64.第二のXX 4
何故、何故、何故。
何故、この男がここにいる。オルタが招待客を食堂に集めていた筈だ。テラスがこの場にいるのはあり得ない。
それに、この刃渡二十センチのナイフ。僕が魔王討伐戦線の時に使う主要武器だ。ケプトの自室に軟禁されている際にテラスに押収されたものである。
このナイフが、テラスの首を切った? 宛ら、『吸血鬼』天野ヒトミが血を飲む時のように。
そうだ。この角度で首を切った時が、一番血が飛び出る。そのまま口を大きく開けば、喉を刺激しながら血を飲むことができる。
久しく体験していなかった快感がそこにはある。
「いや」
違う、違う違う違う!
血が噴き出すということは、血液が循環している最中ということだ。心臓がまだ動いていなければ、ここまで勢いはつかない。
死んでいない。
テラス・ムーアはまだ生きている……。
『お前が悪魔たる所以は、吸血という性的欲求にはない。目的のために殺人を犯せる短絡さにもない』
ふと、『詐欺師』の声が脳内に響いた。
『死にゆく人間を冷静に見届ける、見殺しこそが天野ヒトミの罪だ』
「違う!」
僕はもう、悪魔じゃない。
変わったんだ。
ヤユ・オーケアとして十年間、恥じることは一度もしていない。そして、これからも行うつもりはない。
僕は、魔王討伐戦線三番隊副隊長なんだ!
テラスの腰を掴む。そのまま、棺桶とは反対側に引っ張り出す。少年の肉体で大人を支えることができずに、下敷きになる。その間も、血液は砂時計をひっくり返したかのように落ちていく。
時間がない。
このままだと、本当にテラスは死んでしまう。なんとかテラスの肉体の下から這いずり出て、首元を手で押さえる。
ぱっくりと割れたそれは、僕の両手でようやく隠せるほど大きな傷だった。押さえてなければ、胴と頭が離れてしまいそうなほど深い。
ああ、ちくしょう。血が止まらない。
どうすればいい。
そ、そうだ。魔王城二階、ケプトの自室。あそこには医療道具が取り揃っているじゃないか。
医療用メスもあれば、ガーゼもある……。小瓶に入った液体も、もしかしたら生理用食塩水だったりするかもしれない。
何とか手術をすれば……、誰がそんなことができる。
莫迦、手を止めるな。できるかわからなくても、やるしかないだろ。
成人男性の肉体を引きずりながら、地下室から出ようとする。が、少年の僕が動かせるのはせいぜい一メートルほどだった。
二十メートル分の階段を上り、その後更にもう一階階段を上がって、二階の奥の部屋まで運ぶ……、現実的ではない。
それならば、医療道具を持ってくるのはどうだ。一瞬で切り替えた僕は、テラスを置いて廊下へつなぐ扉を開いた。
ぴちゃ、と不快な音が鳴る。時間がないというのに、僕は思わず足元を見た。血の川は、足元まで続いていた。
だめだ、どんなに急いでも、二階まで行って戻ってくるのに十分以上かかる。
『吸血鬼』として、断言できる。十分もたてば、血液の噴水は落ち着いてしまう。いつもだったら、直接首元に唇を当てて、なめとり吸血するような時間だ。そうなれば、胸のポンプは役割を終える。
「うわああ」
情けない声をあげながら、再びテラスのもとに戻る。
血液が溢れ出た後に、心臓が止まる。これは、血液の循環ができていないからだ。つまり、血管が繋がれば、元に戻る。血液は体内で回り、ポンプは動き続ける。
手で首元の切断面を抑える。人差し指と中指の間から血が飛び出て、顔を濡らす。鉄の匂いで目の前が朦朧として、現代と過去の境目が薄くなっていく。
『傷を見せてはいけません』
今度はお母さんの声が聞こえた。目の前に森が広がっていく。
これは、八歳の時の景色だ。親友が転んで木の枝に突き刺さった。溢れ出る血を何とかしようとした僕は、親友の弱みを隠してあげようと口を開いた。
違う、違うって。
そんなことをしても何の意味もないんだ。他人の弱みを隠したってだめなんだ。
『ダメなんだよ。失われた命は戻ってこない。取り返しがつかないんだ』
サトルくんの声だった。彼が僕を殺そうとしたとき、そんなことを言っていた。
死んだら終わりなんだ。これは、転生した僕が一番よくわかっている。
この世界のことだったら大体わかったから、来世に行こう、なんてのは甘すぎる。来世に行っても、人間をやり直しても、過去は消えない。
今世で決着をつけなければならない。だから、死んじゃダメなんだ。
だけれど、現実は非常で、
いつも、僕を見放す。
血の勢いは止まってしまった。
テラス・ムーアは死んだ。たった今、二回目の死を遂げた。
もう、取り返しはつかない。
ギリ、ギリと歯車が回る。不愉快な擦れる音が耳に残った。
そして、最悪なことは連鎖する。運が悪いわけではない。宝くじを買わなければ絶対に大金が手に入らないのと同じく、最悪な状況になった時点で連鎖の可能性が一になる。
一になったということは、二になることもある。取り返しのつかないことが重なっていく。
デジャブだ。サトルくんを殺してしまったあの日。呆然と死体を前にする僕の背後に、お母さんが現れた。そして、今回も同じだった。
凛とした女性の声は、不安そうに僕に降り注ぐ。
「ヤユ?」
振り返りたくなかった。彼女の声を聞き間違えるわけがない。招待客の中で唯一僕と対等で、同じ世界の底を見た同志が、後ろにいる。
「ソクラ、待って」




