死にかけフェネックは出会う 1
動物虐待の描写が少しあります。
レイシュは拾われっ子だ。
吹く風が冷たくて、枝の先の柔らかい芽は生えそろわず、まだまだ暗い夜が長かった日。
その日の朝も小さな獣は、ここ数日と同じく、ひとに見つからないよう物陰を選んで隠れ、やっと見つけたちびちゃい新芽を齧り、石ころについた朝露を舐め、またおぼつかない足取りで歩んでいた。
隠れた先でたまに出会う、自分より小さなちゅうちゅういう奴が落としていった食べ物をありがたく貰う時もあるけれど、木の芽と小さな欠片だけではなかなか腹も満たされない。
ごみっていう美味しそうな匂いと変な匂いが混ざった袋に運良く出会っても、中を見ようとしたらいつもしとに「こらっ!」と石なんかを投げられ追い払われるから、近付くことも出来やしない。
元は白かった身体は、満足に毛づくろいも出来ない所為で、怪我から流れた血と土で茶色く固まり、あちこちが縺れている。眠る時に抱える尻尾もとうにぺちゃりと萎れ、見るからに元気が無い。
それでも大きな耳だけはピンと立たせて、僅かな音も聞き洩らさないように気を張りつめながら、どれほど進んだだろうか。
うっそうと木々が茂る小山の麓に辿り着いたのは、寒くて疲れてひもじくて眠くて、もう一歩たりとも歩きたくなくて、いよいよ動くことを諦めた時だった。
不思議と静かな気配に満たされた森は、なんだか無性に居心地が良くて、目についた木の根元までなんとか這いずっていった獣は、そこでようやく丸まり目を閉じた。
それからどれくらい経ったのか、ふと、眼前に影が落ちた気がして薄く目を開く。
なんとか目玉だけを動かして上げた視線の先には、たっぷりと夜の残りを詰めこんだような墨色。
水気が足りずにかすむ瞳を懸命に凝らして解ったことは、小さな自分が10匹いても追いつけないくらい、大きくて立派な獣に見下ろされているという現状だった。
深い琥珀の瞳が小さな獣のうるんだ黒瞳とかち合い、互いに見合ったのは一秒か、十秒か。緩慢な瞬きの間に、矮小な身など一口で飲み込んでしまえそうな大口が、ぐわりと開かれる。
(ああ、このままたべられてしまうのかな。でも、こんなきれいなけもののごはんとなれるんだもの、ここにきてよかったんだ)
すうっと消えていく意識の片隅でそう思い、不思議と沸き上がった嬉しさで微かに震えた細い喉が、ぱくりと食いつかれ――――暗転。
次に目覚めた時には、すでにこの、暖かくどっしりとした存在に包まれていたという訳だ。
それから暫くの間は、ぼんやりと日々を過ごしたのだと思う。はっきりとは思い出せないが。
けれども、身の回りの一切を世話される心地よさは、生まれてから巣穴を出されるまでの僅かな期間以来だったから、容量少なめな獣の脳味噌に今でもしっかりと刻み付けられている。
ぺろぺろと顔を舐められて目覚め、何だかわからないが甘くてどろりとした汁を口移しに飲まされ、首を咥えられて運ばれた先の日向で、全身を舐められ排泄を促されてからウトウトまどろむ。
また顔を舐められうっすら目を開けると、再びどろどろの何かを口に流し込まれ、全身を舐められながら眠りに落ちる。
三度目に起こされる時には辺りは少しばかりかげっており、お馴染みの甘い汁を貰ったあとに排泄を済ませて、また首を咥えられどこぞに運び込まれ、大きな獣の柔らかくも温かい胸元に抱き込まれ毛づくろいされながら、安穏とした眠りに落ちる日々。
合間に聴こえる「ちいせぇなぁ」とか「ガリガリじゃねぇか」なんて呟きに、美味しくなさそうだから食べないのかなと思いはしても、途切れず与えられる安らぎが、記憶の底にあった母や兄弟達との戯れをよみがえらせるものだから、逃げる気さえ起こらない。
『お前の事は俺が拾った。だから、一人前になるまでは世話してやるよ』
まだ食べないのかな、からいつ食べるんだろう? に変わったくらいの頃だった。
定期的に流し込まれていた甘い汁が、少しばかり離れた所に器に入れて置かれ、自力で這い寄って舐め取れるようになった日に、「もう大丈夫だろう」と満足気に頷いた獣がそう宣言したのだ。
これが、墨色の獣———ダーカと、拾われフェネックの出会いの顛末だった。
◇
『お前、名前は?』
『……わかんない。わすれちゃった。…さいきんは、おい、とかくせぇの、っていわれてたよ』
『なんだそれ。どっかの金持ちに飼われてたんじゃねぇのか?この辺の動物じゃねェだろ』
大きな獣のフワフワな胸元で丸くなる小さな獣。立って自分で食事が取れるようになったあたりから、起きている時にぽつぽつと会話を交わすようになった。
負担のかからない範囲でとの配慮から時間は短いが、互いのことを知るのは大事だからと言われれば、拾われっ子に嫌はない。
『さいしょははうすのなかにいたけど、わるいことする子はそとっていわれたよ』
『悪いこと?』
『といれもおぼえれない、おてもできないばかは、いらないんだって』
『ふぅん、そいつはクソだな。呪っといてやろうか?』
『のろい?』
鼻の頭に皺を寄せ、白く光る牙を剥いて嗤う獣は怖かったけれど、「胸糞わりィ」と言いながら顔を舐めてくれる動作は優しかった。
ザラザラの舌が大きな耳を削るたびに顔まで一緒に動いてしまっても、やめてほしいとは欠片も思わない。だって、痛い事をしてきたしととは違い、獣同士の触れ合いだからこそ得られる安心感は格別だったから。
『……レイシュ』
『……』
『レイシュ』
コツリと濡れた鼻先で頭をつつかれて、まどろんでいた眼を開く。
『……れいしゅ?』
『お前の名だよ。呼ばれてるんだからちゃんと返事しろ』
『……なまえ……なんで?』
『呼び名が無いと俺が困るだろうが』
『こまるの?』
『ああ困るね』
『おいっていわれたらわかるよ』
『それだとお前以外が来るかもしれないだろ。俺に声を掛けられたがる馬鹿はそこら中にいるからな』
当たり前のことを聞くなと言いたげに、豊かな尾がバサリと振られる。
『……そっかぁ。それはこまっちゃうね』
『そうだろ。だが、俺がレイシュと呼べば、来るのは名付けたお前だけだ。それと、俺はダーカという。覚えておけ』
『だーか。おぼえたよ』
『良い子だ』
その日から小さな獣はレイシュになった。のちにレイシュって何?と聞いたら「お前も好きだろ甘酒」と返された。ぼんやりしている間に飲まされたドロドロの事らしい。
そういえば今も良く飲んでいる。ダーカの好物だから、しょっちゅうお供えされるのだ。
ちなみに神酒と醴酒が候補だったそうな。
『俺の一番好きな物から付けてやったんだ。感謝しろよ』
もちろんレイシュも甘酒が一等好きになったのは言うまでもない。
『トイレはまぁ……そのうちでいいか。杜もあるしな』
『たたかないの?』
『して当たり前のことで叩くわけねェだろ。マーキングなら俺だってする』
『……うん』
レイシュはいわゆる高級ペット、というやつだった。日本よりずっとずっと遠い国で生まれたらしい。
さばくという砂だらけの場所で、地面深くまで掘られた穴の中、生まれたばかりのレイシュ他数匹の兄弟がだんごになって固まっている所を捕獲され、みつゆされたのだそうだ。
大枚をはたいて今よりなお小さかったレイシュをぶろーかから買った飼い主は、最初こそ物珍しさと愛くるしい見た目ゆえに可愛がったけれど、いつまでたっても懐かず手を出せば噛みつき、テーブルの足を齧りソファを穴だらけにして、部屋のあちこちで粗相をし、躾けもろくに仕込めないレイシュに飽きるのは早かった。
世の中には可愛くて利口で大人しい動物がたくさんいるのだ。叩いても怒鳴っても言う事を聞かず、餌を抜いた分だけ家具に被害をもたらす馬鹿な獣にかけてやる手間と時間など無い。
次はどんな獣を買おうか、とカタログを捲る飼い主は、そうそうに庭へ出した檻の中でうずくまる小さな存在など、あっという間に頭から閉め出し忘れ去った。
餌も満足に貰えず成長に必要な栄養が得られなかったレイシュだが、その飼育放棄によって痩せさらばえた身体のおかげで、檻の隙間からすり抜けることが出来たのだから皮肉なものだ。
よろよろとした足取りで逃げ出した先に何があるかもわからないまま、ただ生きるという野生の本能に従って進み続ける。
明るいうちは物陰に隠れて人間を避け、カラスや野良猫に怯みつつもゴミを漁り僅かでも飢えをしのぎ、夕闇に紛れながら移動する。
ダーカに拾われるまではそんな日々を過ごしていた事を、つっかえながら話して聞かせた。
おうちがたくさん並んでいた場所から離れ、鼻先に僅かに届いていた緑濃い匂いを辿った先で、こんもりと茂る森を見つけた。
生まれた砂地とは全く違うのに、なぜか惹かれる匂いのする場所に一歩でも近づきたくて、よろめく四肢を動かした。
そこが鎮守の杜という存在だと知ったのはそれからずっと後のこと。
『レイシュは鼻が利くな。それは多分俺の匂いがしたんだろう』
『ダーカのにおい?』
『ああ。俺の生まれはもともとソッチなんだよ。おっかねぇお袋が砂漠を超えてコッチ来たからな、俺も暇つぶしに付いてきたんだ。ずっと昔の事だがな』
『さばく、しってる……』
『ま、同郷ってやつだ。俺もつい懐かしくなってお前を拾ったんだし、同じだな』
ニンマリと笑う獣は、ずっとずっと昔から生きているらしい。
レイシュはまだ、生まれた砂地とは違う湿った熱い日差しと、自分と似た白い塊が降ってくる時と、葉っぱがパヤパヤ伸びだす今しか知らないから、それよりもっともっと長いと言われても、全く想像がつかない。
『ここはな、神社って場所だ。もともと俺しか住んでないし、供えモンを持ってくる幸婆さんくらいしか参拝客もいない。嫌な人間はいないから安心しろよ。万一変な奴が来ても追っ払ってやる』
『うん』
レイシュは言われた事の半分も解らなかったけれど、ここにはダーカがいて、たまにご飯を運んでくれるさちばぁとやらがいて、怖いのも痛いのもないことさえ知っていれば十分だった。