86 病室
作戦の開始時刻は、十七時に決まった。
夜明けを待って万全を期すべきという意見もあったが、待っている間に完全体への変異はより進んでいく。
まだ明るい夏の夕暮れ、夜になる前に勝負を決める。
準備は急ピッチで進められた。
病院から六賢人の二人とエメリ先生も合流して。
しかし、伝えられた報告は、黒の機関の構成員たちを愕然とさせるものだった。
「アーヴィスくんは、今も意識不明……」
「あれだけの大怪我だ。高濃度の魔光子を浴びた影響で魔術回路にも変質が起きている可能性がある」
フランチェスカの言葉に、リナリーは声をふるわせる。
「魔術回路が変質ってそれじゃ……」
「もう二度と魔術を使えないかもしれない」
「そんな……」
もう魔術を使えないなんて。
あんなに練習していたのに。
ずっと誰にも評価されない劣等生だった自分だから、今はみんなの力になれるのがうれしいって言っていたのに。
「あくまで可能性の話だ。魔術回路が変質した結果、より強力な魔術が使えるようになった例もある。悲観することはないよ。今は目の前の敵を倒すことに集中しよう」
エメリ先生は言う。
「彼のおかげで私たちは生きている。戦える。次は我々が彼を守る番だ」
「……そうですね」
リナリーはうなずく。
アーヴィスくんが魔術を使えなくなったって、それで自分の気持ちは何も変わらない。
意識が戻らないなら、戻るまで病室に通おう。
動けないなら、代わりに身の周りのお世話をして。
話せないなら、私がその分もたくさん話しかける。
彼が何をしてくれなくても構わない。
傍にいられればそれでいいんだ。
誰かを好きになるって、きっとそういうことだと思うから。
病室で眠る彼を守るためにも、今は王都を救わなくちゃ。
「今度は我々がアーヴィス氏を助ける番だ」
ドランの言葉に、うなずくFクラス生たち。
「勝って、みんなでお見舞いに行く」
イヴは言った。
みんなの心は既に決まっている。
十七時が近づく。
彼らは戦闘用スーツにその身を通す。
漆黒の仮面を装着する。
『こちら、オペレーションチーム。半径二千メートル圏内の避難完了を確認しました』
「了解した」
ドランは応えて、黒仮面騎士たちと共に所定の位置に布陣する。
「来た……!! 黒の機関だ……!!」
集まったたくさんの人々。
その期待に満ちた視線に、目を閉じ、深呼吸で心の中を整える。
自分は彼らが思っているような存在ではない。
ただの出来損ない、劣等生だ。
魔術の才能も無いし、頭も良くない。
それでも、そんな不安と弱音を振り払う。
ただ自分にできる最善を尽くそう。
腹をくくる。
天へと伸びる黒い柱。
蠢く山のように巨大な怪物。
半壊した時計台の針が十七時を示す。
「――状況開始」
ドランは決意を込めて言った。
アイオライト王国史上、最大の戦いが始まった。
◇◇◇◇◇◇◇
夕暮れの病室、まだ青い空を窓から見つめ、魔術医師ギュンター・アイントホーフェンは深く息を吐く。
全身に包帯を巻かれ、ボロボロの姿で眠るのは未踏魔術使いの少年、アーヴィス。
規則的に響くベッドサイドモニターの電子音。
心電図、心拍数、体温、血圧、呼吸。
表示されているのはただのデータだ。
しかしギュンターはそこに眠っている彼の意思が現れているような気がしてならなかった。
「君は、……まだ戦おうとしているのか」
彼は自分が早く目覚めないといけないと気づいている。
じゃないと、戦いに間に合わない、と。
それはきっと、仲間を守るため。
そして何より、大切な妹を守るために。
そんな彼の意思を、ギュンターは手術の途中から強く感じるようになった。
通常の患者よりも、明らかに力強いその生命力は多分、残してはいけない大切な存在がいるからで。
「その怪我じゃ、とても戦うなんて無理だ。魔術回路もどうなっているかわからない。いいんだ。君の仕事はもう終わってるんだ」
無理をしなくていい。
ギュンターはそう伝えずにはいられなかった。
怪我の状態は、普通に生活できる状態になるまでにもどれだけかかるかわからない。
戦うなんて不可能なのは明らかで。
なのに、まだあきらめようとしないその姿が、ギュンターの心を強く揺さぶっていた。
「もういい。いいのに……」
ギュンターは浮かんできた涙を拭う。
いけない。年を経て、涙もろくなってしまっている。
一人の患者に感情移入しすぎるのは、医師としては致命的になり得る欠陥だ。
感情は時に恐怖や動揺となって魔術医師の腕を狂わせてしまう。
だからこそ、思い詰めず考えすぎないようにしないといけないのに。
まるで新人時代に戻ってしまったみたいだ。
なにをやってるんだ、と自嘲気味に笑ったギュンターの視界の端にうつったのは光だった。
淡い銀色の光が眠る彼の姿を包んでいる。
それは、明らかに魔術によるもので。
(だ、誰が……!?)
ギュンターは激しく動揺し周囲を見回す。
しかし、病室にいるのは自分だけだ。
外部から意図を持った魔光子の流れも感じない。
光の中心に現れたのは巨大な時計――
(まさか、彼が自分で……)
ベッドサイドモニターが異常な値を示す。
警報が鳴り響く。
彼は自分の命を削って、魔術を行使しようとしている。
時計の針が逆向きに回り始める。
次の瞬間、起きたのは信じられない光景だった。
「そ、そんなバカな……」
傷が治っていく。
ふさがっていく。
それはまるで神の奇跡を見ているかのようだった。
止血に散々手間取った、あれだけ深かった傷が――
まるで最初からなかったみたいに。
「やっと見つかりました。対象の時間を巻き戻し、傷を治す魔術の感覚」
少年の目が開く。
人工呼吸器を外し、身体についた装置を外していく。
「ま、まさかあの状況でもずっと新魔術の模索を……」
「エリスを助けるためにどんなことでもするって決めてるので」
少年は言う。
「病院のみなさんには心配いらないって伝えておいてください。今の僕は全快、大量の魔光子を浴びたお陰でむしろ過去最高レベルに力が漲ってる状態なので。それで、どこに行けば良いんですか?」
「王立魔術大学だ。怪物は今もそこで鎮座している。戦闘開始は十七時。もう始まっているがまだ間に合うはずだ」
「ありがとうございます」
少年はベッドから降りて駆け出す。
ベッドサイドモニターの警報。慌てて駆けつけてきた看護師たちをかわすその背中に、ギュンターは言った。
「がんばれヒーロー!」






