前編
何の前触れもなくあの魔法師は《白の鷲》にやってきた、らしい。
正規の手順を経ずして公認魔法師となる例は、ごく稀ではあるがないわけではない。国外からの移住者や、何かしらの理由で学校を修了できない者などの場合だ。
彼らは最初に各部門の長である大魔法師三名による試験を受けるのが習わしで、あくまでも実力がなければ――更に言えば縁や繋がりのない分、実力でしか――免状を得られない。
「ルアンナ、アーレイン様がお呼びよ」
同僚が声を掛けてくる。階級が上だからといって別に敬称をつける必要もないのだが、なんというか格が違いすぎて、この先いくら昇級したとしても直せそうもない。
「ありがとう、すぐに行くわ」
「ねえ……今日もとーってもカッコ良かった!」
「んもう、そんなの――当たり前じゃない!」
こそこそと言葉を交わす。仕事を理由にあの魔法師と話すことができるのは役得だ。
彼が特例と言われる理由は二つ。
一つ目は、大魔法師ラダンが自ら『弟子』として連れてきたこと。普段は気安く接しやすい長だが、弟子入り志願者についてはことごとく門前払いだったと聞くのに。
二つ目は、所属当初から上級魔法師として認められたこと。下級を飛ばすだけでも噂となるくらいだ、いきなり上級を名乗るなど、知る限りでは初めてのことだった。……といってもルアンナは新入りの部類だから、長い歴史の中でどうだったかはわからない。
確かなのは彼が非常に優秀であることと、容姿に関しても群を抜いて美しいことだけ。
「わたし達ツイてるわよね。あーあ、来期もアーレイン様が担当だったらいいのに」
「連続はさすがに難しいんじゃない?」
「えー、夢くらい見させてよ」
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、行ってくるわね」
ルアンナ達が所属する《白の鷲》は魔法の理論研究を主とする部門で、下級、中級魔法師には試行錯誤や鍛練の過程を報告し、指導を仰ぐ義務があった。年始めに何人かずつの班に分かれるが、担当するのはもちろん彼だけではない。どの上級魔法師がつくかは完全に運だ。
手鏡でこっそりと身だしなみを確認し、小さく気合いを入れる。
「……よしっ」
件の魔法師は珍しく自分の席で修練報告書を確認していた。人の多い空間が苦手なのか、周囲と合わせることに意義を感じないのか、彼はいつも外で――敷地内の庭園で執務している。その割に必要とあらばこうしてひとりひとりに助言をくれるのだから、人付き合いが下手というのでもなさそうだった。
意を決して足早に寄ると、ちらと金色の視線が書面から離れた。神経質そうな切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、男らしく骨張った長い指……ルアンナの存在を確認した彼は無表情のまま再度、報告書に記された名前を確認する。
「これはお前のもので合っているな?」
「は……はい、間違いありませんっ。よろしくお願いします!」
目が合っただけで鼓動が跳ねるのを感じる。春先に班分けを聞き、今までろくに祈ったこともない神様に感謝したものだ。少しでも接する時間が増えるだけで活力が湧いてくる。彼は魔獣討伐の遠征に出ていることも多かったから、朝一番に席を確認した結果でその日のやる気が左右されるほど。
ルアンナは公認魔法師となった時からずっと彼を慕い続けている。俗に言う、一目惚れというやつだ。
「ここでまた一から魔素を集約するのではなく、前段で集めた分を利用したらいい。あと……生じた水流が安定しないとあるが、闇魔法を混ぜて試してみろ。余計な力場を消失させる向きで」
他の上級魔法師と比べて圧倒的に若く見えるというのもあるが、一人だけ存在感が違う。見目麗しく、才能に溢れ、いつでも冷静沈着。淡白だからこそたまに見せる優しさが堪らない。こうして眺めるだけで癒される――
「……聞いてるか?」
「あっ……はい、あのっ、……はい!」
「必要ならもう一度言うが」
嘆息。言動は冷たい印象であるものの、これが彼の普通だった。怒っているのではないと既に皆が理解している。というより、彼が本気で怒ったところを見たことのある者は居ないかもしれない。常に退屈そうで何をするにも淡々としていて、かと思えば法規に関しては厳しくやけに生真面目だった。
当初はあまりの特別扱いに様々な反発が起きたのだと聞く。その見た目もあって最初に肩を持ったのは女性陣で、余計に根も葉もない言い掛かりが飛び交った。しかしその態度は誰に対しても変わることなく、媚びもしないどころか興味すらなさそうで。段々と躍起になった仕掛ける側も、最終的には振り上げた拳を下ろさざるを得なかったようだ。
「闇魔法は? どの程度扱える」
「えっと、簡単なものなら一通り……それなりには」
「上手くいかなければ言うといい。時間があれば見てやろう」
「は、はい! ありがとうございます!」
彼はただ成すべきことをやり遂げ続け、誠実かつ公平であっただけだ。失敗知らずではない。確かに天才的な感覚を持つが、その分たまに常識に疎いところがあるから。
だが見苦しい言い訳もしないし、ラダンを除けばどれだけ無茶を言われようと上の立場の者には従う。着実に地道に周囲へと『わからせて』きた。そんなところも好ましいし、ルアンナが彼の何でなくとも周囲に誇りたい気持ちである。
「アーレイン、昼飯行こうぜ――って、おっと。悪い、邪魔したか」
「いや、ちょうど済んだところだ」
気安く声を掛けたのはお調子者と名高い中級魔法師の先輩。遠慮なくあんなことが出来ればと思うものの、公衆の面前で誘う勇気などとても持たない。
返された書面には几帳面な筆跡の書き込みがある。目で姿を追うことは自由だ。耳も自然と声を拾うし、どんな功績があるかも大体は知っている。だが彼の体温だけは、この先もきっと知ることはないのだろう。
休憩から戻る廊下の途中、ルアンナは視界に憧れの姿を捉え、跳ねた心臓が口から飛び出さないよう息を呑んだ。どうやら午後はまた遠征に出かけるようだ。正装するのは個人の自由だったが、堅苦しさを厭う彼の場合はやむを得ずという理由でしかない。当人の意思とは別に、雪原を思わせる白銀の外套はよく似合うのだが。
思わず隠れてしまったが悪いことをしているわけでもない。ひとり赤面しながら何事もなかった風を装いつつ、そろりと顔を覗かせ……瞬時に引っ込め直した。
「え、え、なんで……?!」
何せ彼と共にいる丸坊主の体格の良い男性、どう見ても大魔法師ラダン本人である。まともに顔を合わせたのは《白の鷲》に所属が決まった時くらいだ。
最善の応対を必死に考えるも時すでに遅し、今この曲がり角から出ていけば不自然に見えるのは明らかで。
「――ふざけるなよクソジジイ」
「ク……?!」
口許を押さえる。そばだてた耳に飛び込んでくる暴言。こうもあからさまに不機嫌なのは珍しかった。他方、なだめる声には余裕がある。
「まあまあ、そう言ってくれるなって坊主」
「シエラに言われるならまだわかるが、なぜお前経由で聞かなければならない。また下手な芝居じゃないだろうな」
「二度はねえよ。オレだって命は惜しいさ」
どことなく違和感を覚えながらも、それ以上に会話の気安さに驚く。師弟というのを疑ったことはないが、こうして私的なやり取りを聞けばアーレインも見た目通りまだ若い。
一時、大魔法師との親子説が流れたことがある。彼らが共に住んでいるのはもはや部門内では周知の話だったが、いつだか誰かが誕生日を尋ねた時、奇妙なことに、自分ではわからないからとラダンに訊くよう返されたらしい。
とはいえ二人は顔立ちも雰囲気も全く似ていない。それにそもそも前提として、ラダンは未婚だ。
ルアンナも彼個人の情報が手に入らずがっかりした一人だった。名前だけでは相性占いも出来やしない。どうなりたいというのでもないが、興味を惹かれるのは間違いないのだ。
訊くに訊けない大勢の疑問……声を掛けるのも憚られるあの美しい魔法師に、決まった相手はいるのだろうか?