二 怒りの理由
「許されるものなら、少し話をしたいんだ──昔の事とか、あれからどうしていたのかとか、聞かせてはもらえないだろうか」
目を伏せて黙っている彼女の前に、再び出ようと碩有が身体を動かしかけた。
「いいえ」
視線を上げて、翠玉は正面から朔行を見据える。無理やり口角を上げて笑みを形作った。
「あの時貴方がああするしかなかったのはわかっていたわ。だから話す事なんて何もないのよ」
「済まなかっ──」
「謝る必要もないの。今となっては、もう」
言って青年の横を通り過ぎる。
墓に供えられた花を見て、彼を振り返りもせずに言った。
「父は亡くなる直前まで貴方を信じていたわ。会いに来てくれて喜んでいるかもしれない……」
墓標の前にかがみこんで、持っていた花を花台に挿した。黒い石肌を見つめる表情は硬い。
「翠玉──僕は本当は、あの時」
尚も言葉を続けようとしていた朔行は、隣にいる碩有の眼差しに気づいて口を噤んだ。
軽く会釈をして、踵を返し足早に去って行く。
後には静寂だけが残された。
翠玉は何も言わず、黙ってそこに佇んでいる。
碩有が供物台に持っていたものを置くと、小さく礼を言う声が返って来た。
「……今の者は」
「幼馴染なの。父が亡くなった後は家同士が疎遠になったけど……昔はよく一緒に遊んだわ」
「ただそれだけよ」と憂いを帯びた笑顔で、彼岸の家族に向けての言葉が後に続いた。
「長らく来れなくて、ごめんなさい──」
かつて見た事もない儚げな表情で語りかける妻の横顔に、碩有の眼差しが悔しげに歪んだことなど──この時翠玉は全く気づかなかった。
※※※※
どうしてこんな状況になってしまったのだろう。
耳元をくすぐる柔らかい唇の感触に、鋭敏になった膚はおののき既に思考回路は言う事を聞かない。
「……誤、解……ですっ」
必死に自分を保とうと後じさっても、長椅子の肘掛という障害に阻まれ呆気なく限界を悟る。
薄紅色に上気した頬に瑞々しい果実の様な紅い唇。伏せられた黒く長い睫毛を震わせ、嫌悪と羞恥がない交ざった姿が、一層見る者に愛らしいと思わせるなど本人は知る由もない。
「誤解? 何の話ですか」
碩有は顎の稜線を舌で辿り、自らの身体全てで彼女を強く抱きしめた。あたかも、僅かな隙間さえも間に残すのを許さないとでも言っているかの様に。
彼女は顔を背けた。初めて身体を重ねて以来、実はどんな時でも夫を拒んだ事など一度もない。けれど今ばかりは、とてもそんな気にはなれなかったのだ。
外出から帰るなりの突発事、自室に入る前から侍女に人払いをした時点で何かおかしいとは思っていたのだが。まさかこんな風に迫られるとは──予想外もいい所だった。
「碩有様っ……! お願いですから、聞いて下さい」
抗いながらも何とか記憶を手繰り止せて、此処に至る経緯を思い出そうとした。だが夫が器用に片手で帯紐を解きつつも、別の手で着物の裾を探るのが気になってとにかく考えがまとまらない。
碩有にしても、いつもならこんな昼日中から無茶な迫り方をしてくる事はなかった。荒々しい愛撫からも怒りだけはひしひしと伝わってくる。何故かはわからないけれど。
自分が何か怒らせる様な事をしたのだろうか。でも行きはともかく、帰りの車内は全く会話をしなかったのだから、心当たりはあるはずもない。
「何をお怒りになっているのか、せめて仰っていただけません、か……んんっ!」
口を開けば、執拗な接吻に息を奪われる。
入り込んだ舌に蹂躙され、中から甘い痺れが身体に広がって行くのを何とか理性で踏み留まった。
──此処でなしくずしに負けてはいけない!
長い拘束の後ようやく唇を離した碩有を、恨みのこもった涙目で見上げた。
「こ、こんなの。碩有様らしくありません」
「私らしい?」
息を飲む程に美しく、そして冷たく黒い双眸がこちらを見下ろしている。
「これが本来の私なんですよ。いつもは抑えているだけです。相反するものに責め苛まれて……掟を作った領主の気持ちが、とてもよくわかる気がする」
いっその事、と自嘲気味に笑った。
「誰にも手出し出来ない場所に、閉じ込めてしまいましょうか。貴方が他の何者にも、囚われない様に」
掠れた囁きと共に、長い指先が裾の合わせ目に滑り込んで──膝を割ろうとしたその瞬間、翠玉の我慢が限界を超えた。
「い……いい加減にしてください──!!」
※※※※
「昨日より御館様のご機嫌が大層悪いらしい、という噂で奏天楼は持ちきりでございます」
隣に並んで歩く侍女阿坤の淡々とした一言に、翠玉は思わず振り返った。
妻が出歩く時の護衛にと夫の碩有が新たに配したこの女性は、臈たけた外見に似合わず武道を嗜む剛の者である。侍女の着物を着てはいるが確かに身のこなしに隙がない。
顔面までも鍛えられたのかという程表情に乏しいのが玉に瑕だが、素朴な態度は信頼感を与える。少なくとも翠玉は結構気に入っていた。──しかし。
「仕方がないのです。悪いのはあの方なのですから!」
強く言って足を速めたが、脚力の差か阿坤との距離が開く事はない。
二人は住居としている六天楼を離れて、歩きながら中庭を愛でている所だった。折から続く好天、午をやや過ぎた日差しは柔らかく庭の木々を揺らし、整備された石畳と芝に降り注いでいる。
広大な敷地内に四つの楼閣を主殿と建てられた陶家の本邸、翠玉はその主の夫人として楼の一角を与えられていた。
様々な趣向や意匠を凝らした庭園も、今となっては彼女の行動範囲と言っても過言ではない程になじみにはなっているが、方角に沿って季節の庭木が植えられているのを全て見ようとすれば丸一日は掛かる。
散策好きな彼女にとって、庭は格好の退屈しのぎだった。
名ばかりとは言え前の夫であった戴剋は、晩年迎えた側室を決して人目に出そうとはしなかった。唯一の例外が今の夫碩有で、その後翠玉は前夫の遺言によって碩有に嫁す事となった。
年上の妻にひどく優しい今の夫は、邸内をほぼ自由に歩く許可を与えてくれた上、外出時にと洛内でも滅多に見かけない車を彼女用に用意さえした。
もっとも、外出する様な用向きなど実際はそう滅多にあるものではなかったが。
そう、甘すぎるくらいの人なのだ──恐らく基本的には。
「……私はただ、思いもかけない場所で幼馴染に会ったのが色んな意味で驚きだったのです。だから出来れば一人にして頂きたかっただけなのに……」
だから昨日、怒り心頭に達して彼を追い出してしまった。
あまつさえ「しばらく来ないで結構です」という捨て台詞付きで。
側仕えの紗甫は勿論、護衛の阿坤も女主人の叫び声に何事かと馳せ参じ──とりあえず一瞬で状況を理解したらしかった。
即ち、夫婦喧嘩というものであると。
「お気の毒な話ですね」
「でしょう?」
「御館様が」
女主人の困惑の視線にも阿坤は全く動じなかった。
「かつてこれほど自由を与えられた夫人はいないと評判になる溺愛ぶりなのに、嫉妬一つで拒絶されるとは。心中お察し申し上げますよ」
「……そんなに機嫌が悪かった?」
相手が誰であっても歯に衣着せぬもの言いをする彼女の美点にも、今ばかりは多少の決まりの悪さを覚える翠玉だった。
ふと碩有が部下や使用人に八つ当たりをしてはいないか少し不安になる。そんな人ではない筈なのだが。
「大丈夫ですよ。政務はいつもと変わらずこなされています。御気色悪しといえども人に当たる方ではありません。ただ周りの者も毎日見ていればわかるのでしょう。何も言わず、常に険悪な雰囲気を漂わせている位ですからお気になさらず」
「……嫌味に聞こえるのは気のせいかしら……」
とはいえ、此処で折れるわけにはいかない理由もあった。
第一ただ謝っただけでは、本当に自分が軟禁されそうな気がする。
翠玉は思わずため息を付いた。
「何かお悩みでもあるのですか」
「あ、いえ。……問題は碩有様の事ではないの」
「はい。その様にお見受けしましたので」
探る様な眼差しを向けた主人に阿坤はほんの少し苦笑を浮かべた。
「本当に他愛もない嫉妬の諍いならば──奥様の事です、折れる事も造作もないでしょう。それが出来ないというからには、他に何か気まずい理由があるのではありませんか」
翠玉は目を伏せると、すぐには答えず歩を進めた。
「……阿坤は私よりも、私の事がわかるのね……」
ぼそりと呟く。急に沈んだ声音に、侍女は立ち止まり軽く両手を前に組んで頭を下げた。貴人に対する礼を取ったのだった。
「差し出口を申しました」
「いいのよ、怒ったわけじゃないの」
彼女の家は小さいながらも老舗の商家だった。伝統を守り顧客の信頼も篤かったのだが、挑戦心を起こした父親の投機が失敗してからは転落の一途を辿る羽目となった。
不幸とは続くもので、同じ年に近隣では疫が大流行しており、元々あまり身体が丈夫ではなかった母と、年若い弟を呆気なく彼岸へと連れ去ってしまった。
失意のあまり病みついた父を翠玉は必死に看病したが、命数を永らえる事は叶わなかった。──そして、後に残されたのは相当な額の借財。
経営が安定していた頃に付き合いがあった者達は皆、傾きを知ると掌を返した如く付き合いを断ってきた。借金の返済に手を貸す者などましていず、孤立したまま亡くなった両親の最期は今でも脳裏から離れない。
朔行の家も船を見捨てた側に名を連ねていた。そして口に出しはしなかったが、彼は自分の婚約者で、初恋の相手でもあったのだ。
──小さい頃から、この人と共に生きていくのだと思っていたのに。
裏切られた衝撃は、戴剋の元に来るまでに捨てた筈だった。なのに、本人を目にすれば蘇る思い出を止めるのはやはり難しいもので。
朔行が墓地を去った時、翠玉は己の何かが剥き出しになっているのを感じた。何かの拍子に決壊してしまいそうな醜い危うさを。
夫にそんな姿を見られるのは抵抗があった。
ましてやとても求めに応じられる様な気分ではなかったのだ。
──結局、決壊したのは碩有様に対してだったけれど。
自分の様子こそ変であると、彼が気づいてくれずに激情のままに振舞われたのが悲しかった。それともこれは、翠玉の勝手なのだろうか?
また一つ息を吐いたその時、目の前に阿坤が腕をかざしたのに気づいて彼女は顔を上げた。
「……奥方様。こちらはいけません、戻りましょう」
「え? あら、そういえば。此処……何の建物だったかしら」
庭の探索に出始めても結構な月日が経つというのに、未だによくわからない楼閣が多い邸である。
建物自体はどれも似た造りをしているから、余計に始末に負えなかった。
目の前のものも、六天楼や奏天楼と同じ様な七階建ての櫓と、平建ての高殿を備えたもので、華頭窓に唐破風も寸分違わぬ形の意匠だ。紅い柱に褐色の甍、ただ庭に面した雨戸が全く開け放たれていないので使われているかそうでないかが判別しがたい。
「此処は許可なく立ち入るのを禁止されております。御館様でもおいでになれない場所ですから、見咎められては厄介です。お早く」
「せ、碩有様でも? 一体何の建物なの」
緊張感のみなぎる常にない様子に翠玉は驚いた。
しかも当主でさえも入れない場所があるというのは初耳だ。
「詳しくはわたくしも存じません。お戻りになりましたら、槐苑様にでもお聞きになられては如何でしょう」
「え、ええ……」
呼ばれなくても来るであろう、西の邸のご意見番の老女の顔を思い浮かべて彼女は少し憮然とした。まあ珍しく役に立つ事を教えてくれると良いのだが──はっきり言って、槐苑があまり心楽しい情報をもたらした事はなかった。
──聞くのは良いけれど、またこの上何か問題が起きる様な気がするのは何故かしら……。
散策から帰ると、予想通りに槐苑がこめかみに怒りの筋を立てて房内にて待ち構えていた。
「奥方様! 御館様と仲違いされたというのは真でございますか?」
「……流石、話がお早くていらっしゃいますのね」
「やはりそうなのですか。何たる愚挙! 何たる無礼っ」
走ってでも来たのか、肩で息をし髪を珍しくも乱している老女にとりあえず翠玉は椅子を勧めた。
音もなく現れた紗甫から水の杯を受け取り飲み干すと、槐苑は更にまくしたてる。
「悪い事は申しません、一刻も早く謝罪なさいませ。この際どちらに非があるかなど、お目を瞑りなさい!」
あえて尊大に扇で顔を防ぐ様にかざして、翠玉は如何にもうんざりといった風情を見せる。すると老婆は大仰な溜息をついた。
「ただでさえ御館様は季鴬様に似ておいでの所がおありじゃ。軽くお考えになっていては、今に取り返しの付かない事になりかねませぬぞ」
「季鴬様? 何方ですか」
聞いた事がない名前だった。確か碩有の父親は慎文と言った筈だ。以前に本人からそう聞いていた。
「……何と。奥方様は、季鴬様について御館様からお聞きではないのですか?」
「え? ええ。聞いた事がないけど」
ふうむ、と彼女は険しい顔をして何やらぶつぶつと呟き始めた。
「あの。一体誰なのですか? そんな風にされると気になってしまいます」
「詳しくは御館様からお聞きになるが宜しゅうございます。さっさと仲直りしてですな。子宝が未だと申しますのに、このままだとますます遠ざかるというものです」
既に充分苛立っていた翠玉は、槐苑を追い出したい衝動を何とか堪えて重ねて聞いた。
「槐苑様ならこの館の内で知らない事などないのでしょう? 勿体ぶらずに教えて頂いてもいいじゃありませんか。知らなければ、間違って出会ってしまった時に無礼を働くかもしれませんもの」
「間違って? そんな事、天地が返ってもありはせんですぞ」
搦手作戦とばかりに優しく言ってみたにも関わらず、老婆の反応は小面憎いものだった。
「季鴬様はこの二十年余り、鉦柏楼から一度も外に出た事がないというのに出会うわけが──」
「鉦柏楼……もしかしてそれって、北東にある離れた建物の事ですか?」
昼間阿坤に遮られた謎の建物は、誰に聞いたわけではないが北の欽天楼と奏天楼の間程の位置だったと思う。
四つの主楼閣の話は最初に説明されたのに、何故その建物は知らされなかったのだろう。
何気なく言ってみたのだが、槐苑は顔色を変えて「知りませぬ!」と慌て出した。
「いいですか、奥方様」
とても齢八十を超えた老人とは思えぬ強い力で、彼女は主の両腕を掴んだ。
「あの建物には興味を持ってはいかん──鉦柏楼には亡霊が出るのじゃ。……近づけば、必ず恐ろしい事になるでしょう」
やはり槐苑の知識は朗報をもたらさない──
翠玉は鬼気迫るその顔を凝視しながら、嫌な予感が当たった事に眉をひそめた。
そして残念ながら、事態はこれだけでは終わらなかったのである。
脚注:疫→流行病の事です。
2011/3/20「きおう」の使用漢字を一部改訂しております。