ページ11 爽やかミントティー(前半)
本日は店を閉じて虫退治です。
ジーが苦手な方はご注意ください。
パン祭りから戻ると、奴がいました。
厨房のすみにひっそり隠れるあいつです。
白光りの、あれ。
カサカサ……カサカサ……ブブブン!
そう、奴の名は──
「ジー、です!」
「きゃあああああ!」
悲鳴をあげるノルをかばい、ロゼがすぱーんと杖を振り下ろした。
こと切れるジー。ひっくり返って六本の細足を無様にさらしている。気味が悪い。ロゼはふっと息を吐くと振り向いた。
「あの、こういう場合はノルさんが、まっしぐらすると思うのですが……」
「それは猫さんの場合!」
ひぃっと怖がり、ローブを掴んでくるノルを引き剥がしてロゼはジーを素手で掴んで窓の外に放り投げた。
ぽいっ。
ジーが弧を描いて地面に落ちるのを見届けると、彼女はぱたんと窓を閉めた。
「ロゼさん、つっよ!」
「いえいえ、ノルさんが脆弱すぎるのかと……」
「んなわけあるかボケぃ! ふつうこういうときは、ふたりして『きゃあっ』だろ⁉」
「それはノルさんだけで充分ですよ。それにふたりして怖がっていたら誰がジーを駆除するんですか?」
「うぐ……それはまぁ、ロゼさんが?」
「でしょう? どうせノルさんじゃ気絶するだけですし、ここはわたしが勇敢でなければ」
「毎度ながら、たくましい子」
「ちなみに、ジー様は復活なさっていました」
「まじで⁉ さすがは生命力の高いやつ……」
ノルはぞっとしてぶるりと身体を震わせた。
◇ ◇ ◇
厳しい夏も終わりに近づき、涼やかな秋風が吹きはじめる今日この頃。ふたりが麦狩りの依頼を終えて店に戻ってくると、雪のようにきらきらと光る白い虫が現れた。
通称ジー。
名前を言ってはいけないわけではないが、誰もその虫の正式名称を知らないので、自然とそう呼ばれている。
起源は不明。神話の時代に多くの虫たちが絶滅の一途を辿るなか、その虫だけはどんな天変地異が起きようとも今日までしぶとく生き残ってきた。
そのジーが、厨房に入ったノルの前にひょっこり現れたのだから、ノルは悲鳴をあげてロゼに助けを求めた。そこでロゼは杖を振るって、みごとジーを退治したというわけであった──
「もう嫌だ……」
ノルはしょぼんと耳を垂らして厨房の隙間をのぞいた。傍らで掃除をしているロゼはさすがにうんざりした顔でノルを見ている。
「あの、掃除をしないなら邪魔なので、ホールにでもいって涼んでいてください。そちらに冷えた水を用意してありますので」
ロゼが調理台に視線を向けると、ノルもぱっと顔をあげて水差しを見た。きらきらと輝く綺麗な水が入っている。さきほどロゼが店の近くの井戸から汲んできた新鮮な水だ。
王都は水まわりが整備されているので、蛇口をひねれば水が出るのだが、ロゼ曰く、雰囲気づくりは大切らしい。
「はぁ……んじゃ、向こうに持ってって一杯飲むかぁ。──って、冷たっ!」
ノルが水差しに近づくと、ぽちゃんと水が跳ねてノルの顔にかかった。
なんだ? と思って目を開けると、そこには白いやつがいた。正確には奴が水差しの中に沈んでいる。
節くれだった細足が、ガラス越しに、うごうごと蠢いていて気持ちが悪い。
「☆&◇♯◆□%⁉」
ノルは声にならない悲鳴を上げた。そしてばたん。彼は気絶した。
「おや、天井から落ちてきたのでしょうか」
ロゼが水差しを覗いて、「この水は捨てるようですね」と呟いている。身体を起こしたノルはロゼのローブにひしとくっついた。
「ちょ! おま、なんで⁉ なんで、そんな平気なの、ほんと……水に、水のなかっ、に!」
うまく言葉が紡げない。ぱたぱたと耳を動かしてノルは盛大に取り乱した。
「いえ、流石にわたしも水差しに入ってしまったことには衝撃に震えていますが」
「どこが⁉」
「ここが」
ロゼが人差し指で自分の頬をさす。無表情だ。ロゼは普段から表情がくるくる変わるようなタイプの少女ではないが、それでもそれなりの喜怒哀楽はある。それがいまは無の境地に達している。
つまり、驚きすぎて反応できなかった、とロゼは言いたいのだろう。
ノルも「おぅ……」と軽く返して、互いに頷きあった。
「とりあえず、このまま外に捨ててと……」
ロゼがさきほどと同じように窓から水差しをかたむける。
中身のジーも地面に落ちたようだ。ひっくり返ったあと、すぐにもんどりうってどこかに行ってしまった。ノルはロゼの隣でその光景をみて、ぴょんぴょんと調理台まで戻ると耳を押さえて丸くなった。
「怖ぇよ。これじゃあ、そのへんの水も飲めねぇ……。ロゼ! ただちにこの店からジーを追い出せ! あいつら、一匹いたらいっぱいいるんだろ」
「まぁ、ときと場合によりますね。外から入って単に家を通っただけなら一匹だけですが、住み着いていたらまぁ……」
「怖いこと言わないで!」
「大丈夫ですよ。基本的にはあれは野外の種類なので、おそらくうっかり迷いこんできてしまったのでしょう」
ロゼ曰く、飛ぶもの(やや大きめ)は野外に生息し、飛ばないものは家に住み着きやすいらしい。いずれにせよ、どっちも嫌だなと思ったノルだった。
「しかしまぁ、じゃあさっきの奴は飛んでいたから、外に生息するやつか……なら、とりあえずは安心だな」
「いえ。絶対とは言いきれませんので、ここはジー対策が必要ですね」
「ジー対策?」
「ええ」
ロゼは神妙めいた面持ちで頷いたあと、近くのタオルを掴んで頭に巻いた。結び目をぎゅっと固く絞ると、彼女は右手を前に張り出して高らかに宣言した。
「わたしは篝火の魔女。店内に蔓延るジーなんて、いっぴき残らず、すべて燃やし尽くしてさしあげます!」
「よ! 頼もしい娘!」
ノルは前足でぱちぱちと声援を送った。かくして、ふたりのジー退治がはじまった。
◇ ◇ ◇
「まずはこちらを」
ロゼが棚からガラス瓶を取り出した。中には濃茶色の液体が入っており、何かの葉が浸かっている。ノルが近づくと、ロゼが瓶のふたを開けた。
「──げ、なんだこれ……鼻がスースーする」
「ヒンヤリ草の薬草酒ですよ」
「ヒンヤリ草?」
「ええ。正式名はハッカ草。さわるとひんやりする草なのですが、根っこの部分は薬に、葉の部分は料理などで、香りづけに使ったりする薬草ですね」
「ほう、たまにプリンの上に乗ってる、あれか。ミントってやつだろ?」
「そうですが、またそんな微妙な覚えかたをして……」
「だってそれくらいしか用途ねぇだろ、あれ」
「もう……。そういうことを言うと、大陸中のショコラミント好きさんに怒られてしまいますよ?」
「お、おう……なんかすまんな」
夏の定番ショコラミント。菓子はもちろん、パンにしてもアイスにしてもおいしい涼やかブルーなフレーバーだ。
そこに使われるヒンヤリ草の葉。今日は食用ではなく、掃除用として、ロゼは小さな木桶を用意した。そこに薄く水を張って、棚から小瓶を探した。
「それは?」
「ヒンヤリ草の精油ですね。こちらを数滴程度、水に混ぜて拭き掃除に使います」
「えっ? そっちの茶色のやつは?」
「使いません。あれはあくまで雰囲気づくりのための小道具……。店内の装飾用ですので、閉まってしまいしょう」
ロゼは薬草酒を棚に戻した。
「あ、ちなみにこちらの精油は薬屋さんに行くと売っています。個人的にはイナキアのラパン商店、というお店で出しているものがいちばんオススメです」
「イナキア? って、たしか隣国だよな? 遠くね?」
「お取り寄せですから」
篝火の魔女の名前を使うと特別価格で手に入るんです、とちょっと得意気に言ってから、ロゼが小瓶の精油を水面に落とした。
ぽたぽたと二十滴程度。桶を軽く揺らして雑巾をぽいっ。よく布を湿らせたら、固く絞ってノルに手渡した。
「さぁ、ノルさん! 手当たり次第、そのへんを拭きまくりますよ!」
「おう! ──って、これ、すんげぇ手がスースーするけど?」
「ちょっと濃いめに作りましたからね。こういうときに素手で触るのは危険です。まぁわたしは平気ですが」
「俺は?」
「気合いと根性です!」
「へーい」
ぴょんぴょんと跳ねてノルは高いところを、ロゼは低い棚の中を拭きはじめた。しばらく厨房を掃除したあと、今度はホールへ。念入りに机や椅子も拭いていく。もちろん窓も忘れずに。
そうして一時間が過ぎた頃には店内中、清涼感溢れる香りでいっぱいになった。
「ぐ……これは、すこしやりすぎでは?」
「うーん……、そうですね。鼻がスースーしますね……」
しまった。やりすぎた。そんな顔を浮かべてロゼは鼻をつまんだ。ノルも当然ながら鼻を抑える。ひとまず窓を開けて匂いを逃がすと、すこし落ちついたので、ふたりでテーブルに腰かけた。
「お前なぁ、加減は大切だぞ? つか、窓開けたらまたあいつら入ってくるんじゃないか?」
「そうはいいましても、換気しませんとヒンヤリ臭いままですよ?」
「それはまぁ……嫌だな」
「嫌ですね──って、あ……」
ぐでっと椅子にもたれかかっていたロゼが口をぽかんと開けた。
ノルが「なんだ?」と思って首を動かせば、ロゼが椅子から立ち上がり、厨房へと歩いていった。そのまま数分くらいしてから戻ってくる。