第37話 知性ある人形と失われた友情
亡霊の峠、標高2800メートル。
吹き荒れる雪は視界を白く塗り潰し、肺に吸い込む空気は凍てついた刃のように気道を切り裂く。
俺たちは、崖の影に身を潜めながら、数百メートル先に鎮座する不自然な鉄の扉――「研究所」の入り口を凝視していた。
遥斗「……どうやって入る。正面突破は、この状況じゃ自殺行為だぞ」
レン「あぁ。だが、周囲は断崖絶壁だ。入り口を固めているあの二人を無力化する以外に道はない」
遥斗「とりあえず作戦を立て直す為に、1回下山しないか?」
王女「それがいいですね」
吹雪の音に紛れ、俺たちは顔が触れ合うほどの距離で密談を交わす。
人間であれば、数メートル先でも聞き取れないはずの微かな囁き。だが。
???「――あそこに、ネズミがいますね? どうしますか?」
鼓膜を叩いたのは、感情の起伏が一切削ぎ落とされた、氷のように冷徹な女の声だった。 俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
遥斗(嘘だろ……。この距離、この吹雪の中で、今の声を聞き取ったのか!?)
崖の入り口に立つ、白装束の影。その一人が、正確に俺たちの潜伏場所へと視線を向けた。
もう一人の、背の高い男の影が静かに口を開く。その声には、虫を潰す決断すら介在しない無機質な「殺意」だけが宿っていた。
???「……そうか。命令だ。そいつらを、全員残らず殺れ」
遥斗「!? 気づかれた! 全員、回避しろッ!!」
俺が叫んだのは、ほとんど本能だった。
刹那。
バゴォォォォォン!!
大気が爆ぜる音が響くと同時に、視界から景色が消えた。
いや、景色が消えたのではない。**「何か」**が、目で追えない加速で、俺たちの眼前にまで到達したのだ。
遥斗(は?速すぎる……! 反応できな――)
俺が短剣を引き抜くよりも早く、隣にいた「白猫」が、小さな呻きを漏らした。
白猫「……グァァァ……!?」
視界の端で、白い毛並みが弾丸のように後方へ弾け飛ぶ。
それは「攻撃」というより、ダンプカーに正面衝突したような一方的な破壊だった。
白猫の体は雪の斜面を叩きつけられ、亡霊の囁きが響く谷底へと、成すすべなく転げ落ちていく。
遥斗「白猫ッ!!」
叫ぶ俺の目の前、雪煙が晴れた場所に、「それ」は立っていた。
赤い、どす黒い返り血を浴びたような毛並み。光を失い、深い殺意で濁った双眸。無表情の獣人。その服装は、以前俺たちが保護したばっかりの時の白猫と同じ、研究所の汚れた実験服だった。
レン「クソッ……『ヘキサ・チェーン』!」
レンが咄嗟に、紫色の魔力で編まれた鎖を放つ。並の魔物なら、身動き一つできずに縛り上げる封印魔術。だが、赤色の獣人は、空中で体を独楽のように回転させると、まるで、重力を無視した挙動でその全てを回避した。着地と同時に、獣人はレンへと狙いを定める。
遥斗(こいつ、狙いを絞ってやがる……。統率の取れた動き……。まるで人間みたいだ)
獣人が地面を蹴る。雪原が爆発したように舞い上がり、一瞬でレンの懐へと潜り込む。
レンは連続して封印魔術を放つが、獣人は最小限の首の動きだけでそれを避け、レンの喉元へ鋭い爪を突き出した。
「させない……っ! 『アイギスの壁』!」
フィオナの叫びと共に、レンの目の前に小さな、だが強固な六角形の障壁が展開される。
ガギィィィン!!
爪と魔術が衝突し、火花が散る。その隙を、俺は逃さなかった。
遥斗「そこだぁッ!!」
横から肉薄し、俺は短剣を獣人の腹部へと一気に突き出す。獣人はレンから跳んで距離を取ろうとしたが、俺の踏み込みの方が一歩速い。
遥斗(いける……! フィオナ、障壁を頼む!)
獣人が空中で反撃の右腕を振り上げる。だが、俺の目の前には既に、フィオナがピンポイントで展開した極小の防御魔術が盾として存在していた。獣人の拳が障壁に阻まれる。
それを見た獣人は、即座に自身の体に防御魔術を纏わせた。
遥斗(無駄だ。俺の短剣を、甘く見るなよ……!)
俺の持つ短剣――特殊な魔術がかかっている「魔絶」の刃。
パリンッ!!
獣人の展開した障壁は、まるで薄いガラス細工のように、音を立てて粉々に砕け散った。 刃の先が、獣人の腹部、その皮膚を裂く感覚。 勝った。
そう確信した瞬間、獣人の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
遥斗「……っ!?」
獣人の周囲に、猛烈な風が渦巻く。
風魔術『サイクロン・バースト』。至近距離で放たれた衝撃波が、俺の体を木の葉のように吹き飛ばした。
レン「遥斗、しっかりしろ!」
後方にいたレンが俺の体を受け止める。
雪の中に足を突き立て、俺は激しく呼吸を整えながら、再び距離を取った獣人を睨みつけた。
遥斗(……こいつ、今、俺の短剣の特性を理解して『風』で距離を離したのか? 身体能力任せの暴走とは違う。戦術を理解してやがる……!)
白猫が魔力暴走を起こした時は、ただ圧倒的な力で暴れるだけだった。
だが、目の前の赤色の獣人は違う。状況を判断し、最適な魔術を選び、敵の弱点を突こうとしている。
これには明確な「知性」がある。
遥斗「おい……。お前、言葉が通じるのか? 研究所の言いなりになって、楽しいのかよ!」
俺の問いに、獣人は答えない。
ただ、再び深い溜めを作るように腰を落とし、次の一撃で俺たちの首を刈り取ろうと踏み込んだ――その時。
「……やめて、セレス! 我たちは、敵じゃないのだぞ……っ!!」
雪の谷底から、ボロボロになった白猫が這い上がってきた。
彼女の白い毛並みは泥と雪で汚れ、肩は激しく上下している。
だが、その瞳には、かつて見たこともないような深い悲しみと、必死の情熱が宿っていた。
白猫「セレス……! 我だぞ、一緒にあの地獄にいた我だぞ。また一緒に、あのお日様の下で追いかけっこをすると約束したではないか!」
白猫は、あえて武器(爪)を隠し、赤色の獣人――セレスと呼ばれた少女へと歩み寄る。 対話を。
かつての友を、言葉で救おうとする無謀な試み。
遥斗「白猫、下がれ! そいつはもう――」
俺の制止は届かない。
赤色の獣人、セレス。彼女はその無機質な瞳を、親友であったはずの白猫へと向けた。
一秒。二秒。
だが、その瞳に「再会」の喜びが宿ることはなかった。セレスは、白猫の必死の叫びを「雑音」として処理するかのように、再び無表情のまま、その指先を鋭い凶器へと変え、親友の喉元へと襲いかかった。




