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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第二部
15/24

一 再会

 昔話を致しましょう。


 愚かな女の、退屈な話でございます。


 ただ一言、しかしながらとても大切な嘘を付けなかったが為に、魂の欠片を失った女の言い訳とでも申しましょうか。


 貴方を愛していると。


 あの時伝えるだけで良かったのです。そうすれば、せめて笑顔だけでも最後の記憶と留められたかもしれないのに。


 ……どうして私は、受け入れる事が出来なかったのか……


※※※※


 車窓からの風景は余韻を引く間もなく次々と通り過ぎて行き、それでも整備された街を抜けるには至らない。


「今さらですが……こうして見ると、洛とは随分と大きな街なのですね」


 翠玉は窓にかじりついたまま、背後の人物に向かって振り返りもせずに話しかけた。

 並ぶ建物の色は様々だが、概ね緑色を基調とする瓦屋根に朱色などの明るい色の外壁が、この辺りの一般的な建築様式だ。

 街だけではなく、陶家の領土内では全ての家が階級や生業によって建材に使える色が決まっている。

 そして上流の家であればあるほど、柱の斗拱ときょうなど装飾は多く、離れとなる楼閣を階数高く多く持てるのが決まりだった。

 洛はただでさえ、富裕な商家や升庁やくしょが多く、石畳の路には行き交う徒歩の人々のみならず人力の車──華俥かしゃと言った──も往来し、雑多な賑わいを見せている。


「もしかして、洛の街中を見るのは初めてなのですか?」


 返って来た声に僅かながら苦笑の気配を感じ取って振り返ると、すぐ隣にいたはずの夫が人ひとり分は離れた場所でこちらを見て微笑っている。

 彼は公の場に出る際と同じ姿で、車の中に設えられた長椅子の中央近くに座っていた。

 物珍しいのは街並みだけではない。今乗っているこの『車』も、人生においてはまだ二度目の経験だった。桐で製造されてはいるらしいが、主に交易に出され市井向けではないと聞く。確かに陶家に来るまでは、華俥ならいざ知らず、車など見た事はない。

 いつの間にか自分がここまでにじり寄っていたと気づいて、翠玉は顔を赤らめた。


「あ、ごめんなさい。つい夢中になってしまって」

 とは言いつつも、声の弾んだ調子は押さえようもない。


「いえ、あまりに貴方が楽しそうなものですから」


 碩有は不機嫌そうには見えなかった。それどころかいつもの──そう思うのは彼女だけなのかもしれないが──氷さえも溶かしそうな、甘い笑みを浮かべた。


「そんな顔が見れただけでも、付いてきて良かったと思いました」


 こればかりは時が経っても慣れそうにないと必死に平静を装いつつ、翠玉は本来の目的を思い出して居住まいを正した。改めて夫に向き直る。

 両手を膝の上に揃えて頭を下げた。


「どうしたのですか、急に」

「この度は、外出を許可下さいまして、本当にありがとうございました」


 領主の妻は通常、夫が生きている間には六天楼を出る事は叶わない。

 それは戴剋の側室として邸に入った時に、槐苑や侍女達に宣言されていた決まりだった。

 貴人の妻妾はその資産とみなされるのが当たり前のこの地方であるから、当然かつてはしばしば争いを呼んだという。

 ましてや事が広大な領土を統べる者の話になると、単なる欲得には留まらない。戦いの火種となった史実さえある。奪うなら高貴なものを──と考える人間は領土の内外に存在するらしかった。

 よって六天楼が整った時、当代の領主は『掟』を定めた。

 領主以外の男性との一切の接触を禁じる事。たとえ家族であっても例外はない事。

 六天楼からの外出を禁じる事(ただし、領主の命によって離縁あるいは隠遁させる場合は館から出された)。

 その他、側室が複数いる場合、側室同士の接触も禁じられていた。無論、諍いを避ける為である。

 いかに当主が便宜を図ったとはいえ、陶家は他にも一族の者達が数多くいて、事業などを起こす時にはお伺いの様なものを立てたりすると聞く。自分を外に出すに当たって、すんなり同意を得たとは思えなかった。

 翠玉の危惧をよそに、碩有は全く事もなげな顔をしていた。


「何だ、そんな事ですか。気にしなくてもいいのに」

「……本当に良かったのですか。掟を破ったりして、一族のかたがたに反対されたのではありませんか」


 外出を許可された、と聞いた時の槐苑の不可解な態度を思い出して、翠玉は眉宇を曇らせる。


──御館様のお気持ちはわからぬでもないが、領主ともあろう者が妻女に入れあげるとろくな事がございませぬ。不吉な。


 不躾なのが槐苑だとわかってはいたが、言うに事欠いて不吉な、とはどういう意味だろう。


「破ったのではありませんよ。変えたのです。確かに文句は言われましたが、元々決めたのも私の何代か前の領主ですから問題はありませんでしたよ。それでなくとも祖父の代の晩年には、有名無実に近いものになっていましたし」


 言葉とは裏腹に、何故か碩有の表情に影が差した。


「えっ? でも私は、戴剋様からその頃、決して房から出るなと……」


 妻の言葉に幾分決まり悪そうな顔になり、影が薄れる。


「そうですね。お祖父様が何をお考えだったのかは、疑問な所もあるのですが」


 わざとらしく咳払いをした。


「先代の──私の祖母に当たる人ですが──正室が父の数年後に亡くなってから、祖父は側室を数多く迎えはしましたが、晩年には全て邸から出してしまいました。その辺りから、掟はあまり意味をなさなくなっていたのは事実です。適用される相手がいないのですから」

「じゃあ、私が入って来たから、復活したようなものだったのかしら……」

「そんなところですね。でも、他に側室はいませんから外出禁止の形骸だけが残った。本当に厳しく取り締まっていたら、私と貴方を会話させようとは思わなかったでしょう」


 会話、の辺りで翠玉は不思議そうな顔をした。碩有は一気に肩を落とす。


「覚えていないのならいいんです……」

「えっ? いえ、覚えていますよ! 庭で迷った時の事でしょう? 初めてお会いした時の」


 でもあれは確か戴剋とは関係のない場所での話だ──首を傾げているうちに、見る見る夫の機嫌が悪くなっていっているのを感じて翠玉は慌てた。懸命に記憶を辿る。


──他に会話した事なんて、あったかしら? 戴剋様が傍にいて?


「あっ、思い出しました! 戴剋様が遺言をされた時ですね。枕元で」

「……もういいです。窓の外でも見ていてください」


 どうやらこれも違ったらしい。

 ふいと顔を逆側に背けてしまった碩有の端整な横顔を、彼女はややしばらく呆気に取られて見つめていたが、思い出せないのは仕方がないと再び車窓の風景を眺める事にした。

 けれどやはり、背後の存在が気になって今度はあまり集中出来ない。


──怒ってしまわれたのかしら。でもどうして、思い出せないのだろう。


 六天楼に入ってから若い男性と会う機会なんて全くと言っていいほどなかったし、ましてや話したとなれば覚えていないわけがないのに。

 考え込む翠玉の目に、郊外の丘陵の風景が飛び込んできた。どうやら街をすでに抜けていたらしい。木々の合間に石造りの墓影がちらほらと見える。

 その途端、今までの経緯を脇に追いやってつい話し掛けながら背後を振り返った。


「碩有様、見えて来ましたよ。あれが私の──」

「ご生家の墓がある場所ですね」


 すぐ耳元で囁かれる声、覆いかぶさる気配に急激に彼女の心音が早くなる。

 碩有は翠玉の後ろに寄って、窓の外を見ようとしているだけなのに。

 つい赤くなって、俯いてしまった。


「……そう、です」

「集合墓地なのですね。入口付近に車を止めて良いですか? 歩く様なら、車を中まで入れさせますが」


 外を見ながら答えていた彼は、返事がない妻の顔を覗き込んだ。


「翠玉……?」


 結婚して半年以上も経つというのに。こんな何気ない時に、狂おしい位に心をかき乱されるのはどうしてなのだろう。

 見透かされただろう恥ずかしさも手伝って顔を上げる事が出来ないでいると、柔らかく首筋に指が触れた。ゆっくりと撫で上げる様に顎を包み込む。


「……墓参りを先にしましょう。ここで貴方の着物を乱しては、ご両親に叱られるでしょうから」

「なっ!」


 艶めいた笑いにかっとなってようやく見上げた。さっきまでの子供じみた不機嫌顔はどこへやら、余裕さえ感じさせる表情を浮かべている。頬が火を噴いているのを感じたが、もうこれは開き直るしかない。


「あ、当たり前ではありませんか!」

「ですよね。今日はお父君の命日なのですから、たとえ貴方がどんなに煽る様な真似をしても、自粛するとしましょう」

「あ、煽るって……」


 碩有は笑うだけでそれには答えずに、運転席側にある小さな窓を開けると、打って変わって毅然とした声で命じた。


「車を奥にやってくれるか」


 はい、と遠くから運転手の声がする。ほどなくして周囲を黒く光る石塔に囲まれた光景の中で車が止まったので、翠玉はそれ以上追及するのをやめた。

 扉を開けてくれた運転手に礼を言って──少し驚かれたが──、持参した供花を持って歩き出す。


「こうやって皆で一緒に眠っているのなら、寂しくないのかもしれませんね」


 やけにしみじみ言う夫の言葉が何だかおかしくて、翠玉は少し笑った。

 彼女の実家の様な商家の者が所有する墓は、専用の土地に石塔婆の形で集って建てられていた。石は御影と呼ばれる黒いものが主流で、塔婆の形は自由な為様々な意匠が並んでいる。


「陶家の御陵はやっぱり違うのですか? 勿論大きさは比較にならないでしょうけど」

「大きい事は大きいです。代々の当主の命日にいちいち参るのはとても出来ないので、祖父母と父のだけに訪れるのですが。でもこことは違って、ひどく寂しい場所ですよ」

「そうなんですか……」


 彼の父は祖父より早くに若くして亡くなったという。話していたのは本人ではなく、槐苑だったかもしれないが。

 そう言えば、あまり夫の口から戴剋以外の家族の話を聞いた事がなかった。挙がらなかったところをみると、母親は存命なのだろうか。


「確か──この辺りだったはずなんですけど」


 墓石を覆うように周囲に群生し大きく枝を広げた樹木は目に涼しく、春の陽光に煌いて鮮やかだ。鳥の鳴き声も時折聞こえる。のどかと言えばのどかな場所かもしれない。特に今日の様な好天時には。

 最後にここに来たのは陶家に入る前、つまり父の骨を納める時だったから──もう八年になるだろうか。流石に場所がうろ覚えになっている。

 六天楼に入ってからは、戴剋が使用人に管理を命じてくれたらしいので荒れ果てているという事はないだろうが、少し心配だった。


「何か目印になるものはなかったのですか」


 隣に供物を掲げ持って付いてきていた碩有も辺りを見回した。


「ええと……近くに大きな黄連おうれんの木があって、一画の半ばにあったと思うのです。でも、何だかお墓が増えたみたいで」

「掃除している者に聞いておけば良かったですね。黄連木は通常、対で植えられると聞いていますが」

「いえ、ここのは元から生えて……って、よくそんな事を知っていますね」


 怪訝そうに夫の方を見返った矢先、その背後に見事な枝ぶりの大木が見えた。


「あ、ありました! 多分あれですっ」


 思わず駆け出して近寄ると、やはり見覚えのある塔婆が傍にあった。周囲のものは真新しく、後から出来た墓らしい。

 ここで間違いないだろう。だが──


「どうかしたのですか?」


 突然立ち止まって呆然と木の方を見ている彼女に、碩有は追いついて視線の先を追った。


「……誰か、先客がいるみたいですね」


 親戚か、とは言わなかった。妻の一族は家が没落した時に離散したと、以前本人から聞いていたからだ。

 二人とはまだ十数歩の距離があるとは言え、先客が若い男である事は容易に知れた。

 歳は碩有よりもいくつか上に見えた。袖幅の短い旗袍きほうを上着に着ている所を見ると、富裕階級の者らしい。


「知り合いですか」


 重ねて問うと、ようやくええ、と小さく返事があった。

 声が震えている。


「翠玉」


 あまりの様子に、一旦車に戻っては──そう提案しようと口を開いた時に、話し声に気づいたのか墓の前にいた人物がこちらを振り返った。

 一見していかにも育ちの良さそうな青年だった。短めに刈り込んだ黒髪に、上背はあまりないが優美な物腰に顔立ちは柔らかく、悪い印象は何処にもない。にも関わらず、どういうわけか碩有の眉が不快げに跳ね上がる。

 男は最初何故か、彼の方を見て目を丸くしていた。次いで隣の翠玉に視線をずらすと、清廉な面にありありと驚愕の表情を浮かべて歩み寄って来た。


「──翠玉。翠玉じゃないか!」


 間が人ひとり分という所まで近づいた時、碩有は思わず前に出て翠玉を背後にかばった。


「悪いが妻は少し体調が優れないらしい。はん家に縁の者か?」


 男は目に見えて怯んだ。


「というと貴方は……」

「先に質問に答えてもらおう」

「わ、私はその。以前こちらのお父君にお世話になった者です。翠玉とは幼馴染だったものだから、つい懐かしくて」


 碩有の冷酷にさえ思える迫力に圧されて、今にも帰りたそうに腰が引けている。


「──碩有様」


 衣服の背中を掴む感触に彼は背後に首を向けた。翠玉がこちらを見上げて僅かに首を横に振っている。


「翠玉、しかし」

「……大丈夫。ちょっと、びっくりしただけですから」


 手を離して彼女は前に進み出た。


「お久しぶりです、朔行兄様」

「あ、ああ。元気そうで──その、何と言ったらいいのか」


 朔行と呼ばれた青年はしきりに、碩有を気にしてちらちらと窺い見ている。


「あの時は……力になれなくて。でも、無事でいてくれて安心したよ。こう言っていいのかわからないけど。ご家族があんな事になった後だったし……」


 力なく「ええ」と答えたきり、翠玉は言葉を繋がなかった。


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