第23話 自我の喪失と魂の共鳴。そして終戦へ
静寂が支配するはずの『ダーク・エリア』内に、生々しく、粘り気のある音が不気味に響き渡った。
ドロリと、鏡のように滑らかな黒い石畳の上に、赤黒い鮮血が滴り落ちる。それは、先ほど遥斗が放った渾身の短剣が、フェリクス校長の横腹を深く、鋭く抉った証だった。
「……ぐ、ぅ……はぁ、はぁ……っ、ふふ……」
フェリクス校長が、苦悶の表情で自らの脇腹を抑え、膝を折る。そこには、遥斗の『ATK 2000』という暴力的な数値がもたらした、骨まで達する深い裂傷が刻まれていた。傷口からは止めどなく血が溢れ、彼が纏う最高級の刺繍が施された魔導ローブを、どす黒く染め上げていく。
校長は震える手で懐から、幾多の戦場を潜り抜けてきたであろう年季の入った止血用の魔導具を取り出し、即座に自らの傷口に押し当てた。
ジジッ、と肉が焼ける嫌な音と、鼻を突く焼灼臭が立ち込める。魔力によって強制的に血管を焼き潰し、肉を接合する応急処置。その絶叫を誘うほどの激痛に顔を歪めていた。
フェリクス「……認めざるを得ませんね。今の攻防、そしてあなたの瞳に宿るその執念を見て、私はようやく理解しました。……教育者として、私はあなたたちをあまりにも過小評価していた。いや、侮っていたと言ってもいい。……私は、あなたたちには勝てない」
校長の口から漏れたのは、冷徹なまでの敗北の認諾だった。しかし、その声に絶望や恐怖の色はない。あるのは、鋼のように硬く、冬の湖底のように冷ややかな決意だけだ。
フェリクス「あなたは、あまりにも危険すぎる存在だ。遥斗くん。あなたの持つ能力という理外の権能、そしてその精神。このまま生かしておけば、いずれ我が至高の主……魔王様の計画において、最大にして最悪の、排除すべき弊害となるでしょう。……ならば、私が魔王様への忠義を示すためにできることは、もはやただ一つ」
校長が震える指先でポケットから取り出したのは、一本の赤色の注射器だった。
それはかつてレンの故郷を焼き、数多の理知ある魔物を、ただの虐殺獣へと変え果てさせた――あの『凶暴化させる薬』だった。
遥斗「……っ!? まさか、あんた、それを自分に使うつもりか!?」
フェリクス「この薬は、対象の魔力を意図的に暴走させる禁断の触媒です。魔力暴走――それは既存の魔術体系という枠組みを根底から破壊するほどの、神域に近い力を一時的に手に入れることができる。だが、この薬を人間などの人族に使えば、自我の崩壊は数秒、肉体の自壊も免れません。ですが……」
校長の瞳に、常軌を逸した狂信の火が灯る。彼は震える声で、自らの魂を魔王へ捧げる供物とするように叫んだ。
フェリクス「魔王様のためならば、この卑小な命など安いもの。……我が身を、我が魂を血肉ごと捧げ、あなたたちを地獄の深淵へ連れて行きましょう。魔王様に栄光あれ!!」
遥斗「クソ! 」
遥斗は地面を蹴り、残された体力を振り絞って突進した。だが、指先が届くよりも早く。
校長は自らの左腕に迷いなく針を突き刺し、親指で一気にその猛毒を体内へと注入した。
◇◇◇
「ア、ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
領域全体が、物理的に震動するほどの絶叫。
校長の身体から、雷光のような濃密な魔力が噴き出した。彼の白目は真っ赤に充血し、目や鼻などから血がとめどなく流れていた。
そこには、もはや「フェリクス」という名の人格は存在しなかった。
薬によって理性を根こそぎ焼き切られ、ただ目の前の敵を抹殺するためだけに再構築された、魔術の自動掃射マシン。
先ほどまでは、自身の魔力残量を計算し、領域の維持に必要なコストを考慮しながら戦っていた。だが、今の彼は違う。残りの寿命、細胞の一個一個に至るまでを魔力へと変換し、隙を一切排除した超高火力の術式を、呼吸をするように叩き込み始めたのだ。
ドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!
遥斗「くっ……!? なんだよ、この密度は……冗談じゃねえぞ!」
闇魔術の消滅弾と、真空の刃である風魔術が、交互に、あるいは重なり合うように放たれる。弾幕という言葉すら生ぬるい。それは、あらゆる回避の選択肢を奪う「死の嵐」そのものだった。
遥斗(まずい……身体が鉛のように重い。ATK 2000の維持とERRORの連続起動で、体力がもう、限界だ……!)
脳内を走る思考のクロック数が、極限状態の反動で目に見えて落ちていく。
一歩。わずか数センチの足の運びが、疲労によって少しだけ遅れた。
その一瞬の、致命的な遅滞を、消滅の性質を持つ闇が逃さなかった。
遥斗「あ……っ」
シュッ。
音もなく、遥斗の左側を、絶対的な虚無を孕んだ闇の弾丸が通り抜けた。
直後、焼けるような熱さと、脳を直接巨大なドリルで抉られるような激痛が遥斗を襲った。
遥斗「ぐあああああああああああああ!!」
左耳が、跡形もなく消えていた。
闇に触れた瞬間、そこにあった皮膚が、複雑な軟骨が、因果ごとこの世界から消滅したのだ。切り口からは、止めどなく鮮血が噴き出し、痛みで世界がぐにゃりと歪み、天地が逆転したような錯覚に陥る。
レン「遥斗!! 嘘だろ……遥斗ぉ!!」
レンが叫びながら、必死に封印魔術を発動するが、凶暴化した校長の放つ闇魔術によって、鎖が校長に触れる前に消滅した。
耳を失ったことによる激烈な苦痛。それにより、遥斗の回避精度はさらに劇的に低下した。猛烈な風魔術の刃が遥斗の全身を次々と切り裂き、学園の制服はボロ布へと変わり、肉の裂け目から血が滴り落ちる。
遥斗(……死ぬ。このままだと。……どうする? 何か、何かこの絶望をひっくり返す、の方法はないのか!?)
◇◇◇
朦朧とする意識、遠のいていく意識の境界線で、遥斗の脳裏に一つの狂った仮説が浮かんだ。
自分の能力『ERROR』。そして他者のステータスに干渉し、情報を読み取る『糸』。
これまでは一方的に敵の情報を暴き、書き換えるだけに使っていたが、もしこの『糸』を、信頼し合える自分と仲間の間に繋ぎ、情報の「バイパス回路」として機能させることができたなら?
遥斗(……ステータスの移動。俺とレンのステータスを……一つの器に統合できるか!? もしそれが可能なら、今の俺の限界を超えることができる!)
それは理論上、ゲームの仕様を根底から踏みにじる禁忌の操作だった。失敗すれば、二人とも闇魔術と風魔術によって殺される。選べる道は他にない。
遥斗「レン! 頼む、協力してくれ! 俺の『糸』でお前の持つ力のすべてを、俺に……俺に貸してくれ!!」
レン「……っ、何をするつもりかは分かんねえ。だがな、お前のその無茶苦茶な目を見れば十分だ! やれ、遥斗! 俺の命も、魔力も、魂も、全部お前に貸してやる。好きに使え!!」
レンの、魂の底からの叫び。それに応えるように、遥斗は残された全ての精神力を一点に集中させ、レンの魂の核へと紫色に光る『糸』を伸ばした。
「ERROR:ステータス・ムーブ実行!!」
視界に、レンのステータスウィンドウが重なり合う。
遥斗は迷わず、指を動かした。レンの膨大なMP、長年の修行で鍛え上げられたATK、DEF。それらの項目から、合計で「1000」に及ぶ数値を抜き取り、自分の枯渇したMPへと流し込む。
さらに、これまで命を削って維持していた自身のATK極振りを解除し、そのすべての物理エネルギーを、純粋な魔力へと再変換。
【システム警告:個体値が許容量を超過。現在のステータス:MP 3000 / ATK 1 / DEF 1】
極端。あまりにも歪で、あまりにも美しい、魔法使いとしての極致。
レンの魂と、深い場所で繋がっている感覚。一人の人間では決して耐えきれない、神の重みに等しい負荷を、二人の魂が肩を並べて分かち合っている。
遥斗「……レンのステータス貸してもらったぜ」
レン「ああ……。暴れろ、遥斗。俺たちの全てを、あの怪物の、その傲慢な顔に叩きつけてやれ!」
◇◇◇
遥斗は大きく跳躍し、校長から距離を取った。目指すは、この『ダーク・エリア』の境界ギリギリ、最も離れた位置だ。
凶暴化した校長は、もはや人間の言葉を発することはなく、両手で巨大な闇の渦を形成している。
防御魔術? そんなものは今の彼には使えないと言っていいだろう。ならば、眼前の標的を原子レベルで消し去るための、純粋な攻撃。
遥斗「攻撃に全振りしたか……。校長、あんたらしい最期だ。なら、賭けてやるよ。俺とお前の、どっちの執念が、この世界を塗り替えるか!!」
遥斗の前方に、これまでに人類が目にしたこともないほど巨大で、精緻な魔法陣が展開された。
遥斗「全MP……魂の最後の一滴まで、一滴も残さず消費。……これで、終わりだぁぁぁ!!」
遥斗の背後に、レンの幻影が重なる。レンの温かな手が、震える遥斗の腕を支え、共に魔法陣へと、二人の命そのものと言える魔力を流し込む。
「全力、全開……ッ!! 『インフェルノ・ブラスト』!!!」
放たれたのは、火柱などという言葉では説明できないものだった。
それは、領域の空間そのものを焼き溶かし、因果を焼き切るような、巨大な「白熱の奔流」だった。あまりの熱量に、闇の空間が「ピキピキ」と悲鳴を上げて崩壊し始め、世界が白く塗り潰されていく。
対する校長も、最後にして最大、己の肉体の崩壊と引き換えに絞り出した闇魔術を解き放った。
ゴォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!
赤と、黒。
互いの全存在、全人生を賭けた力が、領域の中心で激突した。
最初、闇魔術がその異常な消滅特性で炎を食らい、圧倒的な暴力で押し返そうとしていた。
遥斗「負ける……かよ……ッ!! 俺たちの復讐は、まだ始まってばかりなんだよぉぉ!!」
レン「おおおおおおおおおお!! まだだ、まだ止まるな遥斗ぉ!!」
レンの魂の輝きが、遥斗の中でさらに強く、眩しく爆発した。
その瞬間、炎魔術は更なる物理限界を超えた膨張を見せた。
炎は闇を飲み込み、闇の虚無すら燃料として焼き尽くし、あらゆる物理法則をバグによって塗りつぶして、フェリクス校長の剥き出しの身体を直撃した。
◇◇◇
「……次は……もっと……強固な……対策を……魔王様、の……ために……」
業火に焼かれ、白光の中で消滅していくフェリクスの唇が、最期にそう微かに動いた気がした。
その血走った瞳から、薬による狂気が一瞬だけ消え、かつてこの学園を築き、多くの才能を愛したはずの、孤独な教育者としての、寂しげな色が戻ったように見えた。
だが、その身体に慈悲はなかった。炎は彼の肉体を呑み込み、彼が抱いていた狂信も、学園での日々も、すべてを等しく光の粒子へと変え、虚空へと霧散させていった。
主を失った『ダーク・エリア』が、まるで巨大な硝子が砕けるような音を立てて崩壊する。
まばゆい視覚的な暴力が収まると、そこは元の、静まり返った夜の運動場だった。
「遥斗さん!! レンさん!! 返事をしてください!!」
遠くから、フィオナの悲鳴のような切実な叫び声と、国の騎士団の重厚な足音が、現実の音として聞こえてくる。
領域という隔離空間が消滅したことで、外の清涼な空気と、自分たちを呼ぶ仲間の声が、ようやく遥斗の鼓膜に――残された右耳に届いた。
レン「……やったな、遥斗。……俺たちの、勝ちだ……。ようやく、終わったな」
レンが、全身から力を抜き、震える足で遥斗の肩を支える。
だが、遥斗にはもう、その温もりに答えるだけの力は一滴も残っていなかった。
遥斗(……ああ、良かった。……みんな、無事なんだな……)
MP 3000という肉体の限界を超えた不可。左耳を失い、神経を焼き切るような激痛。そして、張り詰めていた緊張という名の糸。
すべてが限界の、その先まで磨耗していた。
遥斗の視界が、急速に冷たく、暗い暗転へと落ちていく。
駆け寄ってくるフィオナの、涙に濡れ、鼻先まで赤くした必死な顔が、最後に意識の裏側に焼き付いた。
バルモンド魔剣術学校、歴史上最も長く、最も残酷だった一夜が、ようやく、静かに幕を下ろした。
第24話に続く――。




