7. 暴走するレンカ
廊下の所々に立つ衛兵達ですら、私が一人で歩く事に慣れていて目を合わせる事もないというのに、焦った声音で私の名を呼ぶその人を見て、衛兵達は顔を酷く青褪めさせている。
「エリザベート王女! お待ちください!」
離れたところから急いでこちらへ向けて駆け寄って来るのは、先程広間で別れた筈のアルフレート将軍だった。
「何故お一人でこんな所を歩いてらっしゃるのですか? 護衛騎士達はどうされました?」
真剣な面持ちで私の顔を覗き込むアルフレート将軍の勢いに、私は首を振る事も頷く事も出来ずにその場で立ちすくんでいた。
アルフレート将軍は近くに立つ衛兵に鋭い眼差しを向け、そして私の手を取って突然跪く。ハッと息を呑んだのは私だけではなく、そばにいた衛兵達もだろう。
「エリザベート王女、失礼な申し出だとは思いますが、どうか貴女のお部屋の前まで私に送らせていただきたい。王城の中とはいえ、王族である貴女を一人で帰らせる訳には参りません」
たとえ跪いていても、私のすぐ目の前にあるように感じるその切長の瞳の存在感に圧倒される。帝国の英雄と呼ばれる将軍から真剣な眼差しでそう告げられれば、どうしても私は断る事が出来なかった。こくりと頷くと、アルフレート将軍は初めて僅かに破顔した。
別棟に向かうまでに目にした衛兵達は、皆一様に怯えたように顔を青褪めさせて、僅かに震える者もいた。人形姫である私と帝国の英雄が並んで歩くという珍事に驚いているようだ。
「ここが、貴女の?」
別棟への入り口は古びた扉で、きっと城の中心に私室があると想像したアルフレート将軍は驚いたのだろう。こくりと頷いて扉を開ければ、慣れ親しんだゼラニウムの香りがふわりと漂って来る。この扉を守る衛兵すらいない事に驚いたのかも知れない。ここにアルフレート将軍が来る事が分かっていれば、お父様は衛兵を配置しただろうけど。
「この先は……一体……?」
どうするか悩んだけれど、アルフレート将軍は別棟の様子が気になるようなので私は手で中へ入るように促した。どうせ色々なところが修繕されて、庭も美しく手入れされたのだから構わないだろうと思ったからだ。
「香りは……この花ですか?」
通路に花開く薄紅色のゼラニウムに近寄り、匂いを確かめるアルフレート将軍。私は軽く頷いてから、そう広くは無い庭を案内するように進む。
「まぁ、エリザベート様!」
部屋から出てきたレンカが私と将軍の姿を見つけて、思わず声を上げてしまった。将軍の前では口を聞か事が出来ず、私はレンカに目配せをする。
「君は王女の侍女か? 私のような者がこのような所まで足を踏み入れてしまってすまなかった。後を頼めるだろうか?」
「は、はいっ! あの……もしかして……アルフレート将軍閣下でございますか?」
「ああ、いかにも」
眉間に皺を寄せるアルフレート将軍の返事を聞くなり、レンカは何を勘違いしたのか、緑色の目を大きく見開いてニッコリと笑った。続いて興奮気味に頬を紅潮させて口を開く。
「まぁ! エリザベート様を送っていただいてありがとうございます! あの、宜しければお茶などいかがでしょうか? エリザベート様のお好きな紅茶をご準備いたします!」
「レ……ッ」
思わずレンカ、と呼ぼうとして口をギュッと閉じた。頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てていたアルフレート将軍は一瞬こちらを見たけれど、私は口を噤んでもう決して言葉を発しない。
「せっかくだからいただいていこう。エリザベート王女、ご一緒しても構いませんか?」
何を考えているのか読めない漆黒の瞳をこちらへ向けて、アルフレート将軍はこめかみから手を下ろしそう言った。私は思わぬ成り行きに断る事も出来ず、コクリと頷くだけで。レンカは喜んで将軍をサロンへと案内し、お茶の準備をする為に場を離れた。二人きりに残されたサロンでは、私は頭を混乱させたままでじっと貝のように口を閉じている。
「ここには……、貴女とあの侍女しかいないのですか?」
この国では普通、男女が同じ空間にいる時に二人きりになる事などあり得ない。きっと帝国でも同じだろう。必ず従者や侍女が一人は控えるものだ。それが無いので不思議に思ったのだろう。今日で無ければ仮に配置された侍女がいた筈だけれど、突然の事だったから私もうっかりしていた。
仕方なく、こくりと頷くしか無い。ここで嘘をついても、この鋭い眼差しを持つアルフレート将軍には隠し通せる訳が無いと思った。
「さぁ、どうぞ。こちらのお菓子はエリザベート様の手作りで、とても美味しいのですよ」
「王女の……手製だと……?」
レンカは普段とても気が利く優秀な侍女なのに、どうして今日ばかりはこのように墓穴ばかり掘るのかしら。貴族の令嬢どころか、一国の王女がお菓子作りをするなどおかしいに決まっているのに。
「いただこう」
そうは言ってもやはり不審に思ったのか、眉間に皺を寄せたアルフレート将軍の口にゆっくりと運ばれる紅色のマカロンを見ながら、私は頭が痛くなる思いだった。