115 選択
あの日、暗殺教団を逃げだしてから、スコーピオンはアーネンエルベ宮殿で見習い執事として生活をしていた。
潜入のため、教団に用意された偽のプロフィールと身分証。
十九才の青年、エミール。
「エミールくん、お皿洗ってくれる?」
「わかりました」
キッチンメイドを務めるリディアはエミールの直属の上司にあたる。
仕事の合間にかわす言葉のすべてが偽りであることを彼女は知らない。
運ばれてくる食器を洗いながら、スコーピオンは逃げだしてきた教団のことを考える。
決して許されることではない。
裏切り者には死をもって償わせるのが教団のやり方だ。
間違いなく全力で殺しに来る。
いや、本当なら既に来てないとおかしい。
(あるいは、教団は既に壊滅しているか)
あの日、教団のセキュリティシステムは突破され、警戒していた仲間たちも簡単に無力化された。
スコーピオンの想像、そのはるか上をいく怪物たち。
その後のことはわからないが、可能性は十分にある。
(もし教団が消滅していたとすると……)
スコーピオンは思う。
(俺はどのように生きていけばいいのだろう)
幼い頃から組織の一員として生きてきたスコーピオン。
彼を戸惑わせていたのは初めて手にした自由だった。
命令されることもない。
罰を受けることもない。
その事実が彼をひどく混乱させる。
物思いにふけっていたスコーピオンは、手元を狂わせて皿を落とす。
皿が床に落ちるまでの刹那、スコーピオンにはすべてがスローモーションに見えた。
薬と鍛錬により磨き上げられた動体視力と反応速度。
常人の域を優に越えたそれは、落とした皿を割らずに拾い上げることくらい容易に可能にする。
しかし、彼は間接視野で捉えていた。
ちょうど調理場に入ってきたリディアの姿を。
見られるわけにはいかない。
だからスコーピオンはあえて皿を拾わなかった。
甲高い音をたて、割れる円形の皿。
「大丈夫? 怪我はない?」
リディアは駆け寄ってきて言う。
「珍しいね、エミールくんがお皿割るなんて」
「すみません」
「いいのいいの。失敗は誰にでもあるからさ」
明るいトーンで言うリディア。
「何か悩み事?」
「え?」
「なんだか様子がいつもと違うから」
どきりとした。
心の中のことを気取られるなんて。
正体を知られるわけにはいかない。
口を封じなければ。
反射的に十九通りの殺害方法と死体処理の仕方を検討するスコーピオンに――
「なんでも相談してね。若いうちはいろいろあると思うし。エミールくん繊細そうだから」
向けられたのはやさしい笑みだった。
邪気のない笑みにスコーピオンは戸惑う。
どう対応していいかわからなくなる。
混乱のあまり、つい本音を口にしていた。
「少し悩みがあって」
「何に悩んでるの?」
「どう生きていけばいいのかわからないんです」
「若い! 若いね、青年」
リディアはにっこり目を細める。
「いいよ、そういうのお姉さん大好き。わたしもあったなぁ。そういう時期」
思わぬ言葉にスコーピオンは驚く。
そうか、他の人もこうした悩みを抱えるものなのか。
「リディアさんは答えを見つけたんですか?」
「ううん。考えてるうちに、お母さんが体調を崩してね。それまで以上に稼がないといけなくなっちゃって必死で。気づいたら考えるのも忘れちゃってたかな」
リディアは言う。
「みんなそうなんだよ。結局答えを出せなくて、そのままなんとなく大人になるの。そんなくだらないこと考えないのが大人だ、みたいに訳知り顔でさ。だからわたしはエミールくんを応援してる。答えが出せても出せなくてもいいけど、でも悩めるのはきっと今だけだからさ」
リディアの言葉がスコーピオンはよくわからなかった。
一般的な大人の思考についてスコーピオンは知らない。
そういう普通の世界を知らない。
擬態することはできる。
表面を取り繕うことはできる。
しかし、本質的なところはわからない。
内側は一切わからない。
だけど、一つだけわかることがあった。
――この人は多分、良い人だ。
「ありがとうございます。がんばります」
「うん、ファイトだ青年」
割れた破片を袋に入れて、リディアは調理場を出て行く。
くだらない感覚かもしれないけれど、自分だけじゃないという事実はいくらか彼の心を軽くしてくれた。
(いけない。遅れた分を取り返さないと)
スコーピオンが皿洗いを再開しようとしたそのときだった。
――なんだ、この気配は。
背筋が凍る悪寒。
押しつぶされそうな殺気。
スコーピオンの本能が危険だと叫んでいる。
(何かが、いる……)
それはあの日相対した、謎の仮面騎士ともまったく違う気配だった。
もはや人間でさえない正真正銘の化物。
戦えばスコーピオンも無事で済むかはわからない。
(逃げるか)
幸い、相手はスコーピオンに気づいていない。
気配を隠すのは暗殺者の得意分野。
見つからないよう逃げに徹すれば、まず自分の安全は確保する自信がある。
隠し通路の入り口へ向かうスコーピオン。
その足を止めたのは一つの可能性だった。
(……あのとき、リディアさんはどちらに行った?)
西側だったら良い。
怪物と逆方向だ。
しかし、東側に向かったとすれば――
気がつくと走っていた。
絶対にしてはならないことだ。
敗北するかもしれない相手の前に、リスクを冒してわざわざ出て行くなんてありえない。
愚かな判断であることを、プロフェッショナルであるスコーピオンは誰よりもわかっている。
しかし、それでも――
向かったその先にいたのは牛の頭をした巨人だった。
三メートル近い巨体の怪物は、大斧を振る。
宮殿の壁が紙細工のように消し飛ぶ。
そして、その足元でリディアは動けなくなっていた。
右足が瓦礫に挟まれている。
抜け出せない。
怪物の視線が彼女を捉える。
怪物が大斧を振りかぶる。
恐怖のあまり、リディアが目を閉じたそのとき――
『暗殺者の氷刃』
目にも止まらぬ速さで、二十九の短刀が怪物の体に殺到した。
「来い、化物。俺が相手してやる」
気づかれないうちに一撃で仕留めるのが暗殺者のやり方だ。
気を引いて、囮になるなんて戦い方はありえない。
それでも、スコーピオンは選択する。
理由はわからない。
愚かな選択だということもわかっている。
だけどそうせずにはいられなかった。
ここで彼女を見捨てたら、二度と取り返せない大切な何かを失ってしまうような気がしたから。






