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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第一部 
13/24

十二 或いは罰を

 建物の中は、普段翠玉が起居しているものと造りが多少異なっていた。

 廊下の壮麗な意匠や、手入れの行き届いた様子は変わらない。ひるを大分過ぎた時刻の為か楼内はやや薄暗いが、使われていない建物というわけではないらしかった。

 翠玉は重い足取りを進めながらも、ぼんやりとつい先ほど己が目にした光景について考える。


──碩有様は、榮葉さんの願いに応えたのだろうか。


 かつては思いを交わし合った仲なのだ。榮葉自身には未練がある風に感じた。けれど碩有の心中はわからない。もし同様に思っていたのならばあの様な展開にはならないと考えたいが、未練がなくとも触れるぐらいはするのかもしれなかった。

 それは自分に触れたと同じ様に、だろうか。

 翠玉にはよくわからなかった。自分がもし婚約者と今再会したら、と想像しようとするが、うまくいかない。

 二人が寄り添っている姿ばかりが脳裏を支配してしまうのだ。


──私って、こんなに嫉妬深かったのね……。


 廊下の左手に房の扉が見えたちょうどその時、向こうから複数の人間の足音が聞こえて来た。

 咄嗟に彼女は扉に手を掛ける。鍵が掛かっていなかった事に驚いたが、迫る人の気配に構わず中に飛び込む事にした。


「……ちょっと、貴方! 鍵が掛かっていないじゃない。言ったでしょう、例え僅かな間でも、ここの房は鍵を掛けて出て行きなさいと」


 房に入って来たのは女性二人、どうやら掃除をする使用人らしかった。

 翠玉が飛び込んだ一瞬後に入って来た彼女達は、てきぱきと室内を清掃していく。


──こちらに来たら、どうしよう。


 翠玉は今、房の『次の間』と呼ばれる小さな部屋に隠れていたのだった。

 次の間とはある程度身分がある者の房にしか付いていない、側仕えの者が出入りしたり控えに使う部屋だ。

 私室の場合廊下側は施錠されているが、房に向かう扉は開いている場合が多い。誰のものかはわからないが、此処も例外ではないのが彼女には好都合だった。

 仕切りの戸は鎧戸の形になっていて、板の隙間から房内が見える。使用人が主の様子を窺いやすい作りになっていた。


「も、申し訳ありませんっ」


 叱責したのは年嵩としかさの女、もう一人はごく若い娘らしい。やや高めの声が狼狽している。

 作業をしながらも、女は溜息混じりに言った。


「御館様が最近あまりこの房を使っていなくてまだ良かったわ。午に仮眠を取る為だけに戻られるから、今日も多分もうこちらにはいらっしゃらないと思うけど……今はただでさえ、護衛の者が出払っているのですから。気を抜いてはいけませんよ」

「……はい。それにしても、衛士の方々はどうなさったんでしょう。急に呼ばれたみたいですが」

「何かあったのかしらね。──さ、余計な事は考えずにさっさと仕事を終わらせてしまいましょう」


 二人は棚という棚や床を磨き上げ、寝台を整えると、来た時と同じ様に掃除道具を持って去っていった。どうやら次の間を掃除する気はないらしい。

 扉の向こうで鍵を掛ける音を確認してから、翠玉は再び房に入った。


──今、何て?


 無人の空間は確かに彼女のものより広く、書棚や卓、それに寝台の様子からも女性の部屋ではないというのはわかった。

 改めてまじまじと室内を見回すまでもなかった。──最初に入った時に、どうして気づかなかったのだろう。


──碩有様の房に、間違いない。


 碩有の匂いがした。──恐らくは普段焚きしめている、柔らかな香の匂い。


──此処が普段、生活されている場所なのね。


 という事は、自分は奏天楼に入ってしまったのだ。見つかればさぞやお咎めを受けるだろう、そう思い至った所で翠玉は自嘲の笑みを浮かべた。

 六天楼を一人で抜け出した時点で、充分掟を破っているではないか、と。

 一体何をやっているのだろうという気はしていたが、初めて見る夫の私室に興味も湧いた。

 右手奥の壁にある書棚に近づいて、棚に並ぶ書物を眺める。ほとんどが学問に関するものだったが、中には古典や物語の様な趣味らしき本もあった。実際、自分との会話からも彼の博識さは滲み出ていた気がする。


──そう、いつもあの方は私の知らない世界のお話をしてくださった。長椅子に座って……楽しそうに。


 本の中身を見てみようと伸ばした手を力なく下ろして、翠玉はそのまま床に膝を付いた。

 涙が零れる。

 この部屋には、碩有を感じさせるものが余りにも多過ぎる。


「ふ……っ」


 何故泣いているのか、よくわからなかった。ただこみ上げて来るものが押さえきれず、雫となって頬に溢れて来る。

 自分を「ただ其処にあるだけで」と言った、あの意味。

 もし、私と同じ思いであるならば、どんなに嬉しい事だろう──

 翠玉の感傷は、廊下を慌しく踏み鳴らす足音に拠って破られた。

 慌てて頬の涙を袖で拭って、次の間に隠れる。


「──女性の足で、しかもあの姿ではそう遠くには行かれませんでしょう。少しは落ち着かれませ。今は衛士も総動員で探しておりますので」


 扉越しに聞き覚えのある冷静な声がして、扉の鍵を開ける音がした。

 誰に話しかけているのかは明白だったが、相手の答える気配はない。ただ足音だけが明らかな苛立ちの響きを以って、房の床を鳴らしていた。


──碩有様。


 戻って来るとは思わなかった、と彼女は驚愕した。すぐに出て行かないだろうか。居座られては益々自分は帰れなくなる。

 室内に入って来た碩有は、明らかに不機嫌そうな様子に見えた。だが長椅子に腰掛けたらしく、そうなると鎧戸からは表情がよくわからない。付いて来た朗世も扉近くにいるらしく、声でその存在を知るのみだった。


「しかし六天楼を供も連れずに抜け出し、あまつさえ迷子になるなど前代未聞。例え奥方様といえども、この上は侍女共々、何らかの罰を受けて頂かなくてはなりますまい」


 淡々と語る朗世の言葉に翠玉は瞠目した。


──罰。


 六天楼には妻妾の守るべき数々の掟がある。戴剋時代からそれは知っていたが、表立って罰を受けた事はなかった。他の側室も既にいなかったので、知らず知らずの内に何処か軽んじてしまっていた。


「……その話は後だ。今は」


 碩有の声は、聞いた事がないという位低かった。

 言いかけて彼は立ち上がり、卓の上に紙を取り出して何やら文字を書いている。書き終わるとその紙を部下の目の前にかざしている様子が見えた。


「──そうだな。供を連れてくれという私の意見を聞き届けず、挙句邸内で何かあったとなれば。紗甫とか言ったか、それに槐苑も。掟通りならば監督不行き届きで連座で罰を与えるべきなのだろう。朗世、この様にすぐ手配してくれ」


 一瞬の間の後、朗世の歯切れ良い返事が聞こえた。

 翠玉の爪先がすう、と冷えて行く。


──そんな。


 自分のせいで紗甫達が罰を受ける、そんな事は考えてもみなかった。


「因みに御館様、侍女達の罰はどの様な内容のものになさいますか」

「前例では監督不行き届きは、鞭で打つ事になっている。それに準ずるのが妥当か──」

「待って! 待ってくださいっ!!」


 気づけば翠玉は跳ね飛ばす勢いで扉を開けて、中に駆け出していた。


「悪いのは私なんです! だから紗甫達には罰を与えないで。私だけなら、どんな罰でもお受けしますから!」


 突然の闖入者にも関わらず、二人は全く動じる気配がなかった。


「朗世。──行け」

「はっ」


 碩有は顔色一つ変えずに部下を一瞥、それを合図に朗世は房を出て行った。


「朗世さん! 待って下さいってばっ」


 追いすがろうと駆け出す翠玉の身体を、だが横から夫の腕が邪魔に入る。


「──今の言葉、忘れないで下さいね」


 あっという間に視界は碩有の身体に塞がれてしまった。先ほどまでのもの思いなど綺麗さっぱり吹き飛んで、翠玉は狼狽した頭で彼を見上げる。

 なのでそこにあった顔が、怒りとはまた違った不穏な表情をしているのに暫くは気づかなかった。


「え!? ああ、勿論です。でも朗世さんの指示が! 罰を与えに行ってしまったのでしょう」

「まあそういった事も充分考えられるでしょう、という話をしたのです」

「はっ──いやあの。……どういう事ですか」


 腕の中でもがく妻を両腕で固定して、碩有はにっこりと微笑んで今しがたかざしていた紙切れを見せた。

 そこにはこう書かれていた。

『琳夫人が見つかった 奏天楼にいるので心配しない様伝えて来い 明日には戻る』


「少しは反省して頂けるかと思いまして」

「なっ──。だ、騙したんですか!? あんまりです!」


 逃れようと更に手足を動かすが、殊の外強い力で捕まえられていて、びくともしない。


「あんまりだ、はこちらの言葉でしょう。『庭で迷った』かと思えば、よりによってこの部屋に入り込んでいるとは──鍵が掛かっていた筈です。一体どうやって──いや」


 腕の力が緩んだと思うと、翠玉の両頬にそっと手が添えられた。


「……それよりも房に戻っていないとなれば、周りがどれだけ心配するか。わからないわけではないですよね」


 怒鳴られるより尚酷い、と彼女は覗き込んで来る夫の眼差しを見て思った。

 しかも真剣な表情になると、気のせいか疲れて憔悴している様にも見える。

 『庭で迷った』という表現を使ったという事は、自分が其処にいたとわかっていたにも関わらず、不問にしてくれるというのだろうか。


「ごめんなさい……」


 この人はどこまで自分を、甘やかす気なのだろう。

 厳しい言葉で罵ったり、言う通りの罰を与えれられたのなら。

 そうしたらきっと、この胸の苦しさはむしろ軽くなるのかもしれないのに。


「でも、どうして私がこの房にいるとわかったのですか」

「それはわかりますよ。次の間からものすごい気配がしましたから」

「まさか!」


 確かに板の隙間から固唾を呑んで様子を窺っていたが、そんな念めいたものまで出していたのだろうか。


「……とまではいきませんが。匂いですよ、貴方のこの香の匂い。すぐわかります」


 碩有は結い上げられた彼女の黒髪に顔を寄せた。


「碩有様……」

「ところで、先程の罰の件ですが」

「はい」


 来た、と翠玉は表情を硬くする。


「言いましたよね。──自分だけなら、どんな罰も受けると」

「は、はい」

「私が『榮葉には触れていない』と言った所で、何の証明にもならない事ですし」

「はい──えっ?」

「正直、寝た振りも七日が限界です」

「一体何の話をなさって……ちょっと!?」


 視界が見る間に展開し天井を向いたと思うと、翠玉は寝台に身体を投げ出された。


「どどどうしていきなり、今は罰の話をしていた筈じゃ──ふぐっ」


 起き上がろうとしたが、強引に唇を奪われ阻まれる。

 執拗とも思える長い口付けの後、彼は自嘲気味に笑った。


「全く。……貴女の戸惑いが解けるのを待とうと思ったのに。これでは私が罰を受けている様なものです」


 掠れた声で囁かれた言葉に、再び唇を塞がれていた翠玉は答える事が出来なかった。

 身体をなぞる指先に翻弄されながらも、ふと意識の片隅に、例の紙に書かれた文章を思い出した。

 『明日には戻る』。今はまだ夕方にさえなっていない時刻だというのに──もうその時に、もしかしたら。


 この人は領主としてだけではなく、常に確信犯なのかもしれない。

 朗世が侍女に伝えた言葉の通り、翌日の午まで『夫の証明』を受けた翠玉は、くらくらする頭と疲労した身体で、嫌という程それを思い知らされたものだった。


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