34. 初めて見る海は
妖精祭りの準備だとアルフ様と共に街を散策した私は、見るもの全てが新しく興味深いものでとても有意義な時間を過ごす事ができた。
一度宿に帰り、食事を済ませたら宿から直接下りられる海岸へ行ってみる事になる。ここまで着てきたドレスでは裾が濡れてしまうので、この街でアルフ様に選んでいただいたワンピースに着替える事にした。
「ねぇ、レンカ。私こんなに幸せで神様に怒られないかしら?」
広々とした宿の部屋で髪を梳き、結い直してくれるレンカに鏡越しで尋ねると、レンカは笑いながら答えてくれる。
「エリザベート様、何をおっしゃいますか。今まで散々不憫な目に遭ってきたのですよ。これからはそれを取り戻すくらいに幸せになっていただかないと」
「でも……、何だか怖いの。ある日突然全てが無くなってしまったら……。一度でも愛や、幸せを知ってしまった私は、堪えられそうにないわ」
「閣下がエリザベート様を手放す事はあり得ませんよ。まぁ、私としても相手が誰であれエリザベート様が幸せならば嬉しいのですが。今のお二人の仲睦まじい様子を見れば、ワルターは泣いてしまうかも知れませんね」
悪戯っぽい笑みを浮かべたレンカは、私の髪を編みながらそう告げる。確かに、ワルターはずっと私の事を心配してくれていたから……私が幸せになれたならきっと喜びで泣いてしまうかも知れないわね。
「そうそう、グラフ一座もこの妖精祭りに花を添える為にこの街へ来ているそうですよ」
「え? 本当?」
「ですから、此度は観客としてグラフ一座の芸を観る事が出来ますね」
「まぁ、初めてだわ。楽しみね」
アルフ様は宿に帰って食事を終えたら、私が身支度を整えている間に部下の方と別室で話があるとかで行ってしまった。帝国の将軍ともあろうお方だから、いくら腕が立つとはいえお一人で行動する事は許されないのだろう。部下の方達も皆気さくな方で、宿では少しだけお話する事が出来た。私の声を聞いても、動じる事なく居てくれた事はとても心強かった。
「すまない、待たせてしまったか?」
「いいえ、私も身支度に手間取ってしまって。今終わったところです」
「そうか、ならば行こうか」
部屋に迎えに来てくださったアルフ様と、並んで宿の裏手にある海岸へ降り立つ。アルフ様も今は白いシャツに黒のトラウザーズというラフな格好で、それも新鮮で素敵だった。
「アルフ様のそのようなお姿を見るのはなかなか無い事ですから、新鮮ですね」
「確かにそうだな。海岸で海を見るのに豪奢な服は似合わないだろうと思って。どこかおかしいだろうか?」
「いいえ、素敵です」
部下の方は見晴らしの良い海岸という事もあって、かなり遠くで控えてくださっている。私とアルフ様の会話は聞こえないだろう。それもあって積極的に自分の気持ちを話す事が出来た。
「私、海を見るのは初めてなのです」
「それなら、怖くはないか?」
「いいえ、不思議ですね。この波の音を聞いていると
、心が落ち着いて。懐かしい気持ちになるのは何故なんでしょう」
私が海を見るのは初めてなのに、広大な青を見て波音に耳をすませば何故か懐かしい気持ちがした。
「海は……生命の源。私達の祖先は、神が海から作られたと言うからな。懐かしい思いがするのかも知れん」
「アルフ様も、この海に懐かしい思いがしますか?」
「確かに、懐かしい思い出はある。昔、健在だった両親と共にこの街へ訪れた事が何度かあって。私と同じで軍人だった父親は多忙で、家族で出かける事など稀だった。それでも、出かけるとなると妖精祭りの時期にこの街へ私と母親を連れて来てくれた」
足元が不安定な砂浜を、転ばないようにと手を繋いでくださるアルフ様の横顔は、海の向こうのどこか遠いところへ思いを馳せてらっしゃるようで。潮風に靡く黒髪に、思わず触れたくなるほどその表情は切なげなものだった。
「そのように大切にされている思い出の場所へ、私を連れて来てくださったのですね。とても嬉しいです」
こちらを振り向いたアルフ様の輪郭を、海に沈もうとする夕陽が照らして金色に縁取っている。
私には、アルフ様の心が泣いているように感じられた。以前お父様は戦死なさったと伺ったし、お母様はアルフ様の目の前で賊によって斬られ亡くなった。ご両親にもう会えない寂しさと、お二人との思い出にすっかり覆い尽くされてしまったように。
「誰かを……ここに連れて来る事など、私には一生ない事だと思っていた。初めて会ったあの日、アルントの城の別棟でエリザベート手製の菓子を食べ、共に過ごした時間は心地良かった」
「あぁ、そんな事もありましたね。レンカが強引にお茶へとお誘いしてしまって。私はアルフ様に声を聞かれまいと必死でしたのに」
「あの時、私はもう少し長くエリザベートと居たかったから内心は嬉しかったんだ。もっとエリザベートの事を知りたいと、その表情を見ていたいと思っていた。婚姻の儀が終わって、エリザベートが私の屋敷へ来た時には、また手製の菓子が食べてみたいものだ」
真っ直ぐな言葉は私を黙らせてしまう。婚姻の儀が終われば、私はとうとうアルフ様の妻となる。そう考えると何だか恥ずかしくて、まともにアルフ様の顔が見れなくなる。浜辺を歩きながら、照れ隠しに波打ち際へと視線を向けた。
「勿論です。アルフ様の為に、いくらでもお作りします」
「そうか、楽しみだな」
繋いだ手をほんの少しだけ強く握り直して、私は初めて見る美しい海の風景を、この世で一番愛する方と堪能した。
夕陽が沈んだ後の星空までしっかり見てから宿へ戻った私は、湯浴みをする為にレンカと共に浴室へ向かう。
「嘘よね、レンカ」
「嘘ではありませんよ。帝国の婚前旅行とはこのようなものらしいです。……私も知りませんでしたけど」
そこで初めて知ったのは、当然のように私とアルフ様の部屋は同室で、レンカや部下の方はそれぞれの部屋があるという事だった。