愛人の子と出会いました
どうやらこの美しい人がリデルの父であるベルクォーツ公爵の正妻であり、また公爵夫人でもあるようだ。
「………」
リデルは驚きを隠せなかった。
何故なら公爵夫人はきっと自身を恨んでいるだろうと思っていたからだ。
もしリデルが彼女の立場だったとしても自分を恨まずにはいられないだろう。
リデルが驚いた顔で見つめていると、公爵夫人は突然何かに気付いたようにハッとなった。
「あら、私ったら!自己紹介がまだだったわね!」
夫人はそう言いながら姿勢を正した。
その姿は気品に溢れていて、目の前にいるこの人物こそがベルクォーツ公爵夫人で間違いないのだとようやく実感が湧いた。
「初めまして、リデル。私はシルフィーラ・ベルクォーツ。一応貴方のお父様の正妻だけれどあまり気にしないでね!」
公爵夫人シルフィーラは、誰もが惚れてしまうほどの美しい笑みを浮かべた。
(いや、めちゃめちゃ気にするんですけど――!)
リデルは心の中でそんなことを思いながらも、シルフィーラに挨拶を返した。
「初めまして……リデルです……」
それを聞いたシルフィーラは驚いたように目を見開いた。
(え、何だろう……?私、何か変なことしたかな?)
何か無礼なことをしてしまっただろうかと不安になった。
しかし、ここで彼女の口から飛び出したのは意外な言葉だった。
「……嬉しいわ。初めて挨拶を返してくれた」
「え……?」
(初めて……?どういうことなの……?)
不安そうな顔をするリデルをよそに、シルフィーラはニッコリと笑って言葉を続けた。
「これからよろしくね、リデル」
「は、はい……」
***
リデルはあの後一度シルフィーラと別れ、傍に控えていた侍女に部屋まで案内された。
先ほどの出来事が衝撃的すぎて、頭がまるで追い付かなかった。
(あの公爵夫人、自分を殺そうとした女の娘に優しすぎじゃない……?)
それに、貴族のご夫人とは思えないほど穏やかで優しい性格をしていた。
高位貴族の夫人は気位が高いという印象を抱いていたリデルにとっては、それもまた驚くべきことだった。
そんなことを考えながらくつろいでいると、部屋を案内してくれた侍女がリデルに話しかけた。
「お嬢様、奥様のことで驚かれましたか?」
「え、あ、はい……」
遠慮がちに頷くと、侍女はクスクスと笑った。
「あの方は誰にでもあのような態度で接するのです。奥様が人を嫌うことは滅多にありません。まあ、私たち使用人は奥様のそのようなところが好きでここにいるのですが」
そう口にした侍女は、とても嬉しそうな顔をしていた。
どうやらベルクォーツ公爵夫人はかなり人柄が良く、皆から好かれているようだ。
(てっきり虐げられると思ったのに……)
そのことを知ったリデルは安堵の息を吐いた。
しかしそれと同時に、ある疑問が浮かび上がってくる。
(……それならお父様はどうして、あんなに綺麗で優しい人を放っておいてるのかな?)
父親の考えていることがまるで分からない。
ベルクォーツ公爵夫人といえば、愛人を多く囲っている夫にすら相手にされないお飾りの妻としてリデルたちの住むヴォルシュタイン王国では有名だった。
そのことに対して王国民は公爵夫人の人格に問題があるせいだとか様々な憶測を立てていたが、実際にシルフィーラと関わったリデルはとてもそうは思えなかった。
(それとも、本当は裏があるのかな?)
虐待されることも覚悟の上だったリデルは、シルフィーラの自分に対する接し方に大いに困惑した。
「そうだったんですね……そういえば、さっき公爵夫人……シルフィーラ様が言っていたのはどういう意味ですか?」
リデルはそこでシルフィーラが初めて挨拶を返されたと言っていたことを思い出した。
すると、尋ねられた侍女が一瞬ビクリとした。
「あぁ、それは……」
リデルの問いに、彼女は言いづらそうに言葉を詰まらせた。
(何だろう……?)
「お嬢様も……いずれ分かる日が来ますよ」
暗い顔になった侍女が、それだけ言ってリデルに背中を向けた。
(いずれ分かる日が来る……?)
彼女はその場では答えてくれなかったが、リデルの予想に反してその日はすぐにやってきたのだった。
***
「リデル、おはよう!」
リデルが公爵邸へ来た次の日の朝、シルフィーラが部屋へとやって来て満面の笑みで彼女に挨拶をした。
「あ……お、おはようございます」
「リデルは何て可愛いのかしら!」
戸惑いながらも挨拶を返したリデルに、彼女は嬉しそうに笑みを深くした。
(うっ……美人の笑顔は破壊力がすごい……)
シルフィーラの人並外れた美貌には未だに慣れない。
本当にこの世のものとは思えないくらいだったからだ。
「リデル、今日の朝食は私と一緒に食べましょう!一人で食べるよりも誰かと食べた方が楽しいし!」
「あ、は、はい……」
リデルはシルフィーラの圧に負け、朝食を摂るために公爵邸にある食堂へと向かった。
(本当に広いお屋敷だなぁ……)
二人は食堂へ行くために公爵邸にある長い廊下を歩いた。
リデルは昨日公爵邸に来たばかりなので、どの部屋がどこにあるのかなどはもちろん分からない。
ただ隣を歩くシルフィーラに付いて行くのみだ。
「……!」
すると、廊下の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
(誰だろう……?女の人……?)
その人物はリデルと同じ黒い髪に青い瞳をしていた。
華やかな赤いドレスを着たその人は、ツカツカとこちらに向かって歩いて来たと思うとリデルとシルフィーラの前で足を止めた。
そして、シルフィーラを視界に入れた途端顔を歪ませた。
(え、何!?)
リデルが困惑した次の瞬間――
――バシンッ!
突如、辺りに鈍い音が響いた。
「……ッ」
何かを我慢するかのようなシルフィーラの声がリデルの耳に入った。
どうやら女の人が持っていた扇子でシルフィーラの頬を思いきり引っ叩いたようだ。
「!?」
リデルは突然の出来事に驚いて声も出せなかった。
(え、この人今公爵夫人の顔を引っ叩いた……)
そして彼女はシルフィーラを怒鳴り付けた。
「泥棒猫が!よくもこの屋敷を堂々と歩けるわね!」
彼女の瞳にはシルフィーラに対する底知れない憎しみが込められていた。
(泥棒猫……?何のことかな……?)
リデルは目の前の光景に理解が追い付いていなかった。
「……」
シルフィーラは打たれた頬を手で押さえてじっと黙り込んでいる。
女の人はそんな彼女を頭ごなしに罵倒し続ける。
「私のお母様はお父様と愛し合っていたのに!アンタのせいで公爵夫人になれなかったのよ!アンタなんかこの国の高位貴族出身というだけで公爵夫人になれて!お父様の寵愛も得られないくせに!」
鬼の形相でシルフィーラを問い詰める女性。
(え、愛し合っていた……?)
それを聞いたリデルは思った。
(…………何を言ってるんだろう、この人)
もし公爵と彼女の母親が本当に愛し合っていたのであれば他に愛人など囲うはずがないからだ。
まだ幼いリデルですらそれが分かる。
そこでリデルは実母も最初の頃は彼女と似たようなことを言っていたのを思い出した。
「何か言ったらどうなの!?早くお父様と離婚しなさいよ!そうすればお母様が公爵夫人になれるのに!」
「……」
シルフィーラは相変わらずずっと黙り込んだままだ。
こんなにも理不尽な仕打ちを受けているというのに少しもやり返さないつもりのようだ。
「ホンット嫌な女ね!」
その女性は黙り込むシルフィーラにしびれを切らしたのか、足早にこの場を去って行った。
「――奥様!!!」
女性と入れ替わるように、奥から一人の侍女が駆け寄ってくる。
「奥様、大丈夫ですか!?あの女……!」
侍女は怒り心頭のようで、女性が去って行った方向を憎々し気に見つめている。
「……平気よ、何ともないわ。だけど、リデルには見苦しいところを見せてしまったわね……」
シルフィーラはリデルを見て申し訳なさそうに言った。
(この状況で私のことを気遣うだなんて……)
リデルはそんな心優しい彼女を見て胸が痛くなった。
打たれた頬は真っ赤になっていて、余程強い力で叩かれたのであろうことが伝わってきた。
「私なら大丈夫です。それよりシルフィーラ様の頬の手当てが先です」
リデルたちはシルフィーラの頬を手当てするために、急遽行き先を変更して彼女の自室へと向かった。