後編
大抵の魔法師は宿舎なり自ら家を借りるなり王都内に住んでいる。残りの大半は転移魔法で通う者達で、研究棟を出てすぐに魔法を使うための場所が用意されていた。どこであれ発動は出来るものの、朝夕の時間帯にあちこちで人間が現れたり消えたりすれば、衝突事故が起きる可能性があるからだ。
まあ理由を考えれば、消え去るのみの帰りに限ってはその場所を使う必要もないのだが。同僚に付き合う時を除き、ルアンナはなんとなく形骸化した決まりを守っていた。
「あっ……!」
面倒に思っていた通勤に関して、その日ルアンナは初めて実家住まいで良かったと思った。いつもより遅くまで魔法の検証を繰り返したことへの神様からのご褒美かもしれない。遠征から戻っていたのか。たまに見かける機会はあったが……まさか二人きりの時間が訪れるなんて!
「あっあの、アーレイン様?」
思いきって名を呼ぶと、振り返った彼はわずかに瞠目した。個人として接してみれば張りつめた空気などない。目の前にした美貌に緊張はするものの、単なる一人の青年だ。
「お前は、水魔法の……」
ああ、やっと先程の違和感の正体がわかった。誰かの『名前』を呼んだからだ。――彼はあのラダンの名でさえ口にしない。
夕暮れ、周りに人はほぼなかった。そして明日は休養日。認識されていたことへの喜びもあって、自分でも制御できない無謀さが言葉となって飛び出す。
「あああの! も、もしお時間があるならこのあとご飯でも……ッ!」
言った、言ってしまった。
凍りついた時間と真逆に、ルアンナは内心で悶え転げ回る。終わった、何もかも。大した会話もしたことがないのに急に誘われたら気持ちが悪いだろう、断られるに決まっている。己の両頬を無限にはたき倒したい気分だった。時を操ることなど無理だが、叶うならば口に出す前に戻りたい!
「いや……」
案の定というか何というか、彼はお願いした側が気の毒になるほどの困惑を示す。やはり迷惑だったに違いない。でも言わないよりはましだった、と言い聞かせながら取り消そうと口を開きかけたところで。
「まあその、なんだ……軽食なら」
「……え?」
幻聴かと思えど、長い指が差しているのは通りの向こうに出ている屋台。
「腹が減ってるんだろう。あれで勘弁してくれるか」
「かっ……!」
勘弁だなんてとんでもない。手切れ金という言葉が頭を一瞬よぎるも、犠牲を支払って切るほどの縁もないのだった。あまり洗練されたやり方には見えないが、どうやら本当に絞り出した妥協案らしい。
何と言って返事をしたかなどもはやルアンナの記憶にはない。だが、今、彼と並んで屋台飯を手にしているのは紛れもなく現実。手に持たせられている紙皿が温かいのがその証拠。屋台の主人にも、座っている路傍の腰掛けを作った職人にも、いっそ世界中の人間に謝意を伝え握手したい気持ちである。
「――あっ、あの、お金……!」
真っ先に思い付いたのは代金のこと。紙の器には、ジャガイモと酢漬けのキュウリにチーズをかけたものが入っている。安くて腹が膨れる軽食の一つだ。
「大した額じゃない」
「いえ、あの、でもっ」
「気になるのなら、お前が中級魔法師となってから他の奴に施してやればいい」
首を振れば耳飾りが音を立てる。
「……目に見えるものやその場で手にするものだけが対価ではないと、そう教わった」
「そ……そうなんですね」
ラダンからだろうか。あの大魔法師は大雑把であるものの人望があり、随分と面倒見が良いことで有名だから。
ふわりと酒の匂いが漂う。彼は食事ではなく温かい葡萄酒を手にしているらしかった。こちらも屋台によくある香辛料入りの飲み物だ。
「わたしだけこんな、食べて……」
「どうせジジイが用意しているだろうからな。俺はいい」
ルアンナも帰れば母親の手料理が待っているに違いなかったが、今日のところは少しくらい許してもらおう。曖昧な笑みを返す。
「じゃあええっと、お言葉に甘えて……あ、あの、お酒、よく飲まれるんですか?」
「あれば、まあ」
「そそ、そうなんですね……ラ、ラダン様とはご一緒に住まれてるんですよねっ?」
「ああ」
「……」
「……」
もっと話し上手であれば、と焦る。或いは彼ぐらい見た目が浮世離れしていれば、少なくともほんの一瞬だけでも心を繋ぎ留められたかもしれないのに。
どうしよう、どうすれば。ここが外で良かったと思う。まだ街の音があるだけ助かった、沈黙が完全な静寂をもたらしていたら堪えられない。盗み見た隣の魔法師は、ぼんやりと往来を眺めている姿ですら様になる。緊張で味のしないジャガイモを黙々と頬張った。思考がまとまらない。
食べるためにだけ口を動かせば当然なくなるのはあっという間だ。とうに葡萄酒を飲み干していたらしい彼は立ち上がると、自然な流れでルアンナの手から紙皿を取り一緒に屑かごへと捨ててしまう。出来れば持ち帰って家宝としたかったのだが。
「腹の足しになったか」
「は、はい、お陰さまで!」
並んで歩くだけでも天にも昇る気持ちだった。彼が生真面目に規則を守る性質で良かったと思う。目と鼻の先までの距離しかないこの道が、今だけ永遠に伸びればいいのに。
「あのっ、ありがとうございました……! まさかこうしてお話できるなんて、えと、とても嬉しかったです」
「……別に、話しかけられれば答えるが」
当人は怪訝な顔を見せるものの、その話しかけるという行為にどれだけの障壁があるかきっと自覚もないのだろう。大して盛り上がりもしなかったが、次に同僚に会ったら目一杯に自慢してやろうと思う。
この魔法師の『たった一人』になれたならどんなに幸福なことか――夢見たことはあるが、きっとそれは自分ではないともう知ってしまった。彼は、ルアンナの名を呼んだこともないのだ。
「あ……、アーレイン様はその、弟子とか、とらないんですか?」
別れる間際、思いきって訊ねると彼は意外そうに瞬いた。
上級魔法師の中には職務を超えて下の面倒を見ている者もいる。現に義務とはいえルアンナが丁寧に指導してもらっている通り、研究者肌が過ぎるというわけでもない。どんな方法を使ったのかはわからないが、あのラダンに弟子入りするくらいだ。どう考えているのか興味があった。
「そういうのは……向いてない」
「そんなことないと思いますっ……だって、わたし達いっつも話してるんです、アーレイン様が担当で良かったって」
「他人を変えられるわけもなし、利を得ているとすればそれはお前達の資質だ」
相変わらず素っ気なくはある、が。髪を結び始めたくらいの時期からだろうか、どことなく雰囲気が変わったと思う。以前の彼は今よりもっとずっと退屈そうで、魔法師となったことを誇りに思わない人間がいるのかと驚いたものだ。
髪自体はいつの間にかもう切ってしまったが。もちろんどんな姿でも素敵に思えど、艶やかな青鈍を耳に掛ける仕草は結構好きだったので、それだけは残念な気がしなくもない。
魔素が集まってくるのを感じる。そういえば、詠唱なしで転移魔法を使えるのか。
「だが、そうだな。意地の悪い言い方をすれば――」
長身の魔法師はふっと口元だけで笑った。何を言われるか……いや、待て。
「この俺が見てやっているのだから、少しは上達しなければ嘘だろう」
……笑った? 笑った!
「え……あ……」
「ではな。気を付けて帰るといい」
青い光の向こうに消える、挑戦的な微笑。至近距離で目にした破壊力は凄まじく、ルアンナは暫し呆然と立ち尽くす羽目になった。
少しは冷静になった頭の中に次々に話題が浮かんでくる。ああ、もうちょっとだけ早ければ! 色々と質問してみたいことはあったはずなのだ。休みの日は何をしているのかとか、どうやったらそんなに魔法が上達するのかとか、誰しもが訊きそびれている誕生日のことだとか、……またこうして言葉を交わしてくれるかとか。
でも、きっと、たぶん。無愛想なあの魔法師は、心にもない建前を口にできるほど器用ではないだろう。幸いにも多少なりとも目を掛けてくれるのなら
「……期待に応えなくっちゃ、ね!」
ぱん、と両頬を軽く叩く。夢のような時間だった。まだ熱い心を抱え、この週末は家で闇魔法の練習をしようと決意する。ルアンナは隠しきれない笑みを浮かべながら、転移するための呪文を唱えるべく息を吸い込んだ。