第31話 逆走の一閃と終焉の鎖
視界が、加速する。
背後に迫るレスタリア王城の巨大な城壁は、もはや回避不能な質量となって俺の背中を圧迫していた。空気を切り裂く轟音の中、背筋を撫でる冷たい風は、死神の指先が俺の頸椎をなぞっているかのような絶対的な死の予感そのものだった。
正面からは、漆黒の魔力を全身から噴き上げた獣人の少女が、俺の心臓を抉り出すべくその爪を振り上げ、地を裂くような咆哮と共に肉薄してくる。
衝突まで、あと一秒。
俺の「HP 0.1」という脆弱な肉体が、石壁に激突して物理的な肉塊に変わるまで、もはや猶予は残されていない。
遥斗(……避ける時間はない。だったら、ぶつかる直前に叩き出すしかない!)
俺は一つの案を思いついた。それはあまりに危険で、成功の保証などどこにもない博打だ。だが、立ち止まれば死、ぶつかれば死というこの状況で、常識的な選択肢などとっくに使い果たしている。
俺は腰をひねり、迫りくる城壁の表面を見据えた。
そして、自分の背中と壁のわずかな隙間に、自分の方を向いた巨大な「風魔術」の魔法陣を展開する。
遥斗(頼む……動いてくれ!)
俺は体内に残った魔力(MP)のほとんどを、この魔法陣一点に注ぎ込んだ。魔力の奔流が血管を灼き、意識が朦朧とするほどの負荷が全身を襲う。だが、俺は歯を食いしばり、魔法陣に命じた。
この風魔術に、俺の特権能力である『ERROR』を上書きをしておいた。
効果はシンプルだ。この魔法陣から放たれる凄まじい風圧の「当たり判定」を、この場にいる全員ではなく、『俺一人だけ』に限定する。
これが普通の風魔術なら、周囲の建物や背後の城壁を破壊するか、あるいは俺を追いかけてくる獣人をも吹き飛ばしてしまう。そうなれば、衝撃のクッションにはなっても、この後俺が魔力(MP)切れを起こして殺されてしまう。
だが、ERRORで俺だけに効力を限定すれば――話は別だ。
◇◇◇
俺の背中が、城壁の冷たい石面に触れる。
その瞬間だった。
ドォォォォォォォン!!!!!
展開された魔法陣から、爆発的な風の塊が射出された。
城壁に叩きつけられるはずだった俺の身体は、その圧倒的な風圧によって、壁に触れる直前で強引に静止させられた。風が物理的なクッションとなり、激突の衝撃を殺し、そして――反動によって、俺の肉体は猛烈な勢いで前方へと弾き飛ばされた。
物理法則を無視した急停止と急発進。
内臓がひっくり返るような衝撃が全身を走るが、俺は絶叫を噛み殺し、右手の短剣を真っ直ぐに突き出した。
獣人の少女は、驚愕にその赤い目を見開いた。
彼女の本能は、獲物が壁に激突して砕ける未来を確信していたはずだ。それが、あろうことか壁から「跳ね返り」、自分の方へと弾丸のごとき速度で突っ込んできたのだ。
この超至近距離、かつ予想外の機動。いかなる野生の本能をもってしても、防御は間に合わない。
「……ガッ、あ……!?」
加速した俺の短剣は、無防備な彼女の腹部を、深々と貫いた。
俺が風の影響を受けた一方で、ERRORによって除外されていた彼女は、風の干渉を一切受けず、そのまま慣性の法則に従って壁へと飛び続けていた。
短剣が腹に刺さったまま、自分自身の突進力が合わさった凄まじい勢いで、城壁へと激突する。
「ズガガガガガガガガガガガガガガガガァァァァァァァン!!!!!」
今度こそ、本当の、そして決定的な激突音が王城に響き渡った。
壁には蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が走り、崩れ落ちる瓦礫が彼女の身体を無慈悲に飲み込んでいく。
◇◇◇
俺は風魔術によって吹っ飛ぶ軌道を変えた俺は、最後に残った絞り出すようなMPを使い、空中で姿勢を制御するための風魔術を放つ。
「は、……はぁ、……はぁ、……げほっ!」
血を吐きながら、俺は何とか地面へと着地した。
だが、着地した瞬間――。
「……っ、……あ、……」
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。膝が笑い、そのままドサリと、冷たい地面に突っ伏した。
しようともしていないのに、全身から力が勝手に抜けていく。まるで、肉体を繋ぎ止めていた糸がすべて切れてしまったかのようだ。
魔力を使いすぎた。神経を削りすぎた。そして、この「HP 0.1」という限界を超えた戦いを続けすぎたのだ。
遥斗「……流石に、……もう、動けねぇよ……。でも、これで、……終わったんだよな……?」
静寂が、廃墟となった広場を包む。
瓦礫の山となった城壁。あれだけのダメージを食らえば、もう動けるはずがない。
俺は安堵の溜息を漏らし、重くなった瞼を閉じようとした。
――その直後だった。
「バゴォォォォォォォン!!!」
静寂を、絶望が突き破った。
城壁の瓦礫が内側から吹き飛び、巨大な石塊が四方八方へと散らばる。
遥斗「嘘だろ……」
俺はもはや、苦笑いを浮かべるしかなかった。
全身が鉛のように重く、指先一つ動かせない。これが、物語でよく言う「絶体絶命」というやつだろう。
◇◇◇
ゆっくりと砂埃が晴れていく。
そこから姿を現したのは、もはや「美しき獣」などと呼べる代物ではなかった。
彼女の姿は凄惨を極めていた。
全身の至るところから鮮血が噴き出し、腹部には俺が突き立てた短剣が、いまだ深々と刺さったままだ。
そして、何より目を背けたくなるのは――彼女の左腕だった。
肘から先が、先ほどの激突の衝撃で完全に消失していたのだ。断面からはどくどくと、赤黒い血がダラダラと溢れ出し、彼女が歩むたびに地面を赤く染めていく。
それでも、彼女は死んでいなかった。
理性を失い、痛みすら超越した殺戮の化身が、欠損した腕から血を流しながら、ふらつきと一歩ずつ俺に近づいてくる。
彼女は俺の目の前まで来ると、動きを止めた。
その瞳には、光も感情も何もない。ただ、目の前の獲物を殺すという純粋な命令だけが残っている。
彼女は、先ほどまで自分の尻尾に巻き付けていた「長剣」を、震える右腕へと移した。
彼女はゆっくりと、長剣を天に掲げた。
俺にトドメを刺すために。
俺は動けない。逃げられない。叫ぶ力さえない。
ただ、光に照らされた銀色の刃が振り下ろされるのを、死の宣告を待つ死刑囚のように見上げることしかできなかった。
遥斗(……フィオナ。……レン。悪い、……ここまでみたいだ……)
俺は静かに目を閉じた。
◇◇◇
――ジャリィィィィィィィィィィンッ!!!
予期していた鋭い痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに聞こえてきたのは、冷たく、重々しい金属の擦れる音。
「――ガ、……ァァッ!?」
獣人の少女が、苦悶に満ちた声を漏らした。
俺が驚いて目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
どこからともなく飛来した、漆黒の重厚な「鎖」。
その鎖は、獲物を縛り上げる大蛇のごとく、彼女の右腕を、脚を、そして傷だらけの身体を瞬く間に幾重にも拘束していた。
天に掲げられていた長剣は、鎖の引き込みによって強引に地面へと叩き落とされる。
遥斗「ハッ……。来んのが遅えよ」
この、独特の鎖の鳴る音。
この、どこか冷たく、それでいて揺るぎない確信を秘めた魔力の気配。
砂埃の向こう側から、聞き慣れた、そして今この瞬間、世界で最も心強く感じる声が響いた。
???「……すまねえな。俺が思っていたよりギリギリだったようだな、遥斗」
瓦礫を踏みしめる音が近づいてくる。
その光を背負い、俺たちの前へと姿を現した。
第32話に続く――。




