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42.吸血鬼は底に落ちる 1

 天野ヒトミの母、天野メグミ。テレビを見たことのある者ならば誰でも知る大女優だった。


 ゴールデンタイムのドラマで年に二回は主演を張るし、バラエティにも引っ張りだこ。幼い時から忙しかった家に帰ってくることは少なかったが、寂しくはなかった。むしろ、テレビ越しで笑顔を振りまく母のことが誇らしかった。


 そんな僕も、恵まれた容姿を譲り受けていた。母に似た大きな瞳と、闇に溶け込むほど黒い髪。幼いながらも大人っぽく、子役のスカウトが殺到するほどだった。


 母に似ているから、母と同じ道を辿るだろう。周りの評価は勿論、僕自身だって将来は女優になるだろうと思っていた。


 茨の道を進もうとする僕を止めたのは、他でもない母だった。母は成功するまで、数々の困難を乗り越えてきた。その苦しみを娘に味合わせるつもりはなかったらしい。


 一人で生き抜くための教訓をよく口にしていた。これだけは守りなさい、という母の姿だけが、幼い頃の記憶だった。


「人に弱みを見せてはだめよ、ヒトミ。利用されて、お終いなんだから」


「よわみってなに?」


「それはね」


 苦しみを見せてはいけません。

 失敗を見せてはいけません。

 怒りを見せてはいけません。

 傷を見せてはいけません。

 涙を見せてはいけません。


 徹底した孤立的思考。他者に弱みを見せないことが一人で生き抜くための道である。


 月に一度しか帰ってこない母は、それだけを伝えて再び仕事に戻る。天野ヒトミの精神を形成するにあたって核となる考え方だ。実際、後に『怪盗』に教えてもらうまでは、僕にとっての常識だった。


 母を責めることはできない。シングルマザーで頼れる親戚もいない。他人を一切信用しない母は、信頼できる同業者もいなかった。それでも、生計を立てるために女優業の手を抜くこともできない。


 娘には一人でも生きていける強さが必要だった。


 当時はまだ、禁止事項だけを覚えて、その意味を知ろうなんて思わなかった。ただ、母が僕を愛してくれていることはわかっていたし、それだけで十分だった。


 分岐点は、八歳の時だった。


 小学校からの下校中。都心部に住んでいた僕は、自然に惹かれていた。学校から帰る時も、住宅街を避けて近くの山に入ることもあった。

 人通りの少ない獣道を冒険と称して走り回る。精神年齢通りの行動は、他の同年代を刺激して巻き込んだ。


 小学二年生の好奇心旺盛さは伊達じゃない。家の近くの友達と追いかけっこをしながら帰っていた。一年生の時から同じクラスで、親友の一人だ。


「あ」


 間の抜けた声が、背中から聞こえた。何か珍しいきのこでも見つけたのだろうか。それとも、カブトムシでもいたのか。


 親友は樹木にもたれかかっていた。手を間に挟んで、頭を擦り付けるような密着度だ。


「どうしたの?」


 返事はない。代わりに、今まで嗅いだことのないような、鉄の匂いが鼻を突き刺す。不思議と不快感はなかった。


 膝を折り曲げ、脱力した様子に、彼女がふざけているわけではないと遅れながら理解した。足元を見ると、木の根っこがある。あ、転んじゃったんだ。


「ねえ、大丈夫?」


 今回も返事はない。今度は、水が滴る音がした。ぽつ、ぽつと一定のリズムで液体が跳ねる。気がつけば、彼女の膝下には水たまりができていた。


 赤い水たまりが。


 血だ。


『傷を見せてはいけません』


 母の声が脳内で児玉する。何が起きているかわからないが、いけない状況ということがわかった。


 親友が弱みを見せてしまっているのだ。これは行けない。利用されてしまう。

 

「リヨウって、なんだろう」


 今更ながら、母の言葉に疑問を覚える。そもそも、ヨワミってなんだ。前にも聞いた気もするけど忘れてしまった。何がいけないことなんだ。


 ぽつ、ぽつ。

 血の滴る音で思考が戻される。親友をよくよく見てみると、ポニーテールの結び目から何かが生えている。

 鬼になったわけではない。これは、木の枝だ。


 横から見ると、樹木、手、頭を結ぶように枝が伸びている。そこから湧き出るように血が溢れてきているのだ。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 

 考える時間などないと、滴る血液は僕を焦らせる。メトロノームの如く刻まれる音は、僕の思考を歪ませる。



 まずい。これ以上、血が垂れてしまうと大変なことになる。

 何かはわからないけど、僕の親友がヨワミを見せているからリヨウされてしまう。


 助けないと。


 慌てて手を伸ばし、これ以上血が垂れないように手で掬った。まずはこの音を止めなければならない。そのあとは、地面に溢れてしまった血溜まりをどうにかしなければ。


 それでも、血液は止まらない。今度は僕の手で、ぽつ、ぽつと音を鳴らすだけだった。


 どこかに隠さなくてはならない。どこか、どこか……。


 思考を急かすように、お椀状にした手のひらから血液が溢れ出す。


 言葉にならない叫び声が漏れる。これじゃあ、意味がない。何の解決にもなっていない。

 乾き切った口内を唾液で濡らし、唾を飲む。深呼吸をして、鉄の匂いで脳内を満たす。


 そうか。


 僕で隠せばいいのだ。


 両手を口元に運び、親友のヨワミを体内に隠した。これで、誰にも見られることはない、


 喉が鳴る。


 まだ、血の排出は止まらない。


 手で掬うことは根本的な解決になっていない。蛇口の大元を止めなければならない。


 水源に頭を近づけて、そのまま唇を当てた。

 宛ら接吻のように。


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