82 邪神
side:実験棟、王立魔術学生たち
それは、すべてを根こそぎ吹き飛ばす強烈な暴風だった。
窓ガラスが破砕し、屋根と石畳が剥がれて吹き飛ぶ。
紙くずのように飛翔するベンチの群れ、崩落する時計塔。
並木通りの木々は根ごと持って行かれて悲鳴のような音と共に天文台に衝突する。
ミキサーにかけられたかのように大地を揺らす強烈な振動。
国内最高の建築技術を以て作られた王立魔術大学の実験棟もその圧倒的な力の前には無力だった。
轟音と共に実験棟が崩れ落ちる。
舞い上がった黒煙と粉塵が視界を覆い尽くす。
「い、一体何が……」
命からがら一人の学生が実験棟から這い出る。
既に風は止んでいる。
粉塵の向こう、かすかに見える光景に言葉を失う。
そこにあったのは巨大な黒い柱だった。
半径二百メートルの黒い円柱が雲を裂きその更に先まで伸びている。
その奥で、紫に発光する巨大な何かが蠢いていた。
山のように巨大な、
百メートル近い巨体と無数の触手。
その姿に学生は立ち尽くす。
とても人間が立ち向かえるとは思えない、災厄そのもののような怪物がそこにいた。
◇◇◇◇◇◇◇
side:アイオライト王国宰相、デミアン・ラッセル
「王立魔術大学に巨大な黒い柱と怪物が現れた……?」
部下が何を言っているのか、デミアンにはまったくわからなかった。
四階の窓から、王立魔術大学の方角を見つめる。
そこにある巨大な黒い柱と、怪物の姿に言葉を失う。
「わ、私も何が起きてるのかわからないのですが」
裏返った声で言う部下。
デミアンはそれが何なのか既に気づいていた。
「『強欲の邪神』……」
「ま、まさかあれが……」
部下は声をふるわせる。
「調査隊の編成を頼む。大至急調査を。周辺住民に避難勧告。それから、『強欲の邪神』に詳しい魔術考古学者を呼んでくれ。今は少しでも情報がいる」
「承知しました」
小走りで外へ消える部下の背中を見送って、デミアンは窓の外、遠く向こうにいるそれを一瞥する。
目を覆いたくなるおぞましく巨大な怪物がそこにいる。
一時間後、集まった考古学者たちが話す情報はデミアンにとって、できれば聞きたくなかった事実だった。
「現れたが最後、いかなる文明をも滅ぼし尽くす怪物――」
「伝承の記録に比べ、あまりにも大きい――」
「当時のそれとは違う完全体――」
空を覆うほどの傘を持つ巨大なクラゲに似たそれは、生物を体内に取り込み、その魔光子を食らって生きる怪物。
山をも砕く巨竜のような触手と、あらゆる傷を即座に修復してしまう異常な回復能力を備えているという。
「動かずにいるのは完全体になったばかりで身体の組成が間に合っていないのだと推測されます」
「動きだすまでにどの程度かかる?」
「最長で一週間。早ければ三日ほどかと」
「攻撃するなら早い方がいいということか」
「お言葉ですが、攻撃はあきらめた方が良いかと」
ひょろ長い背丈に眼鏡の考古学者は言う。
「建国時と同じ完全体になる前ならともかく、今の『強欲の邪神』は完全体です。人間が戦って勝てる相手ではありません」
「なら、どうすればいい」
「王都を放棄し逃げることです。彼らは人間より高次の存在だ。神とさえ言っていいかもしれない。本来人類は万物の頂点に立てるような存在ではないのです。彼らが頂点として君臨する。それこそが、正しい世界の秩序なのですよ」
そして、ひょろ長の考古学者は壊れたように笑った。
「これから本当の世界が。神々が統治する千年王国が始まるのです」
「選択肢は二つです。『強欲の邪神』を倒すべく総攻撃を仕掛ける。もう一つは、撃退をあきらめ、王都を放棄し避難する」
王の執務室。
デミアンの言葉に、
「……避難だ。あんな化け物勝てるわけがないだろう」
国王リンドバーグ・ライネス・アイオライトは声をふるわせて言った。
(リンドバーグ様は国が落ち着いた時期に何の苦労もなく王になったお方。このような緊急事態に対処する力は求められないか……)
しかし、だからといって簡単にあきらめられる状況ではない。
デミアンは覚悟を決めて言う。
「しかし、それでは国を守ることはできません。王都を失えば、その経済的損失は計り知れない。何より、民を守ることができません。どれだけの命が失われるか」
「そんなの知ったことではない。私の命の方が重要だ。避難だ。急ぎ、王都から避難する」
「しかし、王が逃げたとあっては民の心も離れてしまいます」
「死んでしまえば、国など持っていても無意味ではないか。大切なのは生き残ることだ。あとのことはそれから考えれば良い」
「せめて、王の盾だけは。王の盾だけは攻撃部隊に加えても良いのではないかと」
「ならん。なぜ国内最強の部隊を死地に送る必要がある。彼らの職務は私の警護だ。元々そのための部隊だろう」
「しかし……!!」
「デミアン。お前の仕事は何か考えてくれ。私の右腕として、王の望みを実現する現実的方策を考えるのがお前の仕事だろう? 頼む、力を貸して欲しい。王都を失っても、まだ我々には王都以外の土地と民が残っている。彼らを守るため最善を尽くすのも私たちの使命ではないか」
王の言葉は、ただこの場から逃げだしたいがゆえに放たれたそれだ。
しかし、そこにも一つの真実が含まれていた。
(王都以外の土地と民を守るのも我々の使命……か)
王都で国王や、政務を行っていた者達まで死んだとなると、いよいよ国は混乱してしまう。
すべてを救うべく難しい戦いを挑むよりも、避難する方が現実的に正しい判断かも知れない。
(すまない……)
デミアンは王都に暮らす民のことを思う。
自分は為政者として彼らを見捨てる。
それは決して許される行いではない。
彼らには自分を恨む権利がある。
構わない。
それでも、決断するのが私の職務だ。
「承知しました。急ぎ避難の準備をします」
◇◇◇◇◇◇◇
国王リンドバーグ・ライネス・アイオライトは現れた巨大不明生物に対して、王都を放棄して逃げようとしている。
その知らせが配下の者達に与えた動揺は計り知れなかった。
王都には家族や友人もいる。
秘密にしなければいけない事項であることはわかっている。
しかしせめて、本当に大事な人だけは守りたい。
そんな思いから少なくない人数の王城で働く者達が情報を外の人間に伝えた。
「絶対に秘密にして欲しい」
だけど、外で暮らす彼らにも大切な人がいる。
つながりは連鎖する。
遂には、一人の正義感ある若者が、情報を魔術ネットに流した。
王都は大混乱になった。
「国王は俺たちを見捨てようとしてるらしいぞ!」
「王の盾でも勝てない化物らしい」
「逃げねえと! 早く逃げねえと!」
逃げ惑う人々。
交通機関はそのあまりの量の前に機能を停止し、周囲の人を蹴落としてでも生き残ろうとする人たちが先を急ぐ。
響き渡る怒号。
放棄された無人の店と、そこからものを盗む少年。
玉突き事故のあと、放置された車たち。
壊れた水道管から空高く飛沫が上がる。
横転した貨物列車から大量のトマトが転がり踏まれる。道路に赤いたまりを作る。
「ごめんね、遅くなった!」
王都の第二十二地区。
なんとか倒壊を免れた救貧院に一人のシスターが帰ってくる。
「みんな、慌てないで。大丈夫、大丈夫だから」
修道服姿のシスターは子供たちに言った。
それは同時に、自分に言い聞かせるために発せられた言葉だった。
(私が……私が、しっかりしなくちゃ)
この子たちを守るのが神様から与えられた自分の使命だ。
大丈夫、神様がきっと守ってくださる。
シスターはロザリオをすがるように握りしめる。
だけど驚いたことに、救貧院の子供たちはシスターの想定よりずっと落ち着いていた。
泣きだす子さえいない。
巨大な怪物を見上げ、「うおーすげー」なんて言ってる子までいる。
「みんなは怖くないの?」
思わず聞いてしまったシスターに子供たちは自慢げに胸を張って言う。
「だいじょうぶ、シスターメアリーのことはおれたちが守る!」
腰につけたおもちゃのベルト。
そのボタンを押す。
「へんしん!」
ポーズを決めて、それからにっこり笑った。
「かいぶつのことはだいじょうぶ! くろのきかんが守ってくれるから!」