100 魔導国の影
side:第三王子、クレイン・ローゼンベルデ
クレイン・ローゼンベルデは幼い頃から、優秀な兄二人と比べられて育った。
学業、頭脳の面で人並み外れた才能を持っていた『人形師』、第一王子ベルクロード。
そして、兄弟の中で圧倒的な魔術の才を持っていた『ローゼンベルデの至宝』、第二王子ヴィルヘルム。
学業も魔術もそれなりに努力してきたクレインだが、結局一度として兄二人に勝ったことはなかったと記憶している。
必然的にクレインは、『自分と他人を比べない』ことを処世術として身につけることになった。
比べて秀でる必要は無い。
人は人。自分は自分。
手を抜かず、できるベストを尽くしていればそれでいい。
その思想はクレインの成長を後押しするようになった。
生まれ持った要領の良さも相まって、クレインはローゼンベルデのトップレベルで活躍する選手にまで成長した。
それなりに楽しく生きられているし、王の座にはさして興味が無い。
幼い頃巻き込まれた魔術実験の失敗で、外見の成長が十歳の頃から止まってしまったのは不満な点ではあるけれど。
いつからか付いていた『小さな魔法使い』という異名には非常に大きな不満があるけれど。
まあ、人生思うようにならないこともあると割り切れている。
「バカ兄貴が帰ってきた?」
執事長が報告をしたのはそんなある日のことだった。
「はい。担当医師の反対を押し切って帰ってきたと。大金で言うことを聞く国中の医師を集め、王位継承戦に出るためにリハビリを開始しているそうです」
「会いに行く」
「なりません、クレイン様! 今は王位継承戦前の大事な時期。下手な接触は大きなリスクが」
「知らん。行く」
アーネンエルベ宮殿の豪奢な廊下を歩く。
クレインは兄の部屋に向かった。
部屋の前には、医師らしき人物やヴィルヘルムに仕える執事や料理人が慌ただしく行き交っている。
「クレイン様……!?」
驚く彼らの顔を見ることもせず、クレインは人々の間をすり抜けて、部屋の扉を開けた。
「よう、バカ兄貴」
「ん?」
足に包帯を巻いた兄は、ベッドから顔を上げる。
「おお、相変わらず元気そうじゃねえかチビクレイン」
「小さくねえ」
それが兄弟の久しぶりの会話だった。
二人で話したい。
そう言ったクレインに、第二王子ヴィルヘルムは時間を作ってくれた。
ヴィルヘルムの執事は反対したが、この兄が大人しく言うことを聞くような人間でないことをクレインは知っている。
「久々だな、お前! 代表合宿以来か? 元気そうじゃねえか! こんなに小さくなって!」
「だから小さくねえって言ってんだろ。三ミリ伸びてんだよ、三ミリ。いてえから、叩くな。筋肉がうつる」
「むしろうつしてやるって。風が吹けば飛びそうな身体しやがって。兄は結構心配してんだぞ」
「余計なお世話だっての。だから頭撫でんな。うっとうしい」
子供扱いされるのは、クレインにとって最も気に入らないことの一つだ。
とはいえ、戦うことしか能が無い単細胞バカ愚兄に抗議しても何の意味もないことは嫌というくらいに知っていた。
「リハビリに時間ないんだろ。本題入るぞ、本題」
「いいじゃねえか。久しぶりなんだしもうちっと話そうぜ」
「断る。俺は忙しい」
「相変わらずお前はつれねえなぁ。酒誘っても全然付き合ってくれねえし」
「こっちは子供の身体なんだよ。悪影響出るだろわかれ。いいから本題だ」
クレインは言う。
「誰にやられた」
部屋の空気が変わる。
ピンと張り詰めた空気が流れている。
「わかれば苦労してねえよ。酔ってるところを五人がかりだぜ。俺じゃなければ命まで取られてる」
「心当たりはあるだろ。バカ兄貴にそれだけの怪我させられるやつなんてほとんどいない。表社会のプロか。あるいは、裏のプロか」
ヴィルヘルムはため息を吐く。
「……まあ、正直に言えば当たりはついてる。ただの勘だし、できれば信じたくねえが」
「教えてくれ」
「暗殺教団って聞いたことあるか」
その名前をクレインは知っていた。
裏社会における都市伝説だ。
超人的なスキルと身体能力を持ち、依頼された標的は必ず殺す暗殺者集団。
彼らが現実に存在することをクレインは知っていた。
実際に関わったという人間に一度会ったことがあったからだ。
何より脅威なのは、その徹底した秘密主義。
合衆国の大統領、亡国の名君、新興宗教の現人神。
数えきれぬ数の要人を殺しながら、未だに表社会では組織の名前さえ知られていない。
世界の闇に潜む、暗殺者の頂点。殺しのプロフェッショナル。
「誰かが連中に依頼をした、と」
「できれば信じたくねえがな。気をつけろ。お前だって有力な王候補だ。消したいと思ってるやつがいてもおかしくねえ」
「わかってる。バカ兄貴と違って警戒はしてるから大丈夫だよ」
ローゼンベルデに限らず、王位継承争いではこうした場外での戦いもついて回る。
身の回りの警備には、クレインもできる限り気を使っていた。
「あと狙われるとすれば、クソ兄貴とヒス妹か」
「実力的にはそうだろうな」
ヴィルヘルムはうなずく。
「それから、ニナも危ない」
「……だろうな」
クレインとヴィルヘルムが例外なだけで、ほとんどの兄弟や関係者は、ニナを邪魔な存在だと思っていた。
白髪、赤い目で生まれた忌み子。
ローゼンベルデの名を汚しかねない欠陥品。
森の奥、壁に囲われた洋館にはニナの他に老メイド一人しかいない。
狙われれば、まず無事では済まないだろう。
「洋館の警戒を警備隊の知り合いに頼んでおくよ」
「頼む」
「それでどうにかできる相手じゃないだろうけどな」
クレインはため息を吐く。
狙われれば最後、まず命はないだろう。
不憫な末の妹が、恐ろしい怪物に狙われないことを祈る。
◇◇◇◇◇◇◇
分厚い雲が空を覆う星のない夜。
二人の執事が、灯りのない自室で外した床の下から、黒の衣服を取り出す。
「仕事にかかる」
「わかった」
二人は、人間離れした動きで誰に悟られることもなく外の闇に溶ける。
向かったのは森の奥、壁に囲われた洋館。
標的はニナ・ローゼンベルデ。
この国の第十七王女。
「十九人、か」
壁の周囲では、普段より多くの警備隊員が警戒をしていた。
「どうする?」
「問題ない。俺なら七秒でやれる」
「さすがだな。まさか一桁とは」
「障害にさえならない。標的を優先する」
「わかった」
効率的に組織された警備網。
しかし、それが洗練されていればいるほど、二人からすると対応は容易だった。
彼らもプロだが、二人はさらにその上を行く。
その男はスコーピオンと呼ばれていた。
暗殺教団の中でも、凄腕の十三人のみが名乗ることを許される称号、十三階段。
七段目の地位にある彼は、最年少で十三階段に選ばれた組織トップクラスの実力者だった。
二人は警戒網を難なく突破し、超人的な身体能力で三階建ての建物に近い高さの壁を跳び越える。洋館の庭に降り立つ。
禁止薬と魔術、鍛錬によって人間離れした身体能力を獲得している彼らにとってこんな壁など障害にさえならない。
「問題ないな」
パートナーを務める男が洋館に向かおうとしたそのときだった。
「――待て」
スコーピオンが言った。
瞳は、鋭く眼前の洋館に注がれている。
「どうした?」
「罠がある」
「罠……?」
半信半疑の顔で、闇に濡れる洋館を見つめた男は、瞬間息を呑んだ。
「な、なんだあれは……」
それは視界に映らぬよう巧妙に張られた糸だった。
蜘蛛の糸のようなそれは、屋敷の周囲に張り巡らされている。
「水流の糸だ。あの速度なら岩盤だって切れるだろう」
「水の糸、だと……」
中にいるのは王女と老メイドだけだったはずだ。
一体誰があれほど精緻な魔術トラップを。
思考をめぐらせていた二人は気づかなかった。
「――何をしている」
本当の脅威は、既にすぐそこまで迫っていたことに。
(――――!?)
彼らの背後に立っていたのは全身黒尽くめのスーツを纏った仮面の男。
しかし、予期せぬ出来事に対してもスコーピオンは動じない。
刻み込まれた戦闘技能は反射的に最善の迎撃行動を選択する。
『暗殺者の氷刃』
放たれたのは二十九の短刀。
四本の手投げナイフと、二十五本の氷魔術製の刃を一瞬で放つスコーピオンの最も得意とする攻撃の一つ。
その技能は何よりも速さに特化している。
磨き抜かれた術式起動速度と正確性。
すべては、対象の命を刈り取るため。
たとえ神が相手だろうと、この間合いなら殺してみせる。
絶対の自信を持って放たれた一閃は――
『時を消し飛ばす魔術』
しかし、黒衣の仮面に傷一つつけることはできなかった。
(――――!?)
スコーピオンは目の前の出来事が理解できない。
黒仮面が何かしたようには見えなかった。
しかし現実として、放った最速の刃はすべて空を切っている。
何が……一体何が起きた……!?
スコーピオンの判断は速かった。
壁を跳び越え、闇夜の森を全速力で駆ける。逃げる。
遅れて着いてきたパートナーの男は囮だ。
まずは何としても自分が生き残ることを優先する。
黒仮面はさらなる攻撃をしてこなかった。
アーネンエルベ宮殿に逃げ込む。スコーピオンは数瞬背後を一瞥する。
無事に撒くことができたのだろうか。
いや、違う。
(見逃された……)
黒仮面はあえて我々を見逃したのだ。
姿は見えないが、たしかに視線を感じる。
(逃げに徹した我々に容易く着いてくるか)
宮殿内に用意した隠し通路を駆けながら、スコーピオンは動揺を抑えきれない。
この王位継承戦には何かが潜んでいる。
裏の世界、その一つの頂点を知るはずの自分が強さを推し量ることさえできない怪物が――
スコーピオンの背筋には、数年ぶりに冷たいものがつたっていた。






