65.僕はやってない 1
血まみれの手で、
血塗られの首元を掴んで、
足元には赤のナイフが落ちていて。
血の気が引いていく。吐き気と頭痛が断続的に襲い掛かる。
視界が二重に重なって見える。目の前で倒れているのが、テラス・ムーアなのか、有明サトルなのか。処理落ちした僕の脳内は結論を導き出せなかった。
背後から僕を呼ぶ声も、ソクラ・スタウであると理解している反面、どこかでお母さんがいると考えてしまう。
十二月二十五日。サトルくんを殺してしまった、あの日の夢を見ているのではないか。
ここが日本なのか、異世界なのか。僕にわからなかった。
一つだけ確かなことがある。それは、ヤユ・オーケアの人生の中で、今が一番最悪な状況ということだった。
「テラス……、なのか?」
濁り切った脳内を一刀両断する様に、男の声が割り込んでくる。
振り向くと、二人の男女が僕を見ていた。前世の母ーー天野メグミの隣に立つのは、黒服の男ーー『詐欺師』。
地下で起きた惨劇を理解したのか男は両手を前に突き出す。メキメキと奇妙なことが煩わしい。空を掴むようにした手の中には、いつの間にか漆黒の剣が握りしめられていた。
ああ、そうだ。誰かと思っていたが、この男。『詐欺師』ではない。魔法学院七教授が一人、シン・テーゼだ。
その隣にいるのも、お母さんではなく、ソクラ・スタウだ。そして、僕がここにいるのはパラス国国境沿い、天国の魔王城だ。
招待客は食堂に集まっていた筈なのに、何故か二人は地下に来た。オルタが僕を裏切ったのか、僕が地下に長居しすぎたのか。
意識は鮮明になっていき、思考の回転速度は上昇してきたけれど、状況の深刻さも同時に理解してしまった。
「待って、話を聞いて」
「遺言か? 話してみろ。魔王討伐戦線の連中に聞かせてやるよ」
「僕は、僕はやってない」
「ふん」とシンは鼻を鳴らす。浮浪者のようなだらしない身なりをしているが、鋭い目つきから発せられる覇気がシンの真剣さを物語っていた。
ふざけるな、と問い詰められている。この状況で、何を言っているのか、と。
テラス・ムーアの死体。彼に覆いかぶさるように僕が首を抑えていて、僕の主要武器であるナイフに血がべっとりとついている。
加えて、血の化粧が僕の顔を覆っていた。『吸血鬼』がついに正体を表したと言われれば、疑うものは誰もいない。
十二月二十五日の悲劇。天野ヒトミが有明サトルを殺し、世界の底に落ちる決定打になった日。あの時と同じ状況と錯覚してしまう。
でも、それでも。
「僕はやってない」
自分に言い聞かせるように、僕は呟く。僕はただ、地下に来ただけだ。棺桶を開いただけだ。
それだけじゃない。今回は、見殺しにしなかった。例え、僕の最後の悪あがきが無駄だったとしても、助けたいという思いだけは本物だった。
テラスを救うために動いた結果、血まみれになり犯人と疑われてしまった。けれど、この赤が弱みだとは思いたくない。
利用されても構わない。僕は、ヤユ・オーケアは。人生において恥じる行為をしていないと、今でも胸を張って言える。
しかし、それは僕の胸の内の話だった。側から見たら、『吸血鬼』が動き出したとしか思えない。『警察官』という正義側の人間を殺した、魔王の誕生の瞬間だ。
魔法を使わずに王になれる存在。回復魔法が常設された魔法使いにとって、人を殺すと言う発想自体が魔王そのものである。
例え、転生者同士の殺人であっても。次に刃が向けられるのは自分かもしれない。
魔王が出現したらどうするか。魔法学院の教授であるシンはすぐに行動に移す。
「これでも、異世界の異端研究をしているからな。転生者ーー魔王の倒し方は魔王討伐戦線に次いで詳しいだろう。魔素を受け付けない魂を持つ転生者に、魔法は効かない。だけれど、物理的な攻撃は通る」
彼は手にした黒剣を構え、刃先を僕に向ける。
相手が魔王ならば、こちらは勇者になるしかない。そう言いたげな表情だった。
「新たな魔王よ。ここで死んでくれ」




