ショッピング
湖曜日の8刻の鐘がダレーナの街に響いている。
セリカは馬車の窓から久しぶりに見る街並みを眺めていた。
一週間も経っていないのに、いやに懐かしく感じる。
「セリカ、今日は靴やバッグ、髪飾り等を揃えようと思ってるんですけど、何か他に買いたいものがありますか?」
水色の外出着を爽やかに着こなしているマリアンヌは、今日も美しい。
クリストフ様は本当に奥様に恵まれた人だな。
― そうね。
マリアンヌさんはしっかりしてて綺麗だし、
ペネロピは優しくて話しやすいし。
「できたらうちの、トレントの店の近くにある手芸用品店に寄りたいんですが。バノック先生がリボン刺繍用の針を欲しがっていらして。そこに行けばあるんです」
「まぁ、それは私も欲しいわ。お義母さまやペネロピにも買っていきましょうよ」
午後の女性だけでのお茶会があった時に、バノック先生がセリカの刺した刺繍の話を持ち出したので、それからはダレニアン伯爵家の女性陣もリボン刺繍に興味津々だ。
リボン刺繍用の針は、セリカがハリーの家の金物店に頼んで特別に作ってもらったものだ。
近所のスミス手芸店にも置いてもらっているのだが、たぶんまだいくつか売れ残りがあると思う。
平民の間では、リボン刺繍に関して貴族の女性ほどの食いつきはなかった。
たぶん針もリボンも特別誂えになるので、ちょっとお高くなるからだろう。
◇◇◇
オマリー服飾店では、オーダーメイドしたドレスの色に合わせて、パーティー用のバッグや靴、それに髪飾りなどを買い、スミス手芸店に着いたのが9刻の頃だった。
トレントの店の前を通り過ぎた時に、カールが営業中の印になる店の旗を持って出てきたのがチラリと見えた。
懐かしさに胸がギュッと締め付けられる。
本当はセリカも今時分はエプロンをかけて、母さんの「頑張りましょう」の声に「おうっ」と応えている頃だ。
なんだか家が遠くなっちゃったな。
― でもカールが元気そうで良かったじゃない?
そうだね。
ベッツィーと上手くやってたらいいけど……
「お昼ご飯をトレントの店で食べましょうか? あそこは美味しいとクリスに聞いてるの。どう思う、セリカ?」
セリカが馬車の窓から、遠ざかっていく店を見ていると、マリアンヌがいたずらっ子のようにキラキラと目を輝かせながら、そんな相談を持ち掛けてきた。
「……マリアンヌさん」
「ご両親に元気でやっていると言って、顔を見せてあげたら? たぶん心配してらっしゃると思うわ」
ありがたい。
自分がいなくなって店がどうなっているのか、ずっと気になっていたのだ。
スミス手芸店に入ると、おばさんがびっくりしてカウンターの中から出てきた。
「まぁ驚いた。セリカじゃないの! あんた、嫁に行ったって聞いたけど、まだこっちにいるんだね」
「ええ、結婚式まではダレニアン伯爵家にお世話になってるの。こちらは伯爵様の息子さんの奥様で、マリアンヌ様」
「あ、失礼しました。いらっしゃいませ」
「こんにちは。こちらにリボン刺繍用の針があるとセリカさんに聞いたんですが」
「はい、ございます。町長さんのとこの奥さんや商工会議所の会頭のお嬢さんにも贔屓にしていただいてるんですよ」
スミスさんはそんな自慢をしながら、リボンの幅に合わせた針を何本か出してきた。
「あら、この見本の刺繍も素敵ね」
「それはセリカが作ってくれたんです。この子は小さい頃から変わったアイデアを持ってる子でね。侯爵様に見初められるのも無理はないですよ。あれは8歳の頃だったかしら……」
「おばさん!」
何を言い出されるのかわかったものではないので、セリカはスミスさんの長話を遮った。
マリアンヌは楽しそうにそんなセリカたちのやり取りを見ていたが、お昼ご飯の時間のことも考えなければならないので、話の続きを聞くのは諦めたようだ。
勧められていた何本もの針や、リボンテープやレースなどを、そのまま大量に買い込んでいた。
こんなにまとめて売れることもそうそうないので、スミスさんがそちらに気をそらしてくれたので助かった。
このおばさんにはセリカの小さい頃からの失敗を全部知られている。
時間に余裕がある時に、この店に知り合いを連れてきたらダメだな。
◇◇◇
トレントの店に入ると、店中の人たちが食べている手を止めて、一斉にこちらを見ていた。
庶民の飯屋に貴族のような服装をした人間が三人も入って来たのだ。
珍しがられても不思議はない。
母さんがセリカを見つけて嬉しそうに走り寄って来たのだが、その時、セリカの隣に立っていたマリアンヌが、口に手を当てたままフラフラとよろめいて頽れていった。
後ろにいた侍女のロイスが、すぐにマリアンヌを支えるために飛んできた。
「奥様?!」
「マリアンヌさんっ」
「ごめ……なさい。なにか急に眩暈と吐き気が……」
マリアンヌの顔はすっかり血の気がなくなっていて、紙のように白くなっている。
「セリカ、奥の部屋へ座布団を敷いて! 貧血が起きたんだよ」
母さんの指示を受けて、セリカは勝手知ったる店の奥に急いで入っていった。
ベッツィーがポカンと立っている横をすり抜けて、宴会部屋にたどり着くと、すぐさま座布団を敷いていく。
すぐに母さんが、侍女のロイスと一緒にマリアンヌを抱えて、連れてきてくれた。
マリアンヌは、いつかの侯爵のように並べた座布団の上にぐったりと倒れ込んだ。
「水を持ってくるからね。あんたはちゃんと奥様の様子を見てるんだよ」
セリカは頷いて、裏の洗面所から持って来た洗面器を側に用意して、マリアンヌの顔色をうかがっていた。
ロイスも座布団を枕のように折って、マリアンヌの頭の下にさし入れている。
「ごめんなさい。こんなことになっちゃって……」
「いいんですよ。馬車の中じゃなくてよかったです。眩暈が収まるまでゆっくり寝ててください。体調が悪い時に、私の買い物に付き合ってもらって、本当にすみません」
「ううん、まだ大丈夫だと思ってた私が悪いのよ」
「え?」
「たぶん、いえこんなことになったのだったら確実だわね。赤ちゃんが……出来たのではないかと思うんです」
セリカはびっくりして目を見開いた。
「赤ちゃん? まぁ、馬車なんかに乗ったらダメじゃないですかっ。振動は妊娠初期にはよくないんですよ」
「そうなの? ティムの時には乗馬もしてたんだけど」
……マリアンヌさんって、見かけよりは逞しいのかも。
その後、少し落ち着いたマリアンヌと一緒に軽い食事だけをとって、セリカたちは伯爵邸に帰って来た。
母さんたちと落ち着いて話は出来なかったが、お互いに元気な顔を見ることができて安心した。
ベッツィーもカールと上手くやっているようで、夕方には今も二人で散歩に行っているようだ。
伯爵邸に帰ってくると、侍女のロイスがお医者様を手配してくるというので、セリカはマリアンヌを支えて、一緒に三階の部屋まで上がって行った。
マリアンヌがベッドに横になったかどうかと言う時に、居間の南向きの窓が叩かれたので、セリカはびっくりした。
クリストフ様……
ロイスに聞いたのだろう。
階段を使わずに一階の書斎の窓を出て、魔法で飛び上がってきたようだ。
― 飛び上がるほど嬉しいというのは、こういう時に使うのね。
奏子の言葉に笑ってしまった。
セリカが窓の鍵を開けると、外でジリジリして待っていたクリストフが飛び込んできた。
「ありがとう、セリカ。子どもができたんだって?!」
「奥様に直接聞いてくださいな。私は失礼しますから」
寝室に駆け込むクリストフの姿を見ながら、セリカは羨ましい気持ちを抑えられなかった。
この夫婦のようにお互いを大事に思い合っている関係と、自分と侯爵のようなドライな政治バランスを考えた上での関係。
比較すると、なんだか寂しくなる。
結婚にはもう少し夢が欲しいよね。
― そうね。
レイチェルの言ってた、ペガサスに乗った王子様までは望まないけどね。
奏子も26歳になってたのに結婚してなかったんでしょ?
― 前世も今生もロマンスには縁がないのかも。
セリカと奏子は二人揃ってため息をついたのだった。




