51. 世界の底で空を見る
深い絶望もなく。
かといって天に昇るような希望もない。
ヤユ・オーケアの十年間はそんな人生だった。
一度死んだからか、体がまだ未成熟だからか。性的欲求は息を顰め、故に殺人とは無縁な生活になった。
家族も親戚もいない。あるのは、天野ヒトミだったという弱みだけ。
転生者という存在がこの世界でどういう立場なのか、天国の魔王のおかげで理解した。イレギュラーに居場所はない。異世界に住まわせていただいているという自覚があった。
去勢を張り、前世を秘匿し、罪を償う。恥じる行動は十年間一度もしたことがない。
魔法学院魔王討伐戦線三番隊副隊長という役職は、その功績を認められて与えられた物だ。この世界に認められた気分だった。
まあ、全て過去の話だ。
ついさっき、過去の話となった。
前世を棄却するつもりが、今世が瓦解した。
時は現在。死後に行われる警察官の尋問は終わりを迎えた。扉越しに僕の話を聞いていたテラスが、僕を殴りつけるように扉を叩いた。
「意味が、意味がわからない! 天野ヒトミ、お前の殺人には、信念も、復讐心もなかったというのか? 性欲のためだけに、過程として殺人をしていたと言うつもりなのか!」
きっと、テラス・ムーアの前世は、天野ヒトミが死ぬ瞬間に立ち会った警察官の誰かなのだろう。
悪魔の卒業、社会に覆う闇を晴らすために、警察署の前で自殺してみせた僕だったが、警察官からしたら謎が深まっただけだ。
罪人の動機を知る機会が失われ、疑問は死後も続いていた。
転生して、ようやく答えがわかると思っていた。だが、彼の言う通りだ。天野ヒトミの殺人に合理性はなく、同じ悪魔でなければ理解はできない。
「すいません」
本心を告げる。
しかし、僕の謝罪はテラスにとっては求めていたものではなかったらしい。再び扉を叩いて、「すいません……、だと?」と声を張った。
「謝罪をするつもりなのか。あれだけの人を殺していながら、申し訳ないと思っていたのか? 狂人的な思考があったわけでも、歪んだ信念があったわけでもなく、欲望に飲まれていたわけでもなく。理性的に人を殺していたとでもいうのか!」
理性的にじゃなかったら、九歳から人殺しをやっていられなかった。殺人は過程で目的ではなかったから、計画的だった。そんな解答こそ、テラスの求めていたものではないだろう。
「すいません」
「何故だ。お前は人を大量に殺した上で自殺して、世界を引っ掻き回して。そこに意味がなかったと言うつもりなのか」
「すいません」
天野ヒトミが引き起こした事件の全貌を理解できているのは、四人しかいない。本人である僕、地獄を続ける選択をした母。悪魔たちの調整役である『詐欺師』。悪魔そのものである『怪盗』。
それ以外は全て秘匿されている。警察官達にとっては、非現実的な事件だった。
「意味がわからない。理解できない」
テラスの震える声に同意する。僕がやったことは、誰も説明することができない悪行だ。わかっている。
天野ヒトミとしてできることは、謝罪を繰り返すだけだ。
ヤユ・オーケアが正しく生きていくために、天野ヒトミという弱みを隠し続けていた。誰にも利用されないように、社会の敵にならないように。
だが、既に取り返しのつかないところまで来てしまった。僕はもう、正しい道を進むことはできない。悪行が知れ渡り、人類の敵としての道しか無くなった。
それじゃあ、また死ぬ? いや、死ぬことで減刑されることはなく、償いの意味がない。
それじゃあ、殺人鬼に戻る? あり得ない。僕はもう、ヤユ・オーケアだ。
それなら、どうする。社会に属する権利を失い、後ろに戻ることもできない。僕はどの道を進めばいい?
「でも、」
静かに、間を縫うように。流れを反転させる。
後ろに戻ることができないのならば、前に進むしかない。正しい道がないのならば、外れてでも歩くしかない。
ヤユ・オーケアとして生きた十年間に恥は無かった。僕は己の道をいくしかない。
天野ヒトミではなく、ヤユ・オーケアとして。僕は謝罪を通り越した。
「天野ヒトミだったからこそ、殺人の重さを知っています。僕はもう人殺しなんてしていない」
社会を闇で覆うのが魔王ならば、その魔王を借り続ける存在に僕はなろう。
勇者なんて高潔な存在でなくていい。一人の吸血鬼として、人類に貢献してみせる。
「ふざけるな!」
当然の怒声が扉越しに響き渡る。カラスの慌てた声が小さく聞こえる。落ち着いて、と兄を宥めているようだ。
その怒りは正しい。今更、都合がいいってわかっている。間違っているのは僕だ。
だけど、これだけは言わなければならなかった。
「社会を闇に陥れる悪魔たちを、魔王たちを。天野ヒトミと同じ道を辿るものたちを、僕が止めます」
地獄の門は開かれた 二章 完




