16. 労わり合いの夫婦に
「エリザベート、務めをしっかりと果たすように」
出立の時、お父様から掛けられた言葉はたったこれだけ。寵妃であったお母様が亡くなってからというもの、お父様にとって娘の私は憎悪の対象となった。それほどまでに、白の王妃と呼ばれていたお母様の事を愛してらっしゃったのだろう。
私も他人を憎むほどに誰かを愛する事などあるのかしら。アルフ様とは完全なる政略結婚となるけれど、形だけでも夫婦として穏やかに過ごせていけばいい。私はあのゼラニウムの別棟で二十年間も孤独に過ごしてきたのだから、大概のことは堪えられるはず。
「エリザベート王女殿下、ご気分は大丈夫ですか?」
物思いに耽り過ぎたのか、馬車から降りてすぐにぼうっとしていたところへアルフ様が声を掛けてくださった。私はアルント王国側が準備した馬車に乗り、三日間の旅路を経てこのクニューベル帝国の首都へと到着した。アルフ様は、慣れない遠路に馬車酔いしたのかも知れないと心配してくれているようだ。
「大丈夫……です」
「長時間馬車に揺られて疲れたでしょう。婚姻の儀が終わるまで、エリザベート王女殿下は皇帝陛下の賓客として城に滞在する事になります。城へは私も毎日出仕しますので、時々お顔を見に寄らせてください」
「そうなのですね……」
当然だが婚姻の儀が終わるまで、私とアルフ様は婚約者という立場になる。アルント王国でもそう言った場合の同居は許されず、婚姻の儀を経て初めて許されるのだった。
「あの……、アルフ様……」
「はい、どうしました?」
あの時のような優しく柔らかな表情は見えないけれど、その態度には労りのようなものがしっかりと感じられる。大丈夫、私はこの方と夫婦としてやっていけるわ。
立派な帝国城の中をエスコートしながら歩んでいた足を止め、少しだけ首を傾げながらじっと私の瞳を覗き込んでくる。続く言葉を待つアルフ様に、私は意を決して自分の今の思いを伝える。
「貴方と……労わりあえる……夫婦となれるよう……努めます」
たとえ政略結婚だとしても、私は冷たく無関心な夫婦にはなりたくなくて。愛して欲しいとは望まなくとも、お互いを労れる関係を築きたかったから。
「ありがとうございます、エリザベート王女殿下。私もそのように努めます」
その時、ふわりとアルフ様の口元が柔らかに弧を描いた。目元もすうっと細められて……。いつも凛々しく冷たい印象すら与えるお顔が、今私に微笑みとも取れる表情を向けて下さっている。
私達の会話をそばで聞いていた侍従やアルフ様の部下達の中には、チラリと横目でこちらの様子を窺っている者たちもいた。そしてアルフ様の言葉とその表情の変化に、驚きとも感嘆とも取れるような短い声を発する。
やはり元々、このような表情をなさるのは珍しい方なのだわ。常から軍人として平静を保つ訓練をなさっているに違いないし、緊迫した状況が多いお勤めだからそれも当然ね。
もうすぐ妻となる予定の自分に歩み寄ろうとして下さっている事がひしひしと感じられて、私は胸が温かくなるのと同時に鼓動が早まるのを自覚した。
城の一角に準備されていた私の居室は賓客用の豪華な造りで、今まで過ごしていた別棟の居室の何倍もの広さがある。
「わぁ! こんなに広くて素敵な部屋で良かったですねぇ! 私用の控室も隣に備え付けられているようです。浴室もありますし、何より窓からの眺めが最高じゃないですか!」
興奮するレンカの言う通り、帝国の城に相応しい華やかで美しい庭園に面したバルコニーの窓からは、色とりどりの花々や瑞々しい緑がよく見える。
「私には勿体無いお部屋だわ。何だか広過ぎて落ち着かないし。それに、やはり帝国城は警備も厳重で夜に抜け出すなんて難しそうね」
「そうですねぇ。それでもワルターなら上手くやれそうですけど。流石に今晩は無理でも、近々何とかするんじゃないですか」
「でも、無理をして捕まったりしないか心配よ」
「大丈夫ですよ。ワルターは絶対に見つかったりしません。あの人、隠れる事は誰より上手ですから」
レンカはワルターと仲が良い。私が直接ワルターに連絡が取れなくても、レンカを通してやり取りをしているし。同郷の仲だからとは言うけれど、もしかしたらお互い好意を持っているのかも知れない。以前ワルターは想い人が居ると話していた事があったから。
「ねぇ、もしかしてレンカとワルターって恋人だったりはしないの?」
「はぁ⁉︎ エリザベート様……まさかずっとそのように思ってらしたのですか⁉︎」
「だって二人はとても仲が良さそうだし、同郷で幼馴染なのだと言っていたじゃない。そういう関係にはならないのかしら?」
薄くそばかすの浮いた顔に満面の驚きを表したレンカを見ていると、私の予想は外れてしまったのだと分かった。
「あぁ……気の毒で可哀想なワルター……。私達の姫様には全く通じてらっしゃらないわ」
そのうち緑色の瞳を潤ませたレンカは、どこからともなく取り出したハンカチを目に当てて、何やらまた嘆いている。
しばらくは旅の疲れもあるだろうと、皇帝陛下も私を城に迎えた事を大っぴらにはしないと仰った。「国内外でもとても人気のある英雄、アルフレート将軍に婚約者が出来たなどと知られては大混乱になるしね」と笑ってらしたけど、確かに国内の貴族達だって令嬢をアルフ様に嫁がせたいと思う勢力は多かっただろうし、きちんと準備をしてからの発表の方が良いと判断されたようだ。
「これから、大丈夫かしら。異国の……それも呪われた声の人形姫なんかが婚約者だなんて、諍いの元にならなければいいけれど」
美しく手入れされた広大な庭園を望みながら、私は心にチクチクと小さな棘が刺さるような心持ちがしていた。