序
最初に碩有がその女を見たのは、自室近くの庭を迷っている姿だった。
春にしては気温の高い日だった。雨戸と内扉を開け放しての読書の途中、庭で物音がしたのに目を向けると、緑ばかりの色彩の中にひときわ目立つ、紅梅色が見えた。
てっきり花だとばかり思っていたのに、よく見ればだんだんと紅梅は移動している。こちらに近づいている様な気がして、ようやく彼はそれが花ではなく人の着物の色なのだと理解した。
しかも若い女で、なおかつあどけなさの残る大きな瞳に涙をうっすらと浮かべている。豪奢な着物や髪飾りに、全く頓着する風もなく木々を掻き分けて進んで行くのは明らかに迷っている様子。
生まれた時から暮らしている碩有は広さを感じないほどに慣れてしまったが、新参者にこの邸は広大な迷路にしか映らないだろう。
楼閣と呼ばれるいくつかの建物から構成される場所が東西南北に一つずつ。お互いを回廊が繋いでおり、中庭を取り囲んでいる。構造自体はそう煩雑ではないが、庭は入り組んでいた。ふとした拍子に帰り道がわからなくなったのかもしれない。
「待ちなさい。そちらに行っても、六天楼には戻れませんよ」
思わず声をかけると、女は文字通り跳び上がった。
次いで、恐る恐る声の持ち主を振り返る。
「……じゃあこ、此処は一体何処なんですか」
碩有は軽く溜息をついてから、それまでいた机から離れ彼女の近くまで縁側に進み出た。
「こちらは東の奏天楼です。六天楼は逆方向。侍女はどうされたんです? 元来た道を引き返すより、侍女を呼んで一緒に帰った方が早い」
東、の言葉に女の白い顔が青褪めた。
碩有は苦笑する。目の前の女性はどう見ても、仕事の途中で迷い込んだ新米の使用人には見えなかった。それで六天楼の言葉を出してみたのだが、的中してしまうとは厄介だ。
西に構えるその建物は、主──現在は彼の祖父、戴剋の側室が住まう処である。新しい側室の噂は聞いていた。正妻が亡くなってより今までの間、数多の側室を迎えた祖父であったが、今度のそれは人目に触れさせず、掌中の珠の如く大切にしているとも。
「待っていて下さい。今、使いの者を」
「駄目!」
使用人を呼ぶ為に踵を返した碩有に、女は走り寄ってその腕を掴んだ。
最初に掴まれた腕を、次いで掴んだ相手の顔を彼はまじまじと見つめた。
女の顔には恐怖に近い表情が浮かんでいる。
「他の人には言わないで。楼を出たことが知れたら、戴剋様に叱られてしまうわ」
「そうですね。ついでに言うと、見知らぬ男性に触れてもいけないとは言われませんでしたか? 貴女はもう、この屋敷の主の妻なのですから」
冷静な碩有の言葉に、女は顔を赤らめて手を離した。
「思い出していただけたようですね、琳夫人」
「な……っ。どうして貴方、私のことを」
「やはりそうでしたか。でしたら尚のこと、一刻も早くお戻りになった方がいい」
もし見つかれば、孫の自分でさえもどんな咎めを受けるかわからない。
側室の彼女など、論外だ。夫人側室が不貞を働かない為にこそ、六天楼には掟が定められている。来たばかりでも必ず教育されるはずなのだが、この人は果たしてきちんと理解しているのだろうか。
「で……でも。莉が──まだ見つからないんです」
「らい?」
「猫です。白い猫。あの子も、私と同じで迷っているのかも」
「では僕が探しておきます。偶然見つけたことにして届けますから、貴女はとにかくお戻りなさい。今頃あちらは騒ぎになっているでしょう──反対側に向かえば、探しに出ている者に見つかるかもしれない」
多少苛立って彼がそう言った時、遠くから人を呼ぶ若い女の声が聞こえた。
女──琳夫人は目に見えて狼狽ている。
「紗甫だわ……」
「お行きなさい、早く!」
怒鳴り声に弾かれたように、彼女は走り出した。その背中に声を掛ける。
「もう二度と、ここに来てはいけませんよ」
夫人は首だけで振り返り、遠慮がちに微笑み礼を言って去って行った。その後姿を、気取った所のない人だと、意外に思いながら見送る。
──商家の出という話だが、そのせいなのだろうか。
猫はすぐに見つかった。奏天楼の廊下を堂々と歩いていたらしい──そう報告を彼は使用人から受けた。
丁重に持ち主に返すよう指示を出して、ほどなく伝言でお礼が返ってきた。それで解決。
もう二度と会うこともないだろうと、この時は思っていた。
それが全ての、始まりになるとは知らずに。




