73 夕方六時のカレーの匂い
side:アイオライト王国宰相、デミアン・ラッセル
「アーズ・ラル・グールが捕まった……!?」
その知らせにデミアンは激しく動揺した。
(信じられない……王立警備隊がここ数十年血眼になって探して何の証拠も手に入れられなかったアーズ・ラル・グールを一夜にして壊滅させるなんて)
しかし、何度目をこすっても報告書の内容は変わらない。
指名手配されている有力な幹部の内、アーズ・ラル・グールのボス――スカーフェイスだけは簀巻きにされた中にいなかったらしい。
環境に配慮した水性塗料のメッセージには、賞金の振込先として他国の銀行口座と共に『彼は我々が管理する』と書いてあったと言う。
「同時に、王立警備隊の幹部数名と、有力議員と連絡が取れなくなったという情報があります。これも黒の機関の仕業でしょうか」
「連絡が取れなくなってるのは誰ですか?」
デミアンは名前を一人一人手帳に書き込む。
あがった名前は、デミアンが秘密裏に作っていた遺書に書いてある名前の一部に一致していた。
私が暗殺されたらこの者たちを疑え、と頼れる部下に当てて残した遺書に。
「おそらく、アーズ・ラル・グールと裏で繋がりがあった者達でしょう。秘密が露見するのを恐れ、国外逃亡を図った。至急検問をお願いします。見つけ次第、捕えて構いません。私が許可します」
指示を出したデミアンは、ソファーに深く腰掛ける。
リヴァーランの奴隷市場を壊滅させただけでも驚きだったのに、アーズ・ラル・グールまで。
この国にある暗部を黒の機関は徹底的に排除しようとしている。
その先に、どれだけ深い闇があるかも知らずに。
「果たして、破壊されるのは黒の機関か。それとも、この国に巣くう何者かの方か」
デミアンは頭上の照明を見上げる。
(大きく何かが変わり始めようとしている。私たちも、この国を良い方向に導くために行動しなければ)
立ち上がり、向かったのは王の執務室だった。
「王と話をしたいのですが」
「リンドバーグ様は、先ほどヴィンターフォール皇国に出立されました。舞踏会のお召し物を新調するために前乗りがしたいとおっしゃりまして」
(こんな大事な時期に、あの人は……!!)
デミアンは世間体と社交界での地位を何より大切にする王を思い浮かべて歯噛みする。
◇◇◇◇◇◇◇
side:瞳に映る世界、エリス
目が見えるようになってから、エリスの日々は驚きの連続だった。
見えるものすべてがなんだかへんてこで。
さわってみて初めて本当に自分が知っているそれなんだってわかる。
世界ってこんな姿をしていたんだ。
それはまるで絵本の中の世界に入ってしまったみたいに不思議な体験だった。
兎の穴の奥にある、チェシャ猫やハートの女王が住む世界に来てしまったみたいに、エリスの目にはすべてが新鮮に映る。
(目が見えるってすごい……!!)
中でもエリスが一番気に入っているのは兄様が買ってくれた花だった。
ベランダで風に揺れる色とりどりの綺麗な花。
見ているだけで幸せな気持ちになってしまう。
水をあげたりお世話するのも楽しくて。
こんなわたしにも、役に立てることあるんだって思えてうれしくて。
だけどそんなエリスには、近頃怒っていることがある。
すごくすごく怒っていることがある。
それは、幼い頃からずっと一緒だった兄のこと。
もう一度言おう。
エリスはすごくすごく怒っている。
廊下の外から聞こえる微かな物音。
耳が良いエリスはそこにある些細なパターンで、帰ってきたのが誰かわかった。
兄様だ!
うれしくて、思わず迎えに行きたくなって。
だけど、我慢する。
いけない。
わたしは怒っているのだ。
怒っているから、笑顔で迎えたりしてはいけないのだ。うん。
「ただいま」
聞こえてきた声に、エリスは弾みそうになる心を抑えつける。
できるだけ怒ってる怖い顔を意識して、エリスは言った。
「今日はちゃんと自分の分買ってきた?」
兄様の身体が固まる。
だけどそれは一瞬のことだ。
小さい頃からはったりや駆け引きでスラムを生き抜いてきた兄様は、嘘も得意技。
まるで本当みたいに自然な様子で言う。
「帰りにエメリ先生に会ってさ。そこで食べてきたから」
多分他の人では気づけない。
でもわたしにはわかるんだ。
だってずっと兄様の声を聞いてきたから。
「嘘だよね」
「え? いや、そんなことは」
「袋の中を見せて」
「…………」
『七秒を刹那に変える魔術(ストップ・ザ・クロックス)』
「うん、いいけど」
兄様はわたしに袋の中を見せてくれる。
中にあるのは夕食の食材。
わたしとエインズワースさんの分。
「作り置きもできるし、カレーがいいんじゃないかなって」
お肉と玉ねぎ、にんじんとじゃがいも。
十二皿用のカレールー甘口。
そこに、わたしがあると思っていたものはない。
勘違いだったのだろうか。
それは違う。
兄様が時間を止める魔術が使えることも、わたしはもう知っているから。
「ここかな?」
「ああっ!?」
戸棚の引き出しを開ける。
そこにあったのは一袋のもやし。
「また自分は晩ごはんもやしで済ませようとしたでしょ」
背の高い兄様に負けないよう、えいと胸を張って言うと、
「………………ごめんなさい」
兄様はしょんぼりと肩を落として言った。
兄様自分のごはん軽視しすぎ問題は、重大な局面を迎えていた。
目が見えなかったわたしは知らなかったけど、兄様はわたしが考えていた二十倍くらい自分のごはんを安く済ませていて。
ずっと気づかずにいたバカな自分が悔しくて仕方ない。
兄様も人間なんだからさすがにもっと、マシなごはん食べてると思ってたのに……!!
「わたしも怒りたくて言ってるわけじゃないの。育ち盛りの兄様は絶対もっと食べるべきで。でも、兄様が食べようとしないからこういうことになってるの。わかる?」
「……反省してます」
正座の兄様はがっくりうなだれて言う。
なんだか怒られた大きな犬みたい。
かわいい。
ってダメだダメだ!
今は怒るところ!
かわいい兄様に浸るのは、あと。
今は心を鬼にしないと。
「今日はカレーをお腹いっぱいになるまで食べてもらうからね」
「いや、でも僕はもやし食べたいかなって」
「もやしとカレー両方食べるならいいよ」
「カレーは気分じゃないんだよね。僕は貴族の生まれだから、やっぱり超高級品であるもやし以外は身体が受け付けなくてさ」
「もやしが高級品じゃないのわたしわかってるからね」
「嘘だ、違う……もやしは高級品なんだ、貴族の食べ物なんだ……!!」
もやしの袋を大切そうに抱えて言う兄様。
できればずっと騙されてるふりをしてあげたかったけど、こうなったからにはもう言うしかない。
わたしは目が見えるおかげでもやしが安いことに気づいたという設定で兄様にカミングアウトしていたのだった。
兄様は未だに受け入れられてないけど。
もやしは最高級品だって自己暗示かけるみたいに言ってるけど。
そんなこと言って、またもやしだけでごはんを済まして許されようとしているのだ。
自分の分の食費を削って、そのくせわたしにはちゃんとしっかりした食材買ってきて。
すごく大切に思われてるなってうれしくなるけど。
兄様のためなら何をしたって惜しくないくらい愛しく思えちゃったりもするけれど。
でも、これだけは許せない。
兄様が大切だからこそ、嫌がってもちゃんとしたごはんを食べてもらわないと!
「今日の兄様のごはんはカレーともやし炒めね」
「ダメだ。それは決して許されない禁忌……最高級食材であるもやしだけでなく、カレーまで一度に食べてしまうなんてなんという傲慢。そんなこと、人間がやっていい行いでは……!!」
「しっかり全部食べてもらうから」
「ああ、もやし神よ私をお許しください……」
こうして、兄様へのカレーともやし炒めを食べる刑の執行が決まったのでした。
「任せてください! 目立てるよう私が、最高のカレーを作ります!」
エインズワースさんはすごく張り切って夕ごはんを作ってくれた。
影が薄いことを気にしているらしく、近頃は毎日こんな感じ。
がんばってくれるのはすごくありがたいし、張り切る姿も微笑ましくて、わたしはたくさん幸せをもらっている。
あとは、ちゃんと目立ててるといいんだけど。
「そうだ、エリス様。ひとつ作戦を思いついたのです。聞いていただけますか」
「作戦?」
「はい。目立つには他の人と違うことをしなければなりません。そこで、特徴的な語尾をつけることで個性を強くしようかと」
「特徴的な語尾って?」
「メイドとかどうでしょうか。私の職務や立ち位置も表す言葉なのでメイド」
「……それはちょっとやめといた方がいいかなってわたしは思うけど」
「そうでしょうか? 難しいでメイド」
迷走してるなぁ……。
でも、がんばってるのわかるよ!
わたしは応援してるからね!
カレーの匂いが部屋に漂い始める。
夕方六時のカレーの匂いがわたしは好きだ。
なんだか幸せの気配がそこに混じっているような気がするから。
「さあ、食べてもらうからね兄様」
でも、今日は心を鬼にしなくちゃ。
わたしはカレーを大盛りで器に盛りつける。
「わかった、食べるから」
兄様はスプーンでカレーを口に運ぶ。
「こんなに食べてほんとに良いのかな」
そう戸惑った声で言った。
ずっと……
ずっと、我慢してくれてたんだよね。
ほんとはありがとうって言いたくて。
でもありがとうじゃ全然足りなくて。
プレゼントした歌よりもっともっともっと。
分厚い辞書の中の言葉をすべて尽くしても表せないくらい感謝してるんだって伝えたくて。
だけど、感謝しちゃうと兄様はまた我慢しちゃうから。
わたしは心を鬼にして怒る。
ありがとうを伝えるのはもうちょっと我慢。
兄様が何も言わなくてもお腹いっぱい食べられるようになってから。
どうか、兄様が病気や大きな不幸に遭ったりせず、元気に健康に生きていけますように。
そして、今の幸せな時間が少しでも長く続きますように。
そんな願いを心の奥に隠して、わたしは厳しい先生みたいに言った。
「よろしい。にんじんも残さず食べるように」
夕方六時のカレーの匂いには、幸せの気配が混じっている。