死にかけフェネックは出会う 3
今更ですが『』は動物言語です。
レイシュが拾われてから、季節はいつの間にか2つばかり移っていた。
庭にある枝も丸坊主にちょぼちょぼ新芽が生えたかな、くらいだったのに、今では青々と茂った草木が降りしきる雨に叩かれている。つゆ、と言う季節なのだと教わった。
これまでの間に、レイシュは色々な事を覚えたし、今も学んでいる最中だ。ほんでんから出ずに付きっ切りで世話をされていた時と比べたら、一匹でけいだいに行けるまで活動範囲も広がった。
日々、たくさんの驚きと学びの連続である。そして、その最たるものが。
「お、しゃがみこんで何やってんだレイシュ」
「あめ、みてたのー」
「雨? なんか面白れェか?」
どすどすと大股で近付いてきて、レイシュの隣に座った大きな男。
何をどうやっているものか、黒狐からひとに変じたダーカその人だった。
◇◇◇
パタパタと足音を立てて、レイシュは半泣きで見慣れない廊下を走っていた。
きゅーんきゅーんと鼻を鳴らしながらも、目についた引き戸を前足で引っぱり、棚を鼻先でこじ開け、畳まれた布地に頭から潜り込んで倒していく。
それでも、そこかしこから匂いはするのに、当の探しものだけが見当たらない。
『ダーカぁ……どこなのー……』
食べて寝て食べて寝ての生活から、漸く一歩抜け出したころ。
黒狐にべったりだった生活も、時を同じくして終わりを告げた。正確に言うならば、もう目を離してもいいだろうと判断したダーカが、寝ている時間以外もそばを離れるようになったのだ。
とはいえ、今までは朝から晩までほぼ一日中、安心できる暖かなモフモフに埋もれ、構われ舐められ抱え込まれて過ごしていたせいで、立派な甘えたに成長したレイシュがその仕打ちに耐えられる筈もなく。
眠る前には傍らにいたはずの存在が居なくなっている事にパニックを起こし、きゅんきゅんと切なく啼いた子狐の初めて聞く声に、それこそ動転したダーカが文字通り跳んで帰ってきてあやしたのは記憶に新しい。
それから少しづつ離れる時間を長くとっていき、ようやく数時間程度の別行動が可能になったところなのだが。
『なんで、いないのー……』
今日はいくら呼んでも出てきてくれない黒狐に、レイシュはとうとう座り込んでしまった。
先ほど頭から潜り込んでぶち撒けた、仄かにダーカの匂いが残る布地をしっかりと抱き込み、鼻先をつっこんでクスンクスンとすすり泣く。走り回った上に泣き疲れ、病み上がりでひ弱な子狐の体力はすでに限界だった。
そのままうるんだ瞳が半分ほど閉じられ……
『!!!』
聞こえてきた物音に、ぴぴぴ!と大きな耳が反応する。黒い瞳をぱっちり見開き、四肢の疲れも一瞬で忘れたように駆け出していく。
今まで来たことの無い、真っ直ぐの廊下をカシカシと爪音を立てて夢中で走り抜け、その先の地面にうずくまる黒い塊に勢いのまま飛びついて。
「うぉっ?!」
『ダーカ! どこいって……キャヒンッ!!!』
追突の衝撃に前のめりになった塊から、ぴょこんと垂直に1メートルほど飛び上がり、着地も出来ずに床へと転がり落ちたレイシュは恐怖に眼を見開いた。
驚きの表情で振り返ったひとの男とばっちり視線が絡み合う。
「……何やってんだレイシュ。っていうか今、すげェ声出したな」
『ふぇ……?』
後ろ足の間に尻尾を挟み込み、ぴるぴると伏せた耳を震わせていた子狐に、男が呆れたように話しかけてきた。その気安い態度に困惑する。
だって、ここはレイシュとダーカしかいないと言われたのに。嫌なひとは追い払ってくれるって言ったのに。なんで知らないひとがいるんだろう。なんで……
「あー、解らねぇか。ほら、怯えんなって。匂いは一緒だろ?」
困ったように頭を掻きながら、しゃがみこんだままゆっくりと手が伸ばされる。
ひとは怖い。だけど、この匂いは知っている。誰よりも何よりも安心出来て、ずっと一緒にいた匂い。
『……ダーカなの?』
「おう。そうだぞ」
ホッとしたように、伸ばした手がレイシュをゆっくり持ち上げた。思わず固まってしまったけれど、ダーカは気付かないフリをしてくれたらしい。そのまま毛皮の無い胸元に抱き込まれる。
触れた個所におそるおそる頬を擦り付け、スン、と鼻を鳴らしてみる。ちゃんと、嗅ぎ慣れた黒狐の匂いがした。
◇
『ダーカは、きつねじゃなくて、ひとだったの?』
「いや、神だ。狐は本性だがまぁ、稲荷神とも言うな」
『かみ?』
「凄く偉いヤツってことだ」
『へぇー』
抱き上げられたままいつも過ごしている部屋まで戻り、人型で座り込んだダーカの膝に乗せられて、毛並みを梳かれる。舐められるのと違って、複雑に動く手が喉元や耳の後ろを掻いてくれるのが気持ちいい。
「もうちょっと色んな事に慣れてから話そうと思ったんだけどな。脅かして悪かった」
『んーん、ダーカってわかったから、もういいの』
ふすふすと鼻を鳴らし、満足気に眼を細めるレイシュを撫でる手を止めないまま、ダーカはゆっくりと話す。
今回、呼んでもなかなか来なかったのは、外へしごとをしに行っていた為らしい。人型になれる事も知られたし、次からはちゃんとレイシュに告げてから出かけると約束してくれた。
「前に、ここが神社って所だと教えたの覚えてるか?」
『うん』
「この神社は特別製でな。人間が入ってこれない代わりに、有らざるモノ達の通過点として存在している」
『うーん?』
「俺みたいな奴らが、行ったり来たりする場所って事だ。大事な場だから、管理する奴が必要になる。それも力のある奴が。それで俺がまぁ、丁度良く暇してたモンだから、住むように頼まれたって訳だな」
『よくわかんない』
「じゃあ、ちょっと不思議な場所とだけ思っときゃ良い」
『うん。……あのね』
慣れたらこれはこれで居心地のいい膝から身を起こし、固い胸に前足を掛けて伸びあがる。
不思議そうにしながらも上体を下げてくれるダーカの、狐の時と違って低い位置に変わった耳に鼻先を寄せ、レイシュはちょっとばかりドキドキしながら聞いてみた。
「なんだ?」
『ぼくもかみになれる?』
きょとんとした顔に、一拍置いてゆっくりと笑みが広がっていく。
「成りたいのか?」
『ダーカといっしょがいいの。だめ?』
「ハハハ! そりゃいいな! もちろん駄目じゃねェよ」
とうとう大口を開けて笑い出したダーカを見て、レイシュもなんだか嬉しくなってきた。
機嫌良くパタパタ揺れる尻尾を、大きく浅黒い手が追いかける。伸ばされたその手に更にレイシュがじゃれつき、勢い余ってひっくり返れば、今度は柔い腹まわりをグシャグシャにされて。
気が付けば、人型を解いた黒狐に抱え込まれ、いつものようにべろんべろんと毛繕いをされていた。
『じゃあ、色々と勉強しねぇとなァ』
『がんばる!』
溶けた蜂蜜みたいな眼差しで見下ろしてくるダーカに、元気いっぱいの返事をして。その日から、レイシュのお勉強の日々は幕を開けたのだった。
ちなみに、あちこちで物が倒れたり洗濯物を引き摺り出したりとレイシュがこさえた惨状は、溜息一つでお咎め無しとなった。これも、不安にさせた俺が悪かったのだと肩を落としたダーカを見て、流石にレイシュの尻尾もしょんぼり萎れる事になる。