な人物だった。息子が奏天楼に入ると同時に「閥を作るに能わず」と隠遁し、郊外で妻子ともども静かに暮らしているという。
「お蔭様で、息災でございます。祖父は大分耳が遠くなったそうで、声が大きくて周りは難儀していると。その程度の便りしか来ません」
「常々不思議だったが……どうしてあの絵に描いた様な仲良し家族から、お前の様な息子が出来上がったのだろうな」
朗世はぴくりと片眉を上げる。
「あまりお褒め頂いているとは聞こえませんが、意図をお知らせ頂けますか」
「いやいや、褒めているのだよ。何にせよ、家族というものは良いものなのだろうな。翠玉を見ているとそんな気がした」
つい先日冷たくあしらわれたはずなのに、何を思い出したのか碩有の表情は柔らかく和んだ。
「墓参りに行った時、墓石に向かって色々と語っていたのだが……仲の良い親子だったというのが伝わって来た。私はそういうものを知らないのでな、お前ならわかるだろうと思って」
朗世は──彼にとっては非常に珍しい事に──僅かにうろたえる気配を見せた。
即決即答が当たり前の有能さがまるで嘘の様に、長い静寂を作り出してしまったのだ。
「……御館様と戴剋様も、それに琳夫人もご家族ではないのですか」
精一杯考えて、ようやくそれだけしか出なかった。
「そうだな」
やや苦味の残る、紛れもない恋する者特有の笑みを碩有は浮かべる。
「あの人もそう思ってくれているなら良いんだが」
「当然でしょう。畏れながら、喧嘩するという事はそれだけ夫人がお心を開いているのだと、私などは思います」
今まであえて触れずに来た「喧嘩」という本題を、朗世は遂に持ち出した。
押さえている様に見えても、結局主は自分相手にこうして心情を吐露する事になるのだ。
全く勘弁して欲しいと思う。どうせならば、もっと大人で男女の機微に長けた園氏辺りに相談すれば良いものを。
ああだが奴はまた領土の視察に派遣されていたか──そう内心独りごちて、彼は次に来るであろう反応を待った。
「果たして開いてくれていたのだろうか。あんな哀しそうな顔は、初めて見た……」
憂いがちに遠い目をする碩有こそ、ひどく哀しそうに見える。これほどに妻を案じている夫が、何故当の本人の心証を損ねるに至ったのか謎だ。
予定外の機会だったが、朗世は切り札を出す事にした。
「実は御館様。その琳夫人ですが、侍女の阿坤の話では昨日の散策の途中に鉦柏楼を発見されたご様子です。戻って槐苑殿にも色々お尋ねになっていたそうですが、教えなかったと」
案の定、碩有の顔から憂いの色は瞬く間に取り除かれた。代わって訪れたのは、戸惑いと驚愕。
「全く好奇心旺盛な人だ──あの方は、日中は外に出る事などないだろうが」
「あの人」ではなく「あの方」に変わったのは、指し示す相手が翠玉ではなく季鴬に変わったからである。本来使うべき呼称を使わない所に、彼の複雑な心理が表れていた。
そもそも『鉦柏楼に亡霊が出る』とまことしやかに囁かれるのは、きちんとした理由がある。今現在主となっている人物は、時折夜に出歩く姿が目撃されているからだ。
「逆に夫人は夜は流石に歩かれませんでしょうから、ご懸念には及ばないでしょうが。念のため報告申し上げておきます」
碩有は黙して答えなかった。心なしか、気分を害してさえ見える。
立ち上がり無言でてきぱきと書類を片付け始めた。
「今日はこれでやめよう」
──とりあえず、もの思いからは開放されたらしいな。
季鴬が絡むと、何故か主はいつも思考を停止させる。
朗世は己の奸智を喜ぶべきか、はたまた嘆くべきか判別がつかないままに後に従った。
※※※※
広い寝台の中で、翠玉は眠れずにもう幾度目かの寝返りを打った。
見ない様に見ない様にとしていたのだが、つい隣の空間に目が行ってしまう。
──自分で仕向けたくせに。
その度に自分を叱りつけた。自業自得なのだから、たった数日の独り寝くらい我慢出来なくてどうするのだと。
けれどもしばらく振りの静か過ぎる夜は心もとなくて、おかしな事に二人で眠る前よりも寂しい気がする。
ともすれば包まれるあの優しい腕の感触を思い出しそうで、彼女は思い切って寝台から抜け出す事にした。布団の上に掛けてあった褂を羽織って、帳をくぐる。
雨戸を閉め切った房内には月の光すら入らず、辺りは暗闇に閉ざされていた。
長卓の上にある飾台をようやっと探し当て火を灯すと、人心地ついた代わりに寒さが身に沁みる。
春半ばでも夜はまだまだ寒いのがこの地方の常とはいえ、こんな時にはひどく応えた。
どうやら貴人の家というものは火鉢など使わないらしく、生家で冬に役立ったそれを翠玉が手にする機会はなかった。
代わりに大きな炉というものが壁に据え付けられているが、これを使うには紗甫を呼ぶ必要があるだろう。
──莉でも一緒に布団に入れば、少し違うかもしれない。
そう思って部屋の隅で眠る愛猫の籠に近づこうとした時だった。
庭で物音がした気がした。
木の枝を踏んで折った様なささやかな音だったが、夜の静寂に明らかに何者かの存在を知らしめるものだった。
──ふ、不審者?
一瞬恐怖に駆られたものの、雨戸は頑丈な上にどこもかしこもきちんと施錠されている。
心配せずこのまま寝てしまえばいいのだと思いなおした。しかし。
──何がいるんだろう。
しばらく考えた後、彼女はこっそりと次の間に移動する事にした。あそこなら小さな華頭窓があった筈だ。
釣鐘形をした華頭窓は、外側に飾り格子がはまっていて頑丈だ。透き見なら出来るが、子供の腕一本程度しか通らない造りである。
内側の引き戸を音を立てない様に開け、恐る恐る庭先を伺う。
どうやら今日は満月らしく、ようやく闇に慣れた目には思いの外明るく景色が映った。
「……あっ」
月明かりの中くっきりと浮かび上がる、白い人影。陰影で黒く見える木々のはざまを縫って動くそれは、現実離れしていて精霊とも見紛う。
女性に見えた。頭から白い布を被って顔を隠してはいるが、光に透かされた輪郭は華奢な顔立ち。そして腰まで届く黒髪が、動きにつられてしなやかに揺れている。
──一体何処の何方なのかしら。
初めて見る人物だろうとは思った。使用人ならばこんな時間に出歩く不心得者はいないだろうし、陶家の一族は今現在、この本邸には碩有しかいないと聞いている。
本来多数いるだろう側室のたぐいも、今は一人として存在していない。
──いや。他に考えられるものはあった。
確か『出る』と、槐苑は言っていなかったか。
「もしかして、あれが季鴬様……?」
鉦柏楼から出ないと言われている謎の人物。同じ場所にある亡霊の噂。そう考えるのは無理のある事ではない。
供も連れないのが多少気になるものの、自分も似たような真似をしている。何故かあまり恐ろしいとは思えなかった。
もっと良く顔が見えないかと窓に頬を押し当てると、半端に引かれてあった内戸が肩に触れ、音を立てた。
同時に庭にいた人物は、何かに弾かれた様に踵を返す。
──こちらに気づいた?
あっという間に視界から消えてしまった『亡霊』に呆気に取られながら、翠玉は窓の外をしばらく見つめていた。
──確かこの辺りだったはず。
明くる朝、彼女は食事を摂るや否や無理やり阿坤を呼び出した。庭に出ると、見当を付けた辺りを丹念に調べる。石畳のちょうど境目、芝草の植え込みがあった。
「何かお探し物ですか? 奥方様」
「ええ。ちょっとこの辺りで落し物をしてしまって」
半分上の空で返事をしながら草むらに視線を這わせる。しばらく彷徨っていたそれが、ようやく目当てのものを捉えた。
「……あった!」
それは瓊瑶の付いた耳飾だった。
昨晩例の女性(恐らく)が去って行く時に、小さな光が地に落ちるのを確かに見た。
透明感のある白い瓊は、中心近くが多色に光っている。のみならずそのものが紋様の形に彫られていて、細工の見事さは明らかだ。幾つもの種類の瓊瑶が下に連なっていて、相当の貴人の持ち物だと思われた。
──やはり、あれは亡霊などではなかったのだわ。
「これ、なんて言う瓊瑶か知っている?」
「わたくしに聞かないでくださいまし。奥方様の落し物ではないのですか」
「あ! そうそう。そうなの、何でもないわ」
阿坤の眼光鋭い切り返しに慌てる。
調べるにはもっと違う手段を取らなければと、翠玉はその後槐苑が来るのを待って卓のよく見える場所に、さりげなく拾った耳飾を置いておいた。
「奥方様、これは一体──」
予想通り顔色を変えて詰め寄る老婆に「ああ、今朝庭先で見つけたのですが、持ち主がわからないので其処に置いてあるのです」と平静を装って答える。
「もしかして槐苑様、お心当たりがございますか?」
「い、いや、儂は知らぬが。御館様ならばご存知かもしれませんのう。娥玉の耳飾など、よほどの貴人でなければ身に付けませぬからな」
昨日の今日なので、明らかに仲直りさせようという発言なのは明らかだ。だが後半の言葉で充分目的は果たした。
翠玉はにっこりと笑う。
「そうですわね。では今度お会いした時にでも、聞いてみましょう」
しかし彼女が実際にしたのは、紗甫に娥玉について聞く事と、その日の夜に再び同じ時刻を狙って庭先を見張るというものだった。
──この耳飾の持ち主は、きっと取り返しにやって来るに違いない。
あまり瓊瑶に詳しくはない翠玉でも、槐苑が「よほどでなければ」というものをわざわざ夜に付けているのだから、かなりの思い入れがあるのだろうとは想像が付く。
本来、耳飾は客を遇するなど公の場でも出ない限り、付けないものだからだ。
華頭窓から時折庭を覗く事しばし、同じ体勢に身体が凝って来たなと思い始めた頃に、ようやく「彼女」はやって来た。
──やっぱり!
視界に白い姿を認めるや否や、翠玉は房に戻り予め鍵を外しておいた雨戸を開け放つ。
「待って! 待ってください──耳飾を探しているのでしょう!?」
音に気づいて即座に逃げ出そうとする人影に向かって、小声で、しかし鋭く呼びかけた。
ゆっくりと振り返る女の姿に息を呑む。
人ならぬものではないかと圧倒されるほどの存在感を、その人は持っていた。
翠玉は自分を叱咤すると、意志の力を振り絞って問いを重ねる。
「ご無礼を承知で申し上げます。──貴方、碩有様のお母君の季鴬様ではありませんか?」