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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第一部 
12/24

十一 乖離(かいり)

 それから七日の時が過ぎた頃、翠玉は桐の町長が代替わりする事を改めて聞かされた。

 お決まりと言う所か、情報源は懲りずに毎日の様にやって来る槐苑である。領主夫妻の関係に変化を認めたらしく「まだまだ安心は出来ませんぞ」と釘を刺した後、さらりと言ってのけたのだった。


「存じています。御館様が昨日仰っていましたから」


 少し鼻を明かしてみたくなって、翠玉が鷹揚な笑みと共に静かに切り返してみせると老婆は予想通り鼻白んだ。だがちっとも気分は晴れない。こういうのを「八つ当たり」と言うのだろう。

 あれからも碩有は毎晩こちらに泊まる様になった。それは嬉しかったけれども、仕事で疲れているのか自分を抱えて眠るばかり。一日は温もりに安堵していた翠玉であったが、そろそろ疑問を感じ始めていた。


──まさか、また私から言われるまで何もしない気なのかしら。


 ついそう思って、恥ずかしさに彼女は勢い良く頭を振り、考えを打ち消した。まるで欲求不満を感じているみたいではないか、と。


「どうされた?」

「い、いえ。何でも、ありません……」


 不思議そうな槐苑を余所に、一人憮然とし項垂れた。

 確かに急に町長を代える為の政務で、日中彼が忙殺されているのは何となくわかっていた。碩有は仕事の愚痴など言いはしないが、「外の世界を見せられない代わりに」と領土内の様々な話をしてくれる。本来数月を要する手続きを、出来るだけ短縮させようとしているのだそうだ。


──榮葉さんを早く開放させたいから、よね。きっと。


 意に染まぬ状況にいる彼女が気の毒だと思う気持ちに嘘偽りはないと思う──多分。


「そう言えば、南楼にいる榮葉という女。近々桐に戻るそうですな。儂はてっきり六天楼に入るものと思うておりましたが」


 頭の中を見透かされた気がして、翠玉は思わず顔を上げた。


「おや、こちらはご存知なかったご様子じゃな」


 老婆は得意げな笑みを浮かべている。


「聞けばあの女、桐でも有名な工匠の娘じゃそうですな。北肆の──名前を何と申したか──細工物では領土でも一、二を争う腕とか。正室には分不相応じゃが、側室には充分なれると言うのに」

「……細工物」


 記憶の琴線に何かが引っかかって、翠玉はぼそりと呟いていた。

 だが槐苑はお構いなしに嘆かわしい、と続ける。


「御館様が淡白なのは争いにならず結構じゃが、先代様に比べてここは人少なに過ぎる。数多の側妾が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしてこそ、儂の出番があるというものですのにのう」

「仰る意味がよくわかりません……」


 翠玉が眉をひそめたその時、紗甫が房の外から「お客様でございます」と告げる声がした。


「通して頂戴。申し訳ありませんが、槐苑様」

「何と! 奥方様はまたこの年寄りを邪険に扱うおつもりかっ」


 どんなに冷たくあしらっても毎日来るくせに──翠玉は苦笑する。おかげで彼女に対する態度は大体定着しつつあった。


「はいはい、また明日にでもおいで下さいね」

「まだ話は終わっておらぬというのにっ、これ」


 辟易する相手ではあったが、ついつい自分の祖母にしていた様な態度が甘いのかもと思いつつ、老婆の背に手を添え外へと誘う。

 だが相手が渋って抵抗するせいで、客人の方が開け放たれた戸口に現れてしまった。


「一瞥以来でございます、奥方様」


 槐苑の背中を押すのも忘れて、翠玉は床に跪くその人物を見下ろした。

 以前見たよりは幾分面やつれが取れ、玲瓏とした美しさが加わっている。

 否、「取り戻した」のだろうか。


「……榮葉さん」

「何じゃと! 不躾ですぞ。一体何の用向きがあって参られた」


 呆然とするばかりの翠玉に代わって、声を荒げたのは槐苑だった。

 榮葉は面伏せたまま、両手には腕半分ほどの布包みを掲げている。


「重々承知しております。ですが一言お礼に参りたく、無礼を承知で伺いました」

「お礼? 奥方様、この女に何かして差し上げたのですか」

「い、いえ。私は何も……」


 事態が全く飲み込めずにいると、榮葉に「ささやかなものですが」と包みを差し出された。


「……とにかく、顔を上げて中にお入り下さい」

「ありがとうございます。ですが、すぐお暇しますので。宜しければここで失礼させて頂きます」


 ようやく顔を上げた、その双眸が翠玉をまともに捉える。


──あの時と、同じ瞳だ。


 何故哀しげに自分を見るのか、聞いたらどんな答えが返ってくるのだろう。


「私に礼とは、どういう事ですか」


 代わりにそう尋ねるしかなかった。


「はい、一つは手前の事情で南楼を騒がせましたお詫びと、それをお許し下さった事へのお礼を。今一つは我が一族所蔵の首飾りをお買い上げ頂きました上に、この度御館様の計らいで嫁ぐ事になりました。一族共々、とても感謝しております。……ご夫妻が、幾久しくお健やかにあられます様、父がこれをお贈りしたいと」


 榮葉が持参した包みを片手で紐解くと、中からはおおとりの細工がきらきらしい螺鈿らでんの高飾台が現れた。


「おお。何と美しい……」


 飾台は主に小物を置く為に使う。富貴な家では必需品だが、ここまで凝った意匠はそうそう見つからないと思われた。鼻息の荒かった槐苑でさえも息を呑み、黙り込んでいる。


「どうか、お納め下さいませ」


 再び掲げ頭を垂れた榮葉を前に、翠玉はしばし黙っていた。


「奥方様。折角だから貰っておきなされ。これはもう宝、貴人の房にこそ相応しゅうございます」

「……ご結婚される、というのは」


 脈絡のない言葉にも、榮葉は特に動じなかった。


「わたくしは桐に以前、婚約者がおりました。訳あって離れてしまった、その方の許に嫁ぎます」


 故に本日ここを去る運びとなりました──彼女は顔を上げて、柔らかく微笑んだ。


※※※※


──貴女は、本当にそれで良いの?


 口にする事の出来なかった問いが、翠玉の頭の中から離れなかった。

 客人が去った後の房に一人佇んで、卓に置かれた飾台を眺めながら思う。凛とした優美さが、彼女を思い起こさせた。

 こんな風に考えるのは偽善かもしれないし、もし榮葉が「本意ではない」などと答えたら自分は間違いなく困るだろうともわかっていた。


「……一体私、どうなれば納得するのかしら」


 この胸のつかえは何なのだろう。夫が自分への贈り物に、かつての恋人の伝手を頼ったからか。

 それとも、榮葉があえて自ら乗り込んで来たからか?

 答えはどれもそうであるかもしれず、またどれも違う気もしていた。

 乗り込んで意地悪の一つでもされればまた違ったものを、彼女はあくまで心を込めて礼を尽くしている様にしか思えない。潔いだけに、一層戸惑いは深まった。

 足元で鳴声がして、翠玉は着物の裾に纏わり付く飼い猫に視線を移す。いつの間にか、散歩から帰って来たらしい。抱き上げると喉を鳴らした。


「折角帰って来たけど、また散歩に出てもらうわよ」


 内廊下まで抱えて連れてゆき、階で下ろす。

 だが莉は房に戻っていってしまった。

 鳴声からお腹が空いているのだとわかって翠玉は憮然とする。


──こうなったら、仕方がない。


「紗甫、莉に餌をやっておいてもらえるかしら」

「翠玉様、どちらに!?」

「すぐ戻るから!」


 呼ばれて房に入って来た侍女の驚く顔に見送られて、彼女は庭に『いないはずの猫探し』に出る事にした。少なくとも、誰かに咎められたらそう答えようと思った。

 もしかしたら、開けてはいけない扉なのかもしれない。或いはもう、榮葉はここを出ているかもしれない。

 それでもどんな思いでいるのか、確かめずに悶々としてはいられなかった。

 蓉天楼に近づくにつれ、遠目に人の姿が見える。着物姿でこちらに背を向けていた。榮葉に間違いない。


──まだ間に合った。


 更に近寄ろうとして、翠玉は咄嗟とっさに近くの茂みに隠れてしまった。顔だけを覗かせてにじり寄り、様子を窺う。


「支度が済んだ様だな」


 客房の奥から、聞き覚えのある男の声がしたからだった。


「この度は大変お世話になりました。ご恩は終生忘れは致しません」

「桐に戻ったら、吏庚殿に宜しく伝えてくれ。──急な要請ではあったが、彼ならば良い町長になれるだろう。期待していると」

「はい。ありがとうございます」


──碩有様。


 中庭からは榮葉の話す相手の姿が影になっていてよく見えない。だが間違えようのない夫の声、よりによって二人が会話するのを盗み聞く羽目になるとは。

 理性は帰るべきだと警鐘を鳴らしていた。


「……初めてこちらに伺った時は何と壮麗なお屋敷かと驚きました。今更ながら、碩有様はご領主様なのだと痛感させられます。桐においでの時は──」


 榮葉は笑みを浮かべている様に見えた。先ほどと同じ表情を。


「正直あの時は、過去に戻ったと錯覚しそうになりましたが。奥方様にお目にかかって、それは幻想に過ぎないとわかりました。──いえ、もしかしたら五年前からそうだったのかもしれません」

「幻想ではなかったよ。……少なくともあの時は」


 彼女はゆるゆると首を横に振っていた。


「最後に一つだけ、我儘を言わせてください」


 これ以上は聞いてはならない。いたたまれず、翠玉は意思の力を総動員して踵を返そうとした。


「お別れの挨拶に抱き締めてくださいませんか。今この一度だけ、あの時の様に──」


 駆け出した足元の草が、茂みが身体に触れ音を立てた。


「誰かいるのか!」


 鋭い声は碩有のものだとわかったが、翠玉は駆け出す足を止められなかった。後ろを振り返りもせずに駆ける。駆けて駆け続けて、全く見た事がない建物に辿り着いてしまった時、初めて彼女は足を止めた。

 此処がどの楼か、そんなものはどうでも良かった。全身の震えを納めようと必死で、しばらくは何故胸が苦しいのかが理解出来なかったから。

 例えどんなに碩有が妻は自分だけだと断言しても、絆を信じられずに脆く彼女はつまづいてしまう。

 信じられない己がまた、悔しかった。

 何故彼の過去は翠玉のものではないのだろう。自分が今まで歩んで来た時間も、何故夫のものではないのだろう。


──何て、愚かなのかしら。


 後悔したくないと榮葉の元に行った。自業自得なのだ。

 過去は過去だと割り切って目をつぶっていれば、少なくともあんな場面を見ずに済んだだろう。碩有は自分がいたとわかったかもしれない。妻の、人として恥ずべき振る舞いをどう思っただろうか。

 涙は出なかった。きっと、泣く事ではないのだろう。泣きたい気持ちではあったけれど。翠玉は遂にその場にくずおれ膝を付いた。

 どこかに行ってしまいたい。侍女にも、誰にも会わずにすむ場所に。

 目の前にそびえる楼閣に、彼女はふらつく足を再び持ち上げ──中へと入って行った。


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