43 あまりいいものではないけれど
side:わがまま? エリス
アーヴィスの妹、エリスの朝は早い。
大好きな兄を学校に見送りたいからだ。
「行ってらっしゃい、兄様」
「うん、行ってくるね、エリス」
兄の声がエリスは好きだ。
自分のことを本当に大切に思ってくれているのが伝わってくるから。
物心もついてないくらい小さな頃からずっと一緒にいてくれた兄様。
(両親はいなくて、わたしは目が見えなくて、食べるものもなくて、路上で暮らしていて)
だけど、記憶の中の兄はいつも元気で前向きだった。
「エリス。僕らは貴族の家の子なんだ。だから僕のことは兄様と呼ぶように。見えてないと思うけど、ここってすごい豪邸でね。ほら、これは超最高級食材のもやしっていうものなんだけど、僕らはお金持ちだからもやしも毎日食べることができる」
(いっぱい嘘をついて、わたしを少しでも幸せに過ごせるようにしようとしてくれたっけ)
年上の不良集団に折角集めた食べ物を奪われて、ボロボロになって帰って来たときも、弱音の一つも吐かなくて。
できるわけない、とみんなにバカにされながら、街中のゴミ捨て場を探して見つけてきた魔術書でいっぱい勉強して。
実技試験がない魔術学院の中等部に合格して、奨学金をもらえるようになった。
苦しくて仕方なかった呼吸器の発作は、買えるようになった薬のおかげで起きなくなった。
薬が買えなかった頃に比べればずっとずっと、楽に過ごすことができるようになって。
本当に、どんなにお礼を言っても言い足りない。
そんな兄は、最近名門魔術学院に通っているらしい。
(てっきり、またいつもの嘘だと思ってたんだけど)
しかし、おかしなことに、寮のベッドは信じられないくらいに柔らかかった。絨毯の手触りも頬をこすりつけたくなるくらいに気持ちよくて、本当に名門魔術学院に入れたんだ、とエリスは数日かかってようやく納得した。
(一体どんな方法を使ったんだろう? いけないことやあぶないことをしてないといいんだけど)
兄には少し危ういところがある。エリスのためなら、どんな手段を使ってでもなんとかしようとしてしまうような。
(でも、今のところは大丈夫かな。生活にも少し余裕があるみたいだし)
もやし以外の食べ物が食卓に並ぶことも増えた。
毎週のようにプレゼントを買ってくれたり、手作りのぬいぐるみを作ってくれたり。
欲しかったおもちゃのピアノも買ってくれて。鍵盤を叩いて音色を楽しむのが今はすごく楽しくて。
何より、与えられるもの以上に、大切に思ってくれている。
その感覚がエリスの心に水をくれる。
大好きな兄様。
自分のことは我慢して、いつもわたしのためにがんばってくれた。
(なのに、わたしは何も返せてない……)
それが近頃のエリスの悩みだった。
もらってばかり、迷惑かけてばかり。
(わたしにも、何かできることがあるといいんだけど)
しかし、兄に相談することはできなかった。
というか、兄の答えなら聞くまでもなくわかる。
『そんなこと気にしなくていいから。エリスがいるだけで僕は幸せなんだよ?』
兄様好き。
やさしい。かっこいい。大好き。
って、いけない。今はわたしにできることを考えないと。
「少し、相談したいことがあるんですけど」
相談した相手はエインズワースさんだった。
兄が不在の間、エリスの身の回りのお世話をしてくれるメイドさん。
どうして兄に仕えてくれているのかはエリスにとって、未だに謎ではあるけれど。
名門魔術学院の寮生ならこれくらい普通なのだろうか?
しかし、理由はわからなくてもエインズワースさんは本当に仕事ができる人で、エリスの生活は随分楽なものになっていた。
何より、見えない自分にとっては、近くに助けてくれる人がいるのはすごく心強い。
(なのに、もっとしたいことがあるなんて、本当にわがままな話だとは思うんだけど)
でも、兄へのお返しはどうしてもしたい。
勇気を出して、思いを話したエリスに、エインズワースさんは一瞬言葉を失った。
絶句しているらしいのが息づかいでわかる。
やっぱり、わがままが過ぎただろうか。
「ごめんなさい、わたしわがままを――」
「兄であるアーヴィス様のことをそんな風に思っていらしたなんて、なんと健気な……」
「………え?」
「とても良いと思います。最高のプレゼントをお兄様に贈りましょう」
手を握ってくれるエインズワースさん。
こうして、エリスは生まれて初めて兄以外の人と街に繰り出したのだった。
たくさんの人が行き交う街の中。
その喧騒が、エリスはあまり得意ではない。
目が見えない分、耳の良いエリスにとって、街の音は少しうるさすぎるのだ。
近くを行き交う人の気配も、エリスの心をすくませる。
帰りたい……。
そんな本音をエリスは飲み込んだ。
(兄様にプレゼントを買うんだ! エインズワースさんも手伝ってくれてるのに、こんなことでくじけちゃいけない!)
エリスは心の中で自分を励ます。
(大丈夫。怖くない。できる)
そんなエリスに、手を引くエインズワースさんは言った。
「大丈夫です。エリス様のことは、私が絶対にお守りいたしますから。危険な目には決して遭わせません」
落ち着いた声が頼もしかった。
「ありがとうございます」
少しほっとしてエリスは言う。
「エインズワースさんは何をプレゼントすれば良いと思いますか?」
「何でも良いと思いますよ」
「え?」
「アーヴィス様は、エリス様が大好きなので、エリス様が選んだものなら何でも抱きしめて一緒に寝るくらいお喜びになるかと」
「そうかな? そうだといいけど」
エリスはプレゼントと一緒に寝る兄の姿を思い浮かべて頬を緩める。
兄様かわいい。
って、いけない。
今はプレゼント選び。
(兄様がほしいものって何だろう?)
エリスは考える。
(お金はわたしのためにがんばってくれてるだけだし。もやしはいつも食べてるし。あとは拾った小説とか好きだったっけ。でも、わたしどんなのが好きかわからないし)
雑貨店、本屋、魔道具店、オルゴールのお店。
いろいろ回ってはみたけれど、これというものは見つからない。
「兄様は結局手作りを選んだんだっけ……」
ふと呟いたエリスに、エインズワースさんは言った。
「とても良いと思います。よくしてくれる兄のために作る手作りプレゼント……素敵です」
頬を緩ませるエインズワースさん。
「でも、わたし手作りできるものなんて何も……」
分量が量れないからお菓子作りもできないし、手芸もどうすればいいのかさっぱりわからないし……。
肩を落とすエリスに、エインズワースさんはにっこり笑って言った。
「大丈夫です。あるじゃないですか。エリス様が、お得意で大好きなものが」
一週間後、帰って来た兄にエリスは言った。
「兄様、少しいい?」
「ん? いいよ。何かな?」
口に出すのは少し勇気がいった。
もしも、気に入ってもらえなかったらどうしよう。
つまらないって思われたらどうしよう。
やっぱり、今日はやめておこうかな。
くじけそうになるエリスに小声で囁いたのはエインズワースさんだった。
「大丈夫ですよ。すごくいいと私は思います。絶対喜んでくれますから」
その一言に救われる。
もらった勇気を振り絞って、エリスは言った。
「兄様に、プレゼントがあるの」
「プレゼント? エリスが僕に?」
突然のことにびっくりしている様子の兄様。
「うん。が、がんばって作ったの」
立ち止まったら、また足がすくんでしまう。
だから、エリスは勢いに任せて、えいっと鍵盤を叩いた。
「聴いてほしい――『兄様のうた』」
思いを込めて、歌を歌う。
あんまりうまくはできなかったと思う。
違う鍵盤を叩いちゃったり、声が裏返っちゃったり。
だけど、せめて気持ちだけは伝わるように。
わたしがどんなに兄様に感謝しているか。
その気持ちだけは、ちゃんと伝えられるように。
一生懸命、エリスは歌う。
子供らしい微笑ましく拙い歌は、短いからすぐに終わった。
最後の一音を残して、世界から音が消える。
兄様は何も言わなかった。
(やっぱりへたくそすぎたのかな……)
沈黙が流れる。
やがて、エリスの鼓膜をふるわせたのは、微かに聞こえてくるふるえ声だった。
「あり、がとう。すごく……すごくうれしい」
それだけ言って、兄様はまた何も言えなくなる。
すすり泣きみたいな声が聞こえて、エリスの頬はゆるんだ。
(まったく、兄様は子供なんだから。泣いちゃうなんて、大げさな)
「よかった、です。とても、よかったです」
エインズワースさんまで声をふるわせていて、エリスはなんだかおかしくなってしまう。
これじゃ、わたしが一番大人みたいじゃないか。
にっこり笑って、エリスは言った。
「いつもありがとう、兄様」
伝えたかった気持ちは、ちゃんと大好きな人に届いてくれたみたいだった。