46.天国と地獄 2
死にたくないと思ったことは一度もない。
何も、いつ死んでもいいと覚悟をしていたわけでも、人生をを諦めていたわけではない。将来の夢も、明日やりたいことも、まだまだたくさんあった。
単に、死ぬかもしれない状況に陥ったことがなかっただけだ。死という概念は物語の中にあって、僕はいつも奪う側の立場にあった。
こうは死にたくないな、と考えたことは何度もある。
足の筋を切り裂いた時、大抵の人間は言葉にならない声をあげて悶絶する。次に首元に刃を向けた時に、自らの死を悟り、憎悪の表情を僕に向けて死ぬ。
僕は溢れ出る赤い水源を撫でながら、微笑む。そんな弱みを見せたら、僕に利用されるだけだよ。
かわいそうに。きっと、お母さんに教えてもらってなかったんだろう。
僕は違う。愛すべき人以外なら、弱みを見せることはない。死ぬことはないと同じ意味だ。
そう考えていたのに。
見せかけの平和じゃなくて、本物の平和を求めた男がいた。清廉潔白で、真っ直ぐで、僕の弱みを許容することができなかった男がいた。
人を信じて失敗した場合、責任の所在はどこにあるのだろうか。
話してくれと、甘い提案をしてきたサトルくんか、その誘いに乗って話してしまった僕か。
サトルくんは自分の責任だと感じたのだろうか。天野ヒトミの殺人を看破し、取り返しのつかない位置にいると理解した彼は、責任を背負うことにした。
天野ヒトミが自首をするつもりなどない純粋な悪だと気がついた時、覚悟を決めた。殺人という悪に落ちた彼女を止めるには、自らが悪に染まるしかない。
天野ヒトミを殺すことでしか、天野ヒトミを救うことができない。後の惨劇を考えれば、有明サトルの判断は百点が与えられる程、正しい物だった。
正解だった。社会を襲う闇の発生源を潰す、最善策だった。
だけれど、僕に向けられる包丁を見て、サトルくんの覚悟の決まった表情を見て。
死にたくないと、僕は思ってしまった。
せめて、俺の手で。サトルくんから振り下ろされる断罪の刃は、僕の胸を捉えた。肉体を突き破り、心臓を破壊し、生命活動を終わらせる。社会の敵を打ち滅ぼす一撃になる……、はずだった。
目に止まらぬ速度で振り上げられた僕の右手は、包丁を握るサトルくんの手を真下から弾いた。
強い衝撃に、包丁が宙を舞う。状況を読み込めていないサトルくんを置いていくように、僕の左手が包丁の柄を掴んだ。
一秒の間の出来事だ。無意識に、生存本能が動く。脅威を防いだのならば、排除をするべきである。
左手は、仕返しをするように包丁を振り下ろした。
「あ」
どっちの声だったか。
まあ、どっちでもいいか。
適当に振り下ろしたそれは、サトルくんの喉仏に突き刺さる。気道から空気と血液が漏れ、苦悶の表情が浮かんできた。
血がサトルくんの白い服を赤に染めていく。いつものように首を綺麗に切り裂いているわけではないので、飲むには適していない勢いだ。
それでも、赤の液体は僕の顔面に飛び散る。パウダーファンデーションを塗るかの如く、均一に。それは僕の口元にもあたり、思わず舌が飛び出た。
舐めとる。腹の奥を沸き立てるような、鉄の味。いつもと同じ味にもかかわらず、それ以降舌舐めずりが続くことはなかった。
全然、興奮しない。酷く冷静で、目の前の現実から目を逸らしたかった。
息が切れる。苦しい。呼吸ができない。
そんなつもりじゃなかったんだ。
サトルくんは『殺人を許さない』という弱みを見せてくれただけじゃないか。僕を愛してくれていた証明でしかない。
それなのに、それなのに。
取り返しのつかないことをしてしまった。
これが、天野ヒトミにとって欲望とは無関係の初めての殺人だった。
「ひとみ?」
襲いかかる後悔に身を委ねる隙もなく、玄関口から母の声がした。女優業で忙しいはずの母が、今日に限って帰ってきたのだ。
最悪なことは連鎖する。運が悪いわけではない。宝くじを買わなければ絶対に大金が当たらないと同じく、最悪な状況になった時点で連鎖の可能性が一になる。
一になったということは、二になることもある。取り返しのつかないことは、重なっていく。
「お母さん、待って」
包丁から手を離して、玄関のすりガラス越しに母を制止する。
さっきまでの自分なら、母に死体を見せることなんて怖くもなかった。愛すべき者に弱みを見られた分には、かまわない。
でも、今は違う。返り血で真っ赤に染まった顔を見られたら、また同じことになる。サトルくんのように、母にも拒絶される。
隠さなくてはならない。この弱みは、例え愛しているものでも理解されない。
母には何処かに行ってもらおう。死体を片付けて、風呂に入って、それから……。
片付けるって、どこに? リビングのカーペットにまで血が飛び散っている。どこまで掃除すれば、母にバレない?
それに、今までの殺人は、無差別とはいえ計画的だった。長年の経験で、殺しても行方不明者で処理できそうな者を選んでいた。
サトルくんは違う。両親とは仲が良く、彼には妹もいる。真面目な性格で、無断で家を空けることなんて無い。サトルくんの妹とは僕も仲がいい。僕らが付き合っていることも知っているし、直ぐにここにたどり着くだろう。
無理だ。もう何もかも遅いのだ。解決策の終点が終焉を指し示し、僕の体は固まった。何をしても意味がないなら、何もできない。まあ、僕の心情など扉越しの母には伝わらぬ話で、無慈悲にも玄関の扉は開かれた。
「ああ」
納得、と言わんばかりの表情を母は浮かべる。扉を開く前から血生臭かったのだろう。右手で目元を抑えながら、死体を見下ろす。
「有明サトルだっけ。彼氏くんよね。何で殺したの?」
「ち、ちがうの。秘密を共有しただけなの。サトルくん相手なら弱みを握られたって構わないって思ったから……」
「弱みって?」
「……」
答えられない。サトルくんとは違い、僕の弱みは意味のない殺人だ。血を飲みたいという性的欲求を満たすためだけ。欲望だけなら、殺す必要すら本来ない。
だけど、この場合。何も言わなくても、言ったのと同じだった。
「こんな簡単なことも教えられてなかったのね……」
以前から疑問を抱いていたのだろう。殆ど家に帰ってきていない母でも気がつくことがある。夜中に突然家を飛び出したり、服装が変わっていたり、包丁の数が増減したり。違和感は蓄積されて、今、完結した。
母は全てを理解したようだった。
そして、母は僕を拒絶した。
目線を合わさないように、離れるように。目を瞑り、後退りをした。思えば、母は最初から僕という存在から距離を置いていた。
一人で生きていけるように教育したのは、裏返せば一人にさせる予定があったということ。碌に家にも帰って来ず、それでも僕が母を母と認識できていたのは、八歳の出来事があったからだ。
弱みは愛している者になら見せていい。この言葉だけで、母の愛を感じられていた。僕は、強く生きて来られた。逆にいえば、それ以外は何もなかった。
当然の結果だった。僕の弱みを、母は受け止めてくれなかった。携帯を取り出し、どこかに電話をかける。
何処かって、警察以外ないだろう。
言い逃れできない状況だ。母のタイムスケジュールは全てマネージャーに管理されている。帰宅後に直ぐに通報したのだとしたら、全ての辻褄が合う。今回の殺人罪だけでなく、過去の殺人も掘り起こされる。
力なく、膝から崩れ落ちる。地面に広がる暖かなサトルくんの血液だけが僕を受け止めてくれた。
母は現実逃避するように天井を見ながら、電話相手にこんなことを言った。
「契約します。今直ぐ家に来て、全部無かった事にしてください」
耳を疑った。
今、なんて言った?
母は誰と通話している?




