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38.前世の話をしよう! 1

 血の気が引くという比喩表現を心から理解したことがある。


 あれは、天野ヒトミ、高校一年生。地獄そのものである最悪の冬休みの始まりの出来事だ。商店街を駆け抜ける僕の手を引き、匿ってくれた女性がいた。


 二十七歳、一人暮らし。まん丸な眼鏡が知性を際立たせる大人しめな女性だった。困っている人を見捨てられない善性の持ち主で、酷く困憊している僕を自宅へ招き入れてくれた。


 オートロックのマンションの一室で、温かいシャワーで髪を流してくれ、ふかふかなベッドを譲ってくれた。赤く汚れた制服も手洗いで綺麗にしてくれた。


 僕が『吸血鬼』と揶揄されている存在であることに気がついていない筈がなかった。それなのに、触れることなく暖かな笑みをむけてくれる。


 彼女は商店街の本屋で働いているらしく、朝から夕方までは家を空けていた。ここから先どうするか何も決まっていない僕は、日中を呆然と天井を見上げて時間を潰していた。


 二日目の夕方の出来事である。突如として玄関口から物音がした。本屋の閉店時間までは三十分ほどある。彼女が帰ってくるには少し早い。

 警察官が嗅ぎつけてきたのかと、臨戦態勢に入った僕の前に現れたのは僕と同じ制服を着た女子高生だった。


 後から考えてみれば、家主の妹だったのだろう。目尻がよく似ているし、部活動の終わりの時間に姉の家に寄ったのかもしれない。

 家主の女性が僕を助けたのだって、妹と同じ制服を着ていたからなのかもしれない。妹と僕を重ねていたことだって、後から考えれば簡単に予想できた。



 まあ、その時の僕の精神状態はまともじゃなかった。彼女の妹である可能性が思い浮かばないほど、錯乱していた。助けてくれた彼女のことも一切信用してなかったし、寧ろ突然の来客に裏切られたとさえ思った。


 キッチンにしゃがみ込み、腑抜けた顔をしている女子高生がリビングに足を踏み入れた瞬間に飛び出す。スライディングをするように接近して、『詐欺師』から貰ったナイフで足首を切り裂く。激痛に顔を顰める女子高生の頭を、首元にナイフを当てることで受け止めた。


 部屋に入ってきたのは一人だったらしい。廊下の外に警察官が待ち構えていることもない。室内で静かに終わらせられたので騒ぎが起きる心配もない。

 これで一安心、と一息ついたタイミングで、「後から考える」時間が来てしまった。ウォーターサーバーの如く溢れる赤い噴水に口元を寄せつつも、思考は冷静に成っていく。


 死体の服装、顔立ち。結論はすでに見えているが、そこまで辿り着いてしまえば、やってしまった事実に直面することになる。


 だから、思考を放棄して性欲に従っていた。今はただ、喉を通る血液の喉越しのよさに身を任せればいい。


「え?」


 玄関から女性の声がした。気がつけば、本屋の閉店からほど良い時間が経っていた。僕を助けてくれた心優しい女性は、酷く歪んだ表情で僕を見て叫び声を上げた。

 血の気が引いた瞬間だった。


***


 前世の吐き気を催す記憶に脳が支配されている。決して、現実逃避をしているわけではない。あの日と同じように血の気が引くような状況で、デジャブを感じているのだ。


 過度なストレスだろうか。貫くような高音の耳鳴りが脳内でこだまし、回転性めまいが僕を襲う。テラスが意気揚々と何かを喋っているが、文章として理解することができない。


 喉が渇いた。じわじわと精神が引き戻されていく感覚がある。ヤユ・オーケアから天野ヒトミへと後退していく。自身を拒絶し、認めたくないと頭を抱えた。


 前世の話など、できるわけが無い。話すことなど何もない。放火魔と関わりもないし、今回の事件には何も関係がない。僕はこの世界に来てから誰も殺していない。


 それなのに、処刑代の前に立たされた気分だった。招待客全員が僕を白い目で見て、指を刺し、眉を顰めている。気がつけば足元は血まみれで、天井から血液が滴り落ち、視界が赤く染まって。


「ヤユ、大丈夫?」


 凛とした声が、脳内の霧を晴らした。視界が元の色に戻る。他の招待客は皆、意気揚々と語るティールに耳を傾けていた。ソクラだけが、僕を見ていた。


 大丈夫、と声を振り絞る。ソクラ・スタウという純白なキャンパスは一度描かれた色を疑わない。僕が前世に触れて欲しくないといえば、率先して話題を逸らしてくれていた。


 とはいえ、彼女を持ってしても、この状況を打破することはできない。犯人探しをしている最中に道を外すのは、自分の首を絞めることになる。


 だからこそ、「大丈夫」と聞いたわけだ。耳鳴りや頭痛が共有されるわけではない。このままテラスの思惑通りに進んで大丈夫か、その確認になる。


 勿論、大丈夫ではない。でも、どうしようもなかった。


「大学卒業後は、料理の道に進んだ。最初はデザート専門のコックとして都内で働いていたのだが、凄腕のシェフに声をかけていただき……」


「ティールくん、君の経歴はわかった。死因は何なんだ?」


 長々と物語を語るように喋り続けるティールに呆れたのか、テラスは締めに入った。後ろめたい経歴のない人間の話は、ここでは求められていない。彼の話を鵜呑みにしているわけではなかろうが、これ以上は時間の無駄と判断したのだろう。


 そう。別に、嘘をつけばいいのだ。本当の話をする必要は何もない。


「それじゃあ、次はヤユくん。前世の話をしてもらおうか」


 鼓動がいつもより大きく聞こえる。最初から聞こえていたかのように耳鳴りもセッションを始めた。


 今度こそ、全員が僕を見ていた。

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