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8月のあの日

作者: C

ジリジリと照りつける太陽。蝉の声。

母ちゃんが縫い直してくれた防空頭巾を確認して、

水筒とお弁当を持って僕は声を張り上げた。

「行ってきます!」

「はいはいはい、行ってらっしゃい。

暑いから、気をつけてね。」

母ちゃんは台所から小走りで玄関まで出てきて僕の頭を撫でた。

「もう、わざわざ走って来なくてもいいのに。」

母ちゃんは怖いのだ。寂しく優しく笑ってやっぱりもう一度僕の頭を撫でた。

「気をつけてね。」

「はい。行ってまいります。」


家を出て道をゆきかどを曲がるまで、母ちゃんは僕に手を振る。

僕はなんだか照れくさいので少し手を上げた後、やっぱり前を向いてしまう。

僕の父ちゃんは、名誉の戦死を遂げた。僕には名誉の言葉がちっともわからなかった。

母ちゃんは一度も涙を流さず、その知らせをしっかりと受け取り、そしてありがとうございます。と頭を深く下げた。

僕はありがたくなんてなかった。

でも姉ちゃんが僕の頭をぎゅっと抑えるんだ。

姉ちゃんもおお姉ちゃんもやっぱりまた泣いてなかった。だから僕はちっとも泣けなかった。

僕には2人の姉ちゃんがいる。

おお姉ちゃんと、姉ちゃん。

大きい方がおお姉ちゃんだ。

おお姉ちゃんは看護婦さんで、僕の学校の隣の病院で働いている。

姉ちゃんは僕と同じ学校で3つ上の学年だ。

今日は僕よりも早く出発して、学校に集まった後、少し遠くの工場にみんなで向かうらしい。

夏は暑い。

まだ朝だというのにもう服が汗で濡れているのがわかる。

帽子をかぶる頭が蒸れて痒い。

汗がたらりと額をつたって目にしみてくる。

日差しがジリジリと照りつける中、校庭に集まる姉ちゃんを見つけた。

よお!っと手を挙げると、

姉ちゃんが小さく手をふり返した。

これから出発らしい。

僕らの学校は学年、学級ごとに分かれて工場に行ったり、学校で勉強したり。

といってもいまこの時勉強することなんてほとんどないから、みんなそれぞれに工場や町に出てそれぞれの役割を果たしている。

お国のためだ。

僕はお国ということがよくわからない。

僕の周りにいるのは母ちゃんおお姉ちゃん、姉ちゃん、父ちゃんは死んじゃったけど、父ちゃん、あとは近所の友達と。あとは知らない。

俺の世界はそれだけだ。

国というのがよくわからない。この世界というのはとてつもなく広いらしい。

地球は丸いらしい。

それで1日じゃ走って回れないほど日本は大きいらしい。

日本を全部回るには飛行機か船に乗らないといけないらしい。

それで世界というのもとても広くて大きくて、飛行機で何日もかかるらしい。船だともっとかかるらしい。

爆弾を落とさない飛行機があるらしい。

その飛行機は来ても防空壕に隠れなくていいらしい。


僕らの学級はとりあえず教室に集まることになっている。

そこで朝集まり、今日やることを先生に教わる。

僕は教室のドアを開け教室に入った。

僕の席は窓際の真ん中だ。

僕の前の席の女の子が鉛筆を落とした。

コロコロと転がる鉛筆が窓側の壁に当たり、止まった。

僕は机に向かうついでにそれを拾うためにかがんだ。

その時だった。

空いた窓から静かな風が吹いた。

あれだけうるさいほど鳴いていた蝉の声が聞こえないとふと思った。鉛筆に指さきが触れる頃、僕の指さきが見えなくなった。

見えすぎるほどに明るい光は、

僕の視界から全てを消した。

蟬より妬ましい轟音が鬼の足音のようにすべてを砕いた。

僕は何かに挟まれていた。

ふっと切れた景色が再開した時、僕の世界は黒色だった。

左側に肌色の何かが見えた。

指のような、その先から赤黒い雫がぽたりぽたりと音を立てていた。

僕は何とかして僕を挟んでいる隙間から這い出た。

僕の右手に鉛筆がくっついていた。

暑い、と声が聞こえた。

ひとつだと思ったその声は、あった椅子の数分聞こえたと思う。

助けて、痛い、暑い、苦しい。僕の右側に壁はなかった。

右には外があった。僕はそのまま校庭に出た。

木がなくなっていた。草も無くなっていた。家も無くなっていた。病院もなくなっていた。

僕には何もできなかった鉛筆のくっついた右手と小さな左手だけではあの声たちを助けられなかった。

僕は逃げた。おお姉ちゃんと姉ちゃんを探して走った。母ちゃんは無事だろうか。

ふと真っ黒な校庭の先から何かが走ってくるのが見えた。僕の名前を呼んでいる。おお姉ちゃんだった。

おお姉ちゃんは僕を見つけ腕を掴むなり僕を抱えるように走った。

おお姉ちゃんがこんなに走るところを僕は見たことがなかった。と場違いに思った。

「姉ちゃんたち、さっき出発したばっかり」

僕がそういうと、おお姉ちゃんはキッと進路を逆に向けて走った。

走った。

走った。

僕の知ってる、道じゃなかった。

木はなかった。家もなかった。

頑丈そうな壁は崩れて下から何かが見えた。

少し動いてるような気がした。

おお姉ちゃんはそれでも道だと思われるところを僕を抱えて走った。

その道の端に黒いものが見えた。

僕はとっさに

「姉ちゃん」

といった。

そんなはずはないと頭が言った。

それで、「姉ちゃんだ。」と心が言った。

黒く焦げた中に少し明るい色の防空頭巾が見えたと思う。

母さんが今朝、僕のと並べておいた縫い直された防空頭巾と同じ色だった。

おお姉ちゃんは僕をぎゅっと抱えたあと、

「背中に乗って」

とぽそりと言って僕をおろした。

僕はおお姉ちゃんの背中に乗った。

僕らは来た道を戻って家に向かって走った。

朝の道ではなかった。

多分まだ朝なのに、もう知らない世界だった。

世界があまりにも広いから、僕はもしかしたら知らないうちにその世界に来たのかも知れなかった。

だから、このよく似たでも黒い世界から元の世界に戻れば姉ちゃんも父ちゃんも友達もみんないるんじゃないかなと思った。

かどを曲がると家が見えた。屋根がいつもより低くて、何かがおかしかった。

ぼくが何かに挟まっていたのと同じように母ちゃんが挟まれていた。

僕らは一生懸命に母ちゃんを引っ張った。

母ちゃんを何とか引っ張り出した時、母ちゃんは何故か父ちゃんと僕ら4人が写った写真を持っていた。

母ちゃんがぼくの右手を見て、それからぼくの頭を撫でた。

僕は泣いた。

おお姉ちゃんも泣いた。

母ちゃんも泣いた。

姉ちゃんも父ちゃんも違う世界に行ってしまった。

僕らの世界はいったい何なんだろう。

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