余命千日の樵(きこり)は、華奢な娘に山のすべてを叩き込む~ゾンビ溢れる世界で「生き残る数学」と消音銃を託された少女が、父の最後の薬が尽きる日に84キロの死地から帰還するまで~
【第一章:ゼロ日目 ――鉄と塩と、千粒の錠剤】
玄関の鍵が回るよりも先に、熱い鉄と血の匂いが俺の眠りを覚ました。
朝の五時二十分だった。
台所の窓の外では、谷間を包む秋の朝霧がまだ薄暗く淀んでおり、遠くの国道を市民病院へ向かって疾走する救急車の赤い回転灯だけが、その灰色を切り裂いていた。
俺はすでに木製のテーブルにつき、ブラックコーヒーの入ったマグカップを前に置いていた。小皿の脇には、銀色の薬のシート(PTP包装)が置いてある。
杉のヤニとチェーンソーのオイルでひび割れた親指の腹で、俺はそこから白い錠剤を一粒押し出し、水と一緒に喉へ流し込んだ。
四十六歳。北の山脈の斜面で木を伐り続けて二十五年になるが、二年前から俺の心臓の左心室は機嫌を損ねていた。
担当の循環器科医の言葉は明快だった。
『いいか健司さん、毎朝同じ時間にこのβ遮断薬を一粒飲みなさい。そうすれば八十歳まで生きられる。だが、標高の高い山で重労働をしながらこいつを一週間でも切らせば、あんたの心臓は焼き付いたエンジンみたいに森の中で止まるぞ』
その時、玄関のドアノブが、ガチャン、と重く鈍い音を立てて下がった。
夜勤明けに救急病棟から帰ってくる妻・遥の、いつもの軽い足音ではなかった。
「……遥か?」
俺は椅子から立ち上がり、廊下へ声をかけた。
ドアが半分だけ開いた。
そこには、水色の看護師のスクラブ(白衣)の左肩を大きく引き裂かれ、どす黒い液体で布地が肌に張り付くほど濡れた遥が、ドア枠に寄りかかるようにして立っていた。
顔色は石膏のように真っ白で、唇は紫色に変色し、ガタガタと激しく震える指先から家の鍵束が滑り落ちて廊下のフローリングに乾いた音を立てた。
「けん、じ……」
遥はかすれた声で呟き、そのまま膝から崩れ落ちた。
「鍵を……玄関の鍵を閉めて。誰にも開けちゃだめ……。結衣を連れて、今すぐ山の小屋へ逃げて……!」
俺は駆け寄り、彼女の頭が床に打ちつけられる前にその体を抱きとめた。
熱い。服の上からでも分かるほど、彼女の体は異常な熱を発していた。空気弁を開けっ放しにした薪ストーブの鋳鉄のように、摂氏四十一度を超える熱が俺の腕を焼いた。
引き裂かれた左袖の布をめくった瞬間、俺の喉の奥で息が止まった。
左の前腕の真ん中あたりが、ごっそりと抉り取られていたのだ。
刃物や鉄板で切ったような綺麗な傷ではない。白い腱が剥き出しになるほど深く食い込んだ「人間の歯型」であり、その周囲からは腐った木の根のような黒い血管が、すでに首筋へと向かって不気味に這い上がっていた。
「どうしたんだこれは!? 誰にやられた!?」
俺は遥を胸に抱きかかえたまま台所へと引きずり込み、編み上げブーツのかかとで玄関のデッドボルト(かんぬき)を蹴り込んで施錠した。
「今すぐピックアップトラックの鍵を取る! 外科へ連れて行くからしっかりしろ――」
「病院は、もうないのよ、健司っ!」
遥は激しく咳き込み、床のリノリウムにどす黒い血の塊を吐き出した。
氷のように冷たい彼女の指が、俺のフランネルシャツの襟首を鷲掴みにした。結婚して二十年、彼女の瞳にこんな絶望の色を見たことは一度もなかった。
「昨夜……バイパス道路から、噛み傷のある患者が十二人も運ばれてきたの。みんな手術台の上で死んだわ……。でも、死んでから三分後に、全員が起き上がったのよ。あいつら、痛みを感じない。胸を撃たれても止まらないの……! 私があなたと結衣のところへ逃げようとしたら、廊下で、死んだはずの当直医に掴まって……」
遥の瞳孔がみるみるうちに開き、俺が人生の半分をかけて愛し抜いた茶色い瞳を黒く塗りつぶしていく。
呼吸が浅く、金属を擦るような乾いた喘鳴へと変わり、彼女の胸郭が激しく痙攣した。
「結衣は……七時に学校へ行くわ……」
遥の瞳に白濁した膜がかかり、俺の襟を掴んでいた手から力が抜けて滑り落ちた。
「約束して、健司……。私が、あの子の体に触れる前に……必ず、あなたの手で止めて……」
「遥? おい、俺を見ろ、遥! 遥っ!!」
俺の手のひらの下で、彼女の心臓が完全に鼓動を止めた。
息をしていない。
台所には嘘のような静けさが落ち、冷蔵庫の上の掛け時計の秒針の音と、遠くの大通りの交差点で起きた車の衝突音、そして人間が出すものとは思えない異様な悲鳴だけが微かに響いていた。
俺は動かなくなった妻の体を抱きしめたまま、床の上で百二十秒間、膝をついていた。
熱い涙が無精髭を伝って落ちたが、俺の脳――ワイヤーが切れて三トンの丸太が倒れてくる方向をコンマ一秒で計算し続けてきた現場監督としての脳――は、妻が遺した最後の言葉を冷徹に反芻していた。
『死んでから三分後に、全員が起き上がったのよ』
俺は遥の頭をそっと床に下ろした。
鉛のように重い足を引きずって立ち上がり、勝手口の横にある道具掛けへと三歩後ずさった。ガレージで研ぐために持ち帰っていた仕事道具がそこに並んでいる。
俺の右手は、長さ七十センチのトネリコの木の柄を握りしめた。重さ二・五キロの鍛造鋼で作られた『薪割り斧』。片側は鋭い刃になっており、反対側の峰は楔を叩き込むための平らなハンマーになっている。
きっかり三分後だった。
床の上で、遥の指先がピクリと引き攣った。
背骨が軋む乾いた音を立てて、妻が四つん這いになって起き上がった。
こちらへ顔を向けた時、そこに遥はもういなかった。白目の部分は黒い血管で埋め尽くされ、顎が関節の限界を超えてグキリと湿った音を立てて見開かれると、獣のような唸り声を上げて俺の喉元へ真っ直ぐに飛びかかってきた。ぬかるみにブーツを踏みしめることに慣れていない人間なら、一瞬で押し倒されていただろう盲目的な暴力の塊だった。
俺は奥歯が砕けるほど歯を食いしばった。
斧の「刃」は使わなかった。妻の顔を切り裂くことなど、俺にできるはずがなかった。
俺は手首を返し、凍りついた樫の木の芯に鉄の楔を打ち込む時と同じように、両肩のすべての体重を乗せて、斧の平らな『峰(ハンマー部分)』を真上から垂直に振り下ろした。
鈍い衝撃が、俺の両腕の骨の芯まで響き渡った。
遥の体が俺の足元に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
俺は激しく波打つ胸を押さえながら、妻の亡骸を見下ろして立ち尽くした。朝の薬が効き始める前の心臓が、肋骨の内側で危険な早鐘を打っている。
俺は居間のソファからウールの毛布を取り、遥の体の上に丁寧に掛けると、彼女の左手の薬指から抜いた結婚指輪を自分のポケットへしまい込んだ。
泣いている暇は一秒もなかった。
時計の針は朝の六時十分を指している。娘の結衣は、県立高校のバレーボール部の朝練に出るため、五時四十五分にはすでに家を出ていたのだ。
俺はきっかり八分間で、廊下の頑丈なロッカーから仕事道具をすべて引っ張り出し、四輪駆動の古いディーゼル・ピックアップトラックの荷台へと放り込んだ。
プロ用の大型チェーンソーが二台、手挽きの剪定ノコギリが三本、鋼鉄の楔、谷底に落ちた丸太を引き上げるための四十メートルのワイヤー付き手動ウインチ(チルホール)、刃物研ぎ用の水砥石、そして結衣の冬用の防寒着一式だ。
ローギアに入れて自宅の私道から飛び出した時、街はすでに死に始めていた。
人間という生き物は、最初の交差点の信号機が消えるまで、文明というものがどれほど脆いかを理解できない。
高校へと続く並木道では、三台の乗用車が電柱に突っ込んで絡み合っていた。パジャマ姿の女性が裸足でアスファルトの上を悲鳴を上げながら走り、その後ろを、シャツを引き裂かれて顎を血で黒く染めた二人の男が、折れた足を引きずりながらも異様な速さで追いかけていた。
六時三十五分。俺は路線バスが横向きに立ち往生している歩道に片輪を乗り上げながら、高校の正門前へと滑り込んだ。
校庭はパニックの渦だった。何十人もの生徒が金網フェンスに張り付いて泣き叫び、体育館の脇では倒れた用務員の男性が二人の人間に食い千切られていた。
駐輪場のすぐ近くに、俺はすぐに娘の姿を見つけた。
結衣。十七歳。身長百五十八センチ、体重は四十五キロあるかないかの華奢な体で、スポーツバッグを胸に抱きしめ、セーラー服姿のまま恐怖で金縛りにあっていた。長い黒髪が、青ざめた彼女の顔の半分を隠している。
俺は右手に薪割り斧を握りしめたまま、トラックのドアを蹴り開けて飛び降りた。
スーツ姿の教師だった感染者が、口を大きく開けて俺に飛びかかってきた。俺は歩調すら緩めず、前足を軸にして体を回転させると、斧の平らな峰をそいつのこめかみへ真横から叩き込み、自転車の列へと吹き飛ばした。
「結衣! トラックに乗れ! 今すぐだ!!」
俺は娘の細い腕を掴み、ほとんど片手で持ち上げるようにして助手席へと押し込んだ。
「お父さん! お父さん、佐藤先生が用務員のおじさんを噛んで、私……なにが起きてるのか分からなくて! お母さんは!? お母さんはどこなの!?」
遥の血がこびりついた手でシートベルトを締めてやると、結衣は木の葉のように震えながら泣きじゃくった。
「母さんは、もういない」
俺は娘の顔を見ずにそう告げると、バックギアに入れて後ろの小型車をバンパーで弾き飛ばし、山へと続く県道へ向かって強引に血路を開いた。
「いいか結衣、この瞬間から、世界には俺とお前の二人きりだ。生きたければ、口答えせずに俺の言う通りに動け。分かったな?」
結衣はハンドルを握る俺の血まみれの拳を見つめ、それから俺の足元のマットに置かれた薪割り斧に目を落とし、悲鳴を押し殺すように両手で口元を覆って涙ながらに頷いた。
俺は首都へと向かう高速道路には乗らなかった。あそこはすでに一万台の車が数珠つなぎになった、屋根のない巨大な屠殺場と化しているはずだ。
俺は進路を真北にとり、標高千四百メートルの黒岳へと続く古い林道を目指した。そこには、俺たち樵の森林組合が冬場の作業拠点として使っていた、石と杉の丸太で組まれた頑丈な山小屋がある。
だが、物資のない山小屋など避難所ではない。ただの「氷点下の棺桶」だ。
七時十分。俺たちは山の麓にある最後の集落の分岐点に辿り着いた。
道の右側には大型のチェーン系スーパーマーケットがあったが、駐車場は割れたガラスと怒号の地獄だった。人々が殴り合いながら、食パンや生肉のパック、牛乳、そしてビールの瓶を満載したショッピングカートを奪い合っている。
俺はバックミラー越しにその光景を一瞥し、冷たい吐き気を覚えた。
食パンは五日でカビが生え、生肉は電気が止まれば四十八時間で腐り、アルコールは体内の水分を奪うだけだ。あいつらはすでに死んでいるも同然だった。
俺はハンドルを左へ切り、小さな田舎薬局のすぐ隣にある『農協資材センター兼プロ用金物店』の砂利の広場へとトラックを乗り入れた。
そこにはほとんど人影がなかった。高齢の店主がバンに妻を乗せて街の方へ逃げるところで、巨大な倉庫のシャッターは全開のまま放置されていた。
「絶対にトラックから降りるな。内側からロックをかけておけ」
エンジンをかけたまま結衣にそう命じ、俺は倉庫の中へと飛び込んだ。
これから三年間、雪で完全に孤立する現場を設営するつもりで頭を回転させた。
俺が最初に手に取ったのは、食料ではなく「手道具」だった。
山を知らない人間は、チェーンソーや発電機があれば何年でも暮らせると思い込んでいる。だがプロの樵なら誰でも知っている科学的事実がある――『現代のガソリンには賞味期限がある』のだ。
半年から八ヶ月もすれば揮発成分が抜け、残った燃料は酸化して酸性のガム質に変わり、キャブレターを詰まらせてゴムの膜を腐食させる。一年も経たないうちに、世界中のエンジンというエンジンは二度と火が入らなくなるのだ。人類は間もなく「鉄器時代」へと逆戻りする。
俺はハンドリフト(手動フォークリフト)を引き寄せ、長さ一メートルを超える『二人挽きの大ノコギリ』を二丁、高炭素鋼の替え刃を八枚、ノコギリの目立て(刃研ぎ)をするための『平ヤスリと丸ヤスリ』を二十本入りで一箱、八ミリ径の鋼鉄ワイヤーを五十メートル、荷物の重さを何分の一にも軽減するための鋳鉄製の『二車滑車』を四個、女でも振れる柄の長い軽量鉈を三本、そして建築用の太い釘を二箱積み上げた。
続いて奥の農業資材コーナーへと走り、トラックの板バネが軋んで沈み込むまで荷台に食料を積み込んだ。
選んだのは、一袋三十キロの真空パックになった『玄米(未精白の米)』を十二袋――合計三百六十キロだ。
精米された白米は空気に触れると数ヶ月で酸化して劣化するが、糠の膜に守られた玄米は、標高千四百メートルの冷暗所に置けば何年でも食べられる。それどころか、春になって土に播けば「種籾」として発芽し、新しい米を実らせる生きた種なのだ。
玄米の袋の上に、俺は一袋二十五キロの『業務用・天然粗塩』を四袋(計百キロ)放り投げた。電気のない山において、鹿や猪の肉を腐らせずに保存できる唯一の冷蔵庫は「塩」だけだ。
さらに食用油の一斗缶を二十缶、乾燥豆、永久に腐らない純粋蜂蜜を二十キロ、サバとコンビーフの缶詰を四ケース、そして種芋用のジャガイモを十袋積み上げた。
残るは、あと一箇所だけだ。
俺は隣の小さな田舎薬局へと走った。
ガラス窓はすでに何者かに叩き割られており、レジの現金や市販の鎮痛剤が奪われ、棚が床にひっくり返っていた。
俺はカウンターを飛び越え、泥棒たちが目もくれなかった奥の調剤倉庫へと踏み込んだ。
空のボストンバッグを二つ掴み、山の中で「ただのかすり傷」と「敗血症による死」を分けるすべての医療品を根こそぎ詰め込んだ。広域抗生物質の箱すべて、クロルヘキシジンとヨウ素の消毒液を一リットルボトルで数本、曲がり針付きの外科用縫合糸、滅菌ガーゼ、消炎鎮痛剤、そして飲料水用の塩素系浄水タブレット。
そして俺は、一番左下の金属製の引き出し――村の慢性疾患の患者たちのために、老薬剤師がいつも俺の分の在庫も確保してくれていた「処方薬」の引き出しを開けた。
俺の節くれだった指が、奥に入っていた青と白の箱をすべて掻き出した。
喉の奥で鳴る心臓の音を聞きながら、素早く箱の数を数える。
一箱三十三錠入りが、きっかり『三十箱』。それに俺のポケットに入っているシートを合わせれば――。
『千錠』。
一日一粒。千日分。つまり、あと「三年足らず」だ。
俺は薄暗い薬局の倉庫の中で五秒間だけ立ち尽くし、両手に抱えたその青い箱を見つめた。
もう二度と、医薬品卸のトラックがこの村に来ることはない。病院も、製薬工場も動かない。
俺が今手にしているこの三十箱は、薬ではなかった。俺という人間の命の「砂時計」そのものだった。
俺の心臓が止まるまで、あと千回の夜明け。
それが、俺のトラックの助手席で泣いているか弱い十七歳の少女を、この過酷な山でたった一人で生き抜ける強い女へと鍛え上げるために神様がくれた、すべての持ち時間だった。
俺は三十箱の薬を自分の個人用リュックの底――チェーンソーの予備パーツの下の、結衣が絶対に触らない場所――へと深く隠し、向かいのスーパーの駐車場から最初の感染者が三人よろめき出てくるのと同時にトラックへと飛び乗った。
「しっかり掴まっていろ、結衣!」
アクセルを床まで踏み抜いた。
七百キロを超える過積載の荷物を背負ってディーゼルエンジンが咆哮を上げ、俺たちは燃え上がる街の黒い煙をバックミラーに残して、黒岳の険しい未舗装の林道へと駆け上がった。
山小屋まで残り三キロの地点。
古い林道が、切り立った岩壁と深さ百メートルの断崖絶壁に挟まれた狭い「渓谷の首」を通る場所で、俺はトラックを止めた。
一番大型のチェーンソーを持って荷台から降り、斜面の縁にそびえ立つ樹齢百年の巨大な杉の木――高さ三十メートルの大木二本の根元に、寸分の狂いもない角度で『受け口』と『追い口』の切り込みを入れた。
山全体を震わせるような轟音とともに、二本の緑の巨人が道路を塞ぐように真横へと倒れ込み、太い幹と枝が岩壁の間にガッチリと噛み合って、絶対不落のバリケードを築き上げた。
これで、どんな四輪駆動車に乗った略奪者も、谷から上がってくる感染者の群れも、道を通ってここまで登ってくることは二度とできない。
二十分後、俺は開けた伐採地の奥にある山小屋の頑丈な木のポーチの前で、エンジンを切った。
標高千四百メートルの空気は鼻の奥を刺すように冷たく、澄み切っており、世界の終わりなどどこ吹く風といった様子で静まり返っていた。
結衣は夏物の薄いセーラー服の肩を震わせながらトラックから降り立ち、四方を囲む果てしない原生林の静寂を、見開かれた瞳で見回した。
「お父さん……」
電線すら繋がっていない暗い丸太小屋を見上げて、結衣が消え入りそうな声で呟いた。
「私たち……ここで、何日くらい隠れていればいいの?」
俺は荷台のアオリ(後部扉)を閉め、最初の三十キロの玄米の袋を肩に担ぎ上げると、娘の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「救助を待って数日隠れるためにここへ来たんじゃないぞ、結衣。助けなんて永遠に来ない。今日からこの山が俺たちの世界のすべてだ。十一月の雪が降る前にこの山で生きる術を身につけなければ、下にいる化け物どもに食われるよりずっと早く、『冬』が俺たちを殺しに来る。さあ中へ入れ。その制服を脱いで予備の編み上げブーツを履くんだ。――冬までに、十二トンの薪を割らなきゃならねえからな」
(第一章・了)
◇
【第二章:疲労の数学と、切り落とした黒髪】
都会の人間は、山小屋での暮らしといえば暖炉の火と心地よい静寂に満ちたロマンチックなものだと思い込んでいる。
だが山で働く人間は知っている。電気も灯油もない山という場所は、二十四時間絶え間なく低体温症と飢え、そして感染症で人間を殺そうとしてくる冷酷な処刑装置だ。
最初の夜、粗削りな木のテーブルの上に置いたオイルランプの明かりの下で、俺は結衣に気休めの励ましなどは一切言わなかった。
黒い表紙の分厚い方眼ノートを開き、大工用の太い鉛筆を握ると、「生き残るとは勇気の問題ではなく、純粋な数学だ」ということを娘の目の前に突きつけた。
「いいか結衣、よく聞け」
俺は鉛筆の先で、ノートに書き並べた数字をコツコツと叩いた。
「今は九月の半ばだ。標高千四百メートルのこの山では、十月の終わりには最初の雪が降り、四月まで溶けない。マイナス十五度になる氷点下の日が『百五十日間』続く。眠っている間に凍死せず、水を沸かし、米を炊き、肉の燻製を作るためには、この鋳鉄製の薪ストーブで一日に八十キロの薪を燃やさなきゃならない。百五十日かける八十キロ――つまり『十二トンの乾燥した薪』だ。そいつをこれからの四十五日間で、俺たち二人の手で伐り倒し、楔で割り、屋根の下に積み上げなきゃならない」
俺の古いウールのセーターを膝まで届くほどダボダボに着込んだ結衣は、泣き腫らして赤くなった目でノートの上の数字を見つめていた。
「十二……トン?」と結衣がかすれた声で呟いた。「でもお父さん、トラックの荷台にチェーンソーが二台あるじゃない……」
「あの二台のチェーンソーは、今週中に太い幹を伐り倒すためだけに使う。それが終わったら燃料タンクを空にしてエンジンは封印する」
俺はぴしゃりと言った。
「半年後にはガソリンが腐って酢みたいになる。今エンジンの楽さに慣れたら、来年の冬、お前の腕は手挽きのノコギリを引くことができずに凍え死ぬことになるんだ。……それから二列目の数字を見ろ。食料だ」
俺はテーブルの上に、真鍮の皿がついた古い機械式の天秤ばかりを置いた。
「俺たちには三百六十キロの玄米と、百キロの粗塩がある。明日の朝からは、毎食すべての食材をこの秤で『一グラム単位』まで正確に量る。一粒たりとも捨てない、一切の無駄も許さない。そして沢の水は絶対に生のまま飲むな。この標高であっても、もし上流で感染した獣や死体が水に落ちれば、一滴飲んだだけで赤痢や激しい下痢になる。点滴も病院もない世界で下痢になれば、三日で脱水症状を起こして確実に死ぬ。俺たちが飲む水はすべて、明日砂利と細砂、そして木炭で作る『濾過タンク』を通し、さらに十分間沸騰させてから使う」
娘の肉体的な地獄は、二日目の夜明けとともに始まった。
世界が崩壊する前、結衣が持ち上げたことがある一番重いものといえば、バレーボールか教科書の入った通学カバンくらいだった。体重四十五キロ、柳の枝のように細い手首に、白くて柔らかい手のひら。
俺はその娘を、伐り倒したブナの巨木の前に立たせ、長さ一メートル二十センチの『二人挽きの大ノコギリ』の片方の柄を握らせた。
「絶対に刃を押すなよ、結衣! 押せば鋼がたわんで木に噛み込んで動かなくなる! 二人挽きノコギリは『引く時』にしか切れないんだ。俺が引く時はお前は力を抜いて添えるだけ、お前が引く時は腕の力じゃなく、背中と足の体重を使って真っ直ぐ引け! いち、にの! いち、にの!」
二時間のノコギリ挽きと、天秤棒の両端に十リットル入りの水バケツを二つ吊るして沢から急斜面を四往復したあと、結衣は霜の降りた草の上に膝から崩れ落ちた。
彼女がノコギリの柄から手を離した時、木の持ち手が赤く染まっていた。
結衣は震える手で自分の両手のひらを見つめた。
最初の数十分で膨れ上がった水ぶくれがすべて破れ、親指の付け根から指の下まで、真っ赤な生肉が剥き出しになって血が滲んでいたのだ。
「もう無理よ、お父さん……!」
結衣は体を二つに折り、作業ズボンの膝にボロボロと涙をこぼしながら泣きじゃくった。
「手が焼けるみたいに痛くて、もう指が閉じないの……! 私、お父さんみたいに強くない、力なんてないよ! こんな山の上じゃ、どうせ私なんか死んじゃうよ……!」
心臓の持病とは違う鋭い痛みが、俺の胸の奥を抉った。
本当なら今すぐ抱きしめてやりたかった。小屋の中へ連れて行って毛布にくるみ、すべての作業を俺一人で代わってやりたかった。
だが、俺のリュックの底には「残り九百九十八粒」の錠剤しかない。今日この子を甘やかせば、三年後にこの子を殺すことになるのだ。
俺は結衣を助け起こさなかった。
ブリキの洗面器を持ってくると、ストーブで温めたぬるま湯を二リットル注ぎ、そこに天然の粗塩を三掴み放り込んで溶かした。
「この中に両手を入れろ」
俺は結衣の前に片膝をつき、静かに命じた。
結衣が皮の剥けた手のひらを塩水に浸した瞬間、「ひっ……! ああああっ!」と耳を劈くような悲鳴を上げ、腕を引き抜こうとした。
俺は木の皮のように硬い自分の両手で娘の細い手首をガッシリと押さえつけ、結衣が俺の肩に額を押し付けて泣き叫ぶ中、きっかり三十秒間、その手を塩水の底に沈め続けた。
「塩が生傷を消毒し、皮膚の水分を抜いて硬くしてくれる」
俺は娘の手首を握りしめたまま、かすれた声で言った。
「一週間もすれば、その柔らかい皮は革みたいに硬くなる。一ヶ月経てば、どんなロープを握ろうが斧の柄を振ろうが、二度と血は出なくなる。今夜は好きなだけ泣け。だが明日の朝六時には、また続きをやるぞ」
五日目。俺が古い狩猟用のクロスボウで空き地に現れた雄鹿を仕留め、内臓を傷つけずに腹を割くためにまだ温かい鹿の後ろ足を結衣に押さえさせた時、彼女は胃の中の玄米をすべて吐き戻した。
それでも俺は手を止めさせなかった。脂を集めて石鹸とブーツの防水油を作る方法、筋繊維に沿って肉を切り分ける方法、粗塩と杜松の実を交互に重ねて七日間塩漬けにし、ブナの煙でじっくり燻製にして冬を越す保存食に変える方法を、その手に徹底的に叩き込んだ。
二ヶ月目には、結衣はもう吐かなくなった。
そして三ヶ月目――初雪が降る前日、山が牙を剥いた。
俺たちは沢の源流から六十メートル下流に掘った汚水槽の点検と、風で落ちたカラマツの枯れ枝を集めるために、山小屋から三百メートルほど下った枯れ沢の岩場を歩いていた。
結衣は腰に鉈を下げ、背中に枯れ枝の束を背負って、俺の五メートル前を歩いていた。彼女の長い黒髪は、まだ後ろで一つに束ねられ、肩甲骨の間で揺れていた。
ほんの一瞬の出来事だった。
腐葉土と霜に覆われた大岩の陰――おそらく俺たちの薪ストーブの煙の匂いを辿り、何日もかけて沢を這い上がってきたのだろう――そこから、二体の感染者が音もなく飛び出してきた。
数週間前に死んだ登山者だった。ダウンジャケットは引き裂かれ、岩を掻きむしり続けた指先は黒い骨が剥き出しになり、肺が腐っているのか唸り声すら上げず、完全な無音で襲いかかってきたのだ。
「結衣、伏せろ!!」
俺は背負っていた薪の束を投げ捨てて叫んだ。
結衣は咄嗟に振り返ったが、凍りついた岩の苔にブーツの底が滑り、横向きに転倒した。
二体のうちの一体が両腕を伸ばして飛びかかり、その骨と皮だけの指が、まるで猛禽類の鉤爪のように結衣の『長い黒髪の束』をガッシと鷲掴みにした。
乱暴に髪を引っ張り上げられ、結衣の白い喉元が仰け反るように剥き出しになった。化け物の黒ずんだ顎が、娘の頸動脈からわずか十センチの距離で大きく見開かれる。
結衣は必死に拳でそいつの顔を殴りつけようとしたが、四十五キロの彼女の腕力では、髪を掴んでのしかかる死体の重みを一ミリたりとも押し返すことができなかった。
俺は雪崩のように飛び込んだ。
左足の蹴りで二体目の感染者を沢の岩場へと蹴り転がし、その勢いのまま、結衣の髪を掴んでいる一体目の脳天へ重い鉈を振り下ろし、頭蓋骨を鼻筋まで真っ二つに叩き割った。
死体は砂利の上に崩れ落ちたが、死後硬直で固まった指が結衣の長い髪に深く絡みついており、俺は刃物で娘の髪を三房切り落としてやらなければならなかった。
岩場に転がった二体目も始末したあと、俺は結衣がパニックを起こして泣き叫ぶだろうと思い、急いで娘の方へ振り返った。
だが、結衣は泣いていなかった。
黒い血で汚れた河原の石の上に座り込み、凍てつく空気の中で白い息を荒く吐きながら、背中に残った自分の長い髪を無言で触っていた。
その夜、山小屋に戻って扉に重い閂を下ろすと、結衣は玄米と塩漬け肉の入った自分の茶碗に指一本触れなかった。
無言でテーブルから立ち上がると、研ぎ澄まされた道具が並ぶ丸太の台へ歩み寄り、俺の皮剥ぎナイフ――カミソリのように研ぎ上げた刃渡り十五センチのスウェーデン鋼のナイフ――を手に取った。
結衣は薪ストーブの開いた扉の前に真っ直ぐ立った。
黄色いマメとタコで硬くなった左手で、うなじの後ろにある自分の長い黒髪の束を強く引っ張り上げる。そして右手のナイフの刃を首筋の肌すれすれに当てると、涙ひとつこぼさず、指先ひとつ震わせることなく、ザク、ザク、ザク、と三回のストロークで四十五センチの黒髪を根元から切り落とした。耳の上までしかない、少年のように短い髪になった。
結衣は左手を広げ、切り落とした黒髪の束をそのまま薪ストーブの炎の中へと投げ込んだ。
髪が炎の中で縮れ、ケラチンが焦げる独特の苦い臭いが小屋の中に立ち込めた。
「……これで、もう掴まれるところはないわ、お父さん」
結衣は振り返りもせず、ストーブの熾火を見つめたまま言った。その黒い瞳は、もはや高校生の少女のものではなかった。
「でも、最初の日に言ったお父さんの言葉が正しかった。あいつが私の上に乗っかった時……私、全力で押し返そうとしたのに、ピクリとも動かなかった。私は四十五キロしかないのよ、お父さん。あと十年ここで薪を割り続けても、お父さんみたいな広い肩にはなれない。もし、いつか私が一人きりになって、あいつらに襲われたら……私はどうやって生き残ればいいの?」
ストーブの炎に照らされた娘のむき出しのうなじを見つめながら、俺は自分の仕事の「前半戦」が終わったことを悟った。あの河原で、泣き虫だった少女は死んだ。今俺の前に立っているのは、生き残ることを選んだ一人のサバイバーだった。
「テーブルへ来い、結衣」
俺は黒い方眼ノートの新しいページを開き、鉛筆で力の三角形と、一本の線で繋がれた二つの滑車の図を描いた。
「体重八十キロの樵は、重さ三トンの樫の大木より力持ちなわけじゃない。もし倒れてくる木を俺が自分の筋肉で受け止めようとすれば、お前と同じように潰されて死ぬ。それでも俺は二十五年間、たった一人で三トンの丸太を動かしてきた。なぜだか分かるか?」
「……テコと、滑車を使うから」と結衣は図面を見つめて答えた。
「そうだ。森の物理法則を使うからだ。明日からは、化け物と殴り合うための訓練はやめる。樵として戦う方法を叩き込むぞ」
それから三ヶ月間、黒岳が一メートル半の白い雪と静寂に閉ざされる中、俺は山小屋の周囲を「体重四十五キロの少女のための殺人エンジニアリング実験場」へと作り変えた。
杉の太い枝に固定した『二車滑車』を通せば重さが四分の一になること、そしてそれを『手動レバーウインチ(チルホール)』に繋げば、結衣の片腕の力――わずか十二キロの負荷でレバーを引くだけで、六百キロの丸太の檻を地上五メートルの高さまで吊り上げられることを教えた。
俺たちは沢と林道から登ってくる唯一の獣道に、この重力トラップを三箇所仕掛けた。雪の中に隠した鋼鉄ワイヤーのピンを一本抜くだけで、半トンの尖った丸太の束が侵入者の頭上に降り注ぐ仕掛けだ。
そして接近戦のために、俺は結衣の手から重い薪割り斧を取り上げ、代わりに『長柄の軽量山鉈』を持たせた。長さ一メートルのトネリコの柄の先に、先端に重みのある湾曲した刃がついた道具だ。軽く振るだけで遠心力が働き、直径五センチの枝を一撃で叩き斬ることができる。
「あいつらと正面から向き合った時、絶対に最初から頭を狙うなよ、結衣!」
凍りついた庭で、ロープに吊るした藁巻きの丸太を相手に俺は何度も怒鳴った。
「人間の頭蓋骨は丸くて硬い! 俺の肩の力がなければ、刃が滑るか骨に挟まって抜ける前に噛み殺される! お前がいるのは山だ。地面は常に傾いている。あいつらを下から斜面へ登らせろ。すねの高さに張った転倒用ワイヤーに引っ掛け、常にここ――『膝の裏』か『アキレス腱』だけを狙って斬り払え! アキレス腱を断たれた人間の体は、たとえ痛みを感じない死体だろうと構造上絶対に立つことはできない。雪の上に這いつくばらせてから、ゆっくりと後頭部に刃を突き立てるんだ!」
六ヶ月目が終わる頃には、結衣は作業手袋をはめた手で九十秒以内に二本の松の間にワイヤーを張り、走りながら足首の太さの枝を一撃で斬り落とし、三十メートル離れた標的の真ん中に滑車式クロスボウの矢を突き刺せるようになっていた。
だが毎晩、疲れ果てた結衣がロフトで眠りについたあと、俺は毛布の下でリュックの底から密かに薬の箱を取り出し、すでに千粒のうち百八十粒が消えてしまったシートを見つめては、唇を噛んでいた。
これだけでは、まだ足りない。
丸太の罠は、道を通って登ってくる奴しか止められない。山鉈は森で一体か二体の迷いゾンビを相手にするためのものだ。そしてクロスボウは、最初の一矢を放ったあと、ウインチで弦を巻き上げるのに二十五秒もの隙ができる。
もし、俺の心臓が止まってこの世から消えたあと、武器を持った生きた人間の略奪者たちが三、四人――あるいは素早い化け物の群れが――真夜中に山小屋の扉を破ってなだれ込んできたら、結衣には丸太を落とす空間も、クロスボウを装填する二十五秒の時間もない。
あの子には、枕の下に隠しておける武器が必要だった。
あの細い手首でも反動に負けず、五秒間に十五発撃ち込める武器。そして何より、半径五キロにいるすべての死者を呼び寄せるような「銃声」を出さない武器が。
そして俺には、標高を十二キロ下った死の街の暗闇の中に、それがどこに眠っているのか正確に心当たりがあった。
(第二章・了)
◇
【第三章:射撃場の夜と、父の静かなる罪】
一年目の四月。俺が予測した通り、世界から最後のエンジン音が消えた。
道具小屋の隅に置いてあった二十リットルの金属製携行缶を開けてみると、注ぎ口から腐ったペンキと酢を混ぜたような、鼻を突く強烈な異臭が立ち上った。ガソリンが完全に分離し、酸化して腐っていたのだ。これで現代文明は、名実ともに終わりを告げた。
その夜、俺は森が完全な闇に包まれるのを待った。
山小屋の外では雪解けの湿った風が吹き、杉の枝から落ちる水滴の音が足音を綺麗に消してくれていた。
五ヶ月間も新鮮な果物を口にしていない結衣が壊血病にならないよう、俺は毎晩ビタミンCが豊富な「松葉茶」を煎じて飲ませていた。その夜、俺は田舎薬局の奥から持ってきた医療バッグの中から第一世代の抗ヒスタミン薬――医師が軽い睡眠導入剤としても処方する薬――を半錠だけ取り出し、スプーンの背ですり潰して結衣のブリキのマグカップに溶かした。
「全部飲めよ。今日は排水溝の掘削で八時間も働いたからな」
俺がカップを前に置くと、結衣は最後の一滴まで飲み干し、短く切り揃えた黒髪の頭を組んだ両腕の上に乗せて大きくあくびをした。
十分後には、ロフトの藁布団の上で、たとえ裏山で土砂崩れが起きても翌朝の六時までは絶対に目を覚まさないほど深い眠りに落ちていた。
俺は厚手の防寒ジャケットの襟を首元まで閉め、空の登山用リュックの中に鋼鉄製のバールとボルトクリッパー、そしてレンズに赤いビニールテープを貼った懐中電灯(白い光と違って、赤い光は遠くの闇を貫かないからだ)を詰め込んだ。腰のベルトには、愛用の薪割り斧と皮剥ぎナイフをしっかりと固定する。
銃のことを知らない人間は、ゾンビ映画やゲームのように、警察署へ忍び込めば簡単にピストルとサイレンサー(消音器)が手に入ると思い込んでいる。
だが、二十五年前に自衛隊の山岳部隊にいた俺は、この地域の警察の装備をよく知っていた。麓の小さな警察署にあるのは、五連発の古い38口径リボルバー(回転式拳銃)だけだ。そしてリボルバーという銃は、回転する弾倉と銃身の間に隙間があり、そこから高圧の発射ガスが横に噴き出す構造になっているため、『物理的にサイレンサーで音を消すことが不可能』なのだ。銃口にどんな筒をねじ込もうと、百四十デシベルの轟音が静まり返った谷間に四キロ先まで響き渡る。
だが、標高を十二キロ下った森の工業団地の外れ――古い石切り場の跡地にめり込むようにして建てられた『黒沢タクティカル射撃場&銃砲工房』は違った。
老店主の黒沢は、かつて警視庁の特殊部隊で銃器整備を担っていた元ガンスミス(銃工)で、引退後にこの山奥で防音設備の整った地下射撃場を開き、競技射撃の選手や県警の選抜部隊の訓練を請け負っていた。
五年前、その地下射撃場の跳弾吸収壁に張るための分厚い樫の木材を納品したのは、他ならぬ俺だった。その時、俺は工房の奥にある鋼鉄の金庫室の中に何が眠っているかを自分の目で見ていた。ネジ切りの銃身を備えた戦術セミオートピストル、近隣に音を漏らさないための軍用サプレッサー、そして『亜音速弾(サブソニック弾)』の弾薬箱だ。
俺は懐中電灯を一度も点けず、鹿の通り道(獣道)を辿って暗闇の中を三時間歩き続けた。
標高を下げるにつれて、黒岳の澄み切った空気は消え、腐った肉と焼けたプラスチックの混ざった、胃がせり上がるような甘ったるい死臭が濃くなっていった。
深夜零時半、俺は工業団地の外縁に辿り着いた。
地方警察署から百メートル離れた茂みを通ったが、予想通りそこは黒焦げに焼け落ちた廃墟と化しており、ひっくり返った二台のパトカーの周りを、十数体の黒い影が濡れたアスファルトの上で円を描くように彷徨っていた。
俺はさらに森の奥へと進み、古い石切り場の岩壁に辿り着いた。
ツタに覆われた鉄筋コンクリートの黒沢射撃場の建物は、外見上は無傷のまま闇に沈んでいた。正面の鉄門には鎖が巻かれていたが、建物の裏手にある資材搬入口の小さな鉄扉――五年前、俺が樫の丸太を運び込んだ扉――が、指二本分ほどわずかに開いていた。
俺は泥の中に片膝をつき、丸々三分間、息を殺して耳を澄ませた。
森の中で長年働いていると、「本当の静寂」と「何かが潜んでいる静寂」の違いが肌で分かるようになる。風の音の下に、かすかな呼吸音が混じっているのだ。
地下室から漏れてくるのは、感染者の湿った喘ぎ声ではなかった。古い葉巻の煙と、銃器用オイルの微かな匂いだった。
俺はベルトから薪割り斧を抜き取り、鋼鉄の頭のすぐ下を短く握りしめると、ゴム底のブーツで砂利を一つも鳴らさずにコンクリートの廊下へと滑り込んだ。
地下の射撃レーンと工房へ続く階段を、音もなく降りていく。
廊下の突き当たりにある分厚い金庫室の扉が半分開いており、その隙間から黄色いランプの光が一筋漏れていた。
工房の入り口の脇には、黒沢老人が愛用していた革の作業エプロンを着たミイラ化した遺体が転がっていた。数ヶ月前に殺されたようだったが、死因は噛み傷ではない。胸の真ん中を散弾銃で撃ち抜かれていたのだ。
そしてそのすぐ奥、ゴミ袋のように隅へ積み上げられていたのは、まだ若い男女二人の遺体だった。
二人とも結束バンドで両手首を背中で縛られ、登山用リュックは中身をすべて床にぶちまけられ、耳から耳まで喉笛を深く掻き切られていた。感染者ではない。避難場所を探してここへ辿り着いた生存者が、ビスケット二箱と腕時計を奪われるためだけに拷問され、惨殺されたのだ。
こめかみに熱い血が昇った。
俺は鋼鉄の扉の枠から、わずか一ミリだけ片目を覗かせた。
金庫室の中、灯油ランタンの前に置かれた軍用の弾薬箱の上に、長い髭を生やした三十代くらいの男が座っていた。奪い取った防弾チョッキを着込み、膝の上には12ゲージのポンプアクション式ショットガンを乗せている。男は殺した少女のリュックから奪った桃の缶詰を、血のついたナイフの切っ先で刺して貪り食っていた。
そしてその男のすぐ背後、ガスバーナーで焼き切られた金庫の金属棚の上に、黒沢銃砲店の黒い強化ポリマー製ガンケースが並んでいた。
俺は戦わずに済ませるため、一歩後ろへ下がり、外側から金庫室の重い扉を閉めて男を閉じ込めようとした。
だが暗闇の中で、俺のブーツのかかとが、コンクリートの床に転がっていた空の真鍮製薬莢にわずかに触れた。
――チリン。
ほんの小さな金属音だったが、防音壁に囲まれた地下室の中では教会堂の鐘のように大きく反響した。
金庫室の中の男が、瞬時に咀嚼を止めた。
缶詰を床に投げ捨て、ガシャッ!と金属音を立ててショットガンの先台を引いて装填すると、ランタンの芯を半分絞って光を落とした。
「……誰だ、そこにいるのは!?」
殺人者の猜疑心に満ちた、しゃがれた声が響いた。
「姿を現せ、でなきゃ蜂の巣にするぞ! リュックにまだ食い物を持ってるんだろう、この野郎!」
階段を駆け上がって逃げる時間はない、と俺はコンマ一秒で判断した。あの狭い直線廊下で背中に12ゲージの散弾を浴びれば、俺の背骨ごと吹き飛ばされる。
そしてもし、俺がこの冷たいコンクリートの床の上で死ねば、明日の朝、結衣は山小屋で一人きりで目を覚ますことになる。俺の薬のことも知らず、俺がどこへ消えたのかも分からず、自分の身を守る武器も持たないまま。
ここで死ぬわけにはいかない。まだ二百四十日目だ。俺にはまだ、七百六十日分の命が残っている。
俺は金庫室の扉の外側、蝶番のある方の真っ暗な影の中にピタリと背中を張り付かせた。
ポケットから鉄のボルトを一つ取り出し、左手で五メートル先の反対側の壁へ向かって放り投げた。
カツン、とボルトが壁に当たった瞬間、男がそちら側へ銃口を向けたまま金庫室から飛び出してきた。俺の目の前に、男の無防備な右脇腹が晒される。
俺は叫ばなかった。森の中で叫ぶ奴は、息を無駄にするだけだ。
暗闇から大股の一歩で踏み込むと同時に、左手で男のショットガンの熱い銃身を鷲掴みにして天井へと跳ね上げた。その瞬間、引き金が引かれた。鼓膜が破れるような轟音が地下室に炸裂し、鉛の散弾が俺たちの頭上の蛍光灯を木っ端微塵に吹き飛ばして、周囲は完全な暗黒に包まれた。
その漆黒の闇の中で、俺は右手の二・五キロの薪割り斧を振り下ろした。
声なき、獰猛で、必死の死闘だった。
男は銃を手放し、腰のナイフを抜いて俺の脇腹に突き立てようとしたが、刃は羊毛の裏地がついた俺の分厚い樵用ジャケットの布地に阻まれ、肋骨の上を浅く切り裂いただけで止まった。
俺は八十五キロの体重すべてを乗せて男をコンクリートの壁へと押し潰し、暗闇の中でそいつの肩の位置を手探りで捉えると、斧の平らな峰を叩き込んだ。一度。二度。
やがて廊下に残ったのは、俺の荒い息遣いと、鼓膜の奥で狂ったように早鐘を打つ俺の病んだ心臓の音だけだった。
俺は暗い床の上に膝から崩れ落ち、斧の柄から手を離すと、冷たいコンクリートの上に身を乗り出して苦い胆汁を吐き出した。
両手が激しく震え、指を閉じることができなかった。
四十六年の人生で、俺は生きた人間に手を上げたことなど一度もなかった。木を伐り、娘を食わせるために鹿を撃ち、人形のように動く死体を止めたことはあったが……今、俺のフランネルシャツの袖を温かく濡らしているのは、間違いなく「生きた人間」の血だった。
(……俺が地獄へ落ちるだけで、あの子が生き残れるなら安いものだ)
俺は歯を食いしばって前腕で口元を拭い、立ち上がった。
金庫室の中へ入り、ランタンの火を最小限に灯して、棚の上の黒いガンケースを開けた。
型抜きされたウレタンフォームの中で、防錆オイルに塗られた『それ』は無傷のまま眠っていた。
軽量ポリマーフレームを採用した『9ミリ口径タクティカル・セミオートピストル』が二丁。十七発入りのロングマガジン、暗闇で緑色に光るトリチウム夜間サイト、そしてその隣には、ネジ切りされた銃身にねじ込むためのチタンと航空機用アルミで作られた艶消し黒の長い円筒――『軍用サプレッサー(消音器)』が二本収められていた。
さらに作業台の下から、俺はそのサプレッサーを本物の「無音の武器」へと変える最大の鍵を見つけた。
NATO規格の緑色の密閉金属缶が四ケース。中身は一箱五百発入りの『9ミリ・147グレイン亜音速弾(サブソニック弾)』だ。
通常の弾丸は音速(秒速約三百四十メートル)を超えるため、いくらサプレッサーをつけても空気を切り裂くソニックブーム(衝撃波)が発生し、数百メートル先まで音が響く。だが弾頭を重くして初速を秒速三百二十メートル以下に抑えたこの亜音速弾を使えば、発射音はスライドが動くカチャッという金属音と、手を軽く叩いた程度の乾いた空気音だけに変わる。しかも反動が通常の半分近くまで抑えられているため、体重四十五キロの結衣の細い手首でも、ブレることなく連続で撃ち込めるはずだった。
俺は登山用リュックの中にピストル二丁のケースと予備マガジン六本、真鍮ブラシの清掃キットとガンオイルを詰め込み、リュックの外側の背負子に四つの弾薬缶すべて――合計二千発、鉛と真鍮の塊で約三十五キロ――をロープで括りつけた。
森へ出る前に、俺は殺されていた若い男女の遺体を倉庫の綺麗なシートの下に寝かせてやり、金庫室の扉を永遠に閉ざした。
背中に三十五キロの鉛を背負い、脇腹に浅いナイフ傷を負った状態での標高千四百メートルへの登り返しは、俺の心臓を文字通り引き裂くような苦行だった。
山道の途中で、俺は二度、腐った雪の上に片膝をついた。暗闇の中で左心室が不規則に痙攣し、左腕に走る激しい痛みが治まるまで、胸を強く押さえて荒い息を吐き続けた。
山小屋に帰り着いたのは、東の空が鉛色の青に白み始めた朝の四時四十分だった。
結衣はまだロフトの上で深く眠っていた。
俺は物音一つ立てずに、昨夜の熾火が残る薪ストーブの扉を開けると、あの男の血がこびりついたフランネルシャツと作業手袋を脱ぎ、炎の中へと投げ込んだ。布地が燃え尽き、灰色の灰に変わるまでじっと見つめる。
娘には、この銃がどんな代償を払って手に入れたものなのか、一生知らせてはならなかった。あの子にとって俺は、ただ「必要な物のありかを知っている頼もしい父親」のままでいなければならなかった。
俺はバケツの氷のように冷たい水で胸と脇腹の傷を洗い、外科用テープを二枚貼って傷口を閉じると、清潔なシャツに袖を通した。
寒さと極限の疲労で指先の感覚が麻痺していたせいで、激しい動悸を鎮めるためにリュックから朝の分の薬を早めに一粒取り出した時――『心不全治療薬の化学名』が小さく印字された空の銀色のシート(PTP包装)がズボンのポケットから滑り落ち、薪ストーブの横にある薪入れの木箱の裏の狭い隙間へと音もなく落ちたことに、俺は気づかなかった。
朝の六時半。
短い髪の下で眠そうな目をこすりながらロフトの木の梯子を降りてきた結衣は、俺がテーブルで白湯を飲んでいるのを見つけ――その粗削りな板の上に、サプレッサーを装着した二丁の黒いピストルと、五百発入りの緑色の弾薬缶が四つ整然と並んでいるのを見て、梯子の途中で凍りついた。
「お父さん……これ、どこで手に入れたの!? 昨日の夜、一人で山を下りたの!?」
「森の外れにある、黒沢射撃場の古い倉庫だよ。誰もいなくて放置されてた」
俺は穏やかな声で嘘をつき、金属缶の上を手のひらで軽く叩いた。
「座って玄米を食え、結衣。今日の朝からは、薪割りが終わったあと、こいつの分解と油差し、そして射撃の訓練を始めるぞ。この缶の中には『音の出ない弾』が二千発入っている。頭を使ってこいつを扱えるようになれば、もう誰も指一本お前に触れることはできない」
結衣はゆっくりとテーブルへ歩み寄り、硬いタコのできた指先でサプレッサーの冷たい金属の表面に触れた。
それからふと、薪ストーブの方へと視線を向けた。
俺がシャツを燃やしたロストル(火格子)の下の灰の中に、炎で黒く煤けた『小さな金属製のボタン』が一つだけ焼け残って光っていた――昨日の夜まで俺が着ていたお気に入りの作業シャツのボタンと、全く同じものだった。
結衣はその灰の中のボタンを三秒間じっと見つめ、続いて、俺がお茶を注ごうと腕を上げた時に脇の下からわずかに覗いた白いガーゼの端に目を留めた。
結衣は、一言も発しなかった。何も問い詰めなかった。
ただ無言でサプレッサー付きのピストルのグリップを両手で強く握りしめ、静かに頷いた。
「全部教えて、お父さん。私、一発も外さないから」
(第三章・了)
◇
【第四章:薪箱の裏の秘密と、残り七日間の反逆】
(※結衣の視点)
お父さんが死に向かっていることを私が知ったのは、山での二年目の冬が始まる十四ヶ月目の十一月、激しい吹雪の日の午後だった。
その日、お父さんは上流の水源の鉄格子に詰まった氷を砕きに、かんじきを履いて外へ出ていた。
私は山小屋に残り、煙突の煤を掃除したあと、ストーブの横にある大きな薪入れの木箱を空にして、底に溜まった湿った樹皮や木屑を掻き出していた。
重い木箱を石壁から十センチほど動かした時、床板の隙間の暗がりに、何かがキラリと光るのが見えた。
私は膝をつき、指先でそれを拾い上げた。
薬莢でもネジでもなかった。三十三個のポケットがすべて一つずつ押し潰された、空っぽの銀色の薬のシート(PTP包装)だった。
オイルランプの明かりにかざし、裏面のアルミ箔に小さく印字された青い文字を読んだ瞬間、私の息が止まった。
『ビソプロロールフマル酸塩錠 ―― 効能・効果:慢性心不全』
私は冷たい床の上に膝をついたまま、タコのできた指先でその小さなアルミのシートを握りしめて凍りついた。
世界が崩壊する前の家では、こんな薬の箱は一度も見たことがなかった。お母さんは看護師だったから、私に心配をかけまいと、お父さんの処方薬のことをずっと黙って管理していたのだ。
窓の外を見た。吹雪は激しく、お父さんはあと三十分は水源から戻ってこない。
私は喉の奥で鳴る心臓の音を聞きながら立ち上がり、部屋の隅に置かれたお父さんの古い個人用リュックへと歩み寄った。あの日以来、「中にはカミソリみたいに研いだチェーンソーの替え刃が入っているから、指を切りたくなかったら絶対に触るな」と厳しく禁じられていた唯一のリュックだ。
震える手でバックルを外した。一番上には、確かに油の塗られた鋼鉄のソーチェーンが布に包まれて入っていた。
だが、底板として敷かれていた硬いプラスチックのパネルを持ち上げた瞬間――私の指先は、整然と並べられた青い薬の箱に触れた。
私はそれを一つずつ床の上に引っ張り出した。
未開封の箱の隣には、透明なビニール袋が入っていた。森の中に絶対にゴミを捨てない樵であるお父さんらしく、そこには使い終わった空の薬のシートがすべて半分に折られ、輪ゴムで束ねて保管されていた。
空のシートを数えた。『十三枚』あった。この山に来てから十四ヶ月、四百三十日分。
続いて、リュックの底に残っている未開封の箱を数えた。『十七箱』だった。
私はテーブルから鉛筆を取り、焚き付け用の古新聞の端に掛け算を書いた。
十七箱かける、三十三錠。
――『五百六十一』。
残り、七百日足らず。あと一年半少しで、お父さんの薬は尽き、その心臓は永遠に止まる。
私は声を殺すために片手で自分の口元を強く覆った。一年前に自分の手で黒髪を切り落として以来、初めて熱い涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
夜の谷間を稲妻が一瞬で照らし出すように、私にはすべてが分かった。
二日目の朝、血まみれになった私の両手を塩水に沈めた時、なぜお父さんの方が私以上に奥歯を噛み締めて苦しそうな顔をしていたのか。
なぜ私に毎日一グラム単位で玄米を量らせ、滑車の負荷計算を一人でやらせ、浄水フィルターを掃除させ、目隠しをした状態で二丁のピストルを分解して組み立てられるようになるまで毎晩厳しく叱りつけたのか。
そして七ヶ月前の四月の夜――なぜ一人で死者の谷へと降りて行き、私に二千発の亜音速弾を渡すためだけに生きた人間を殺して血まみれのシャツをストーブで燃やし、病んだ心臓が破裂しかけるのを堪えながら三十五キロの鉛を背負って山を登り返してきたのか。
お父さんは、自分と「一緒に」生き延びるために私を鍛えていたんじゃなかった。
最初の日の朝、麓の田舎薬局に入ったあの一瞬から、お父さんは自分の胸の中に「千日間の時限爆弾」がセットされていることを知っていたのだ。そして、残されたすべての呼吸を燃やし尽くしてでも、自分が死んだあとに四十五キロの華奢な娘がたった一人でこの山を生き抜けるよう、私という人間を「要塞」に作り変えることだけを決意していたのだ。
私は薬の箱を寸分違わず元の順番通りにリュックの底へと戻し、バックルを閉め、薪箱を元の位置に据えた。お父さんが帰ってくる前に、バケツの氷水で顔を洗って目の赤みを消した。
だが、粗い布で顔を拭きながら暗い窓ガラスに映る自分の短い髪を見つめた時、私はお父さんの黒いノートには絶対に書かない「もう一つの計算」を自分の頭の中で始めていた。
お父さんは、自分が死んだあとに私を一人で生き残らせるためにすべてを教えている。
だったら私は、お父さんが教えてくれるすべての技術――すべてのロープワーク、すべての滑車の物理、すべての無音射撃、そしてこの山のすべての地形――を一滴残らず吸収してやる。
お父さんを一人で死なせるためじゃない。『七百日が尽きる前に、私のこの二本の足で地獄へ降りて行き、お父さんの薬を奪い取ってくるために』だ。
その翌朝から、私の動きは完全に変わった。
朝六時にお父さんに起こされる前に、私は五時半に起きて楔で薪を割り、雪の中のワイヤー罠を点検し、肩の筋肉が千切れそうになるまでポーチの梁で懸垂を繰り返した。
サプレッサー付きの9ミリピストルは、一発たりとも無駄撃ちしなかった。一年間で実際に撃ったのはわずか十八発だけだったが、私は毎晩一時間、消音器の先端にコインを一枚乗せた状態でホルスターから銃を抜き、コンマ五秒で緑色のトリチウムサイトを合わせて空撃ち(ドライファイア)する訓練を、コインが一度も落ちなくなるまで何千回も繰り返した。
そして毎晩、お父さんが眠りについたあと、私は通学カバンの底に最初の日のまま眠っていた『県内の広域道路地図帳』を引っ張り出し、赤い懐中電灯の光の下でページをめくり続けた。
お父さんは山のプロだ。黒岳の木々のことも、麓の農協や田舎薬局のことも知り尽くしている。だからお父さんにとっては、麓の薬局の在庫が尽き、市民病院が焼け落ちた時点で、この地上から自分の心臓の薬は一粒残らず消滅したも同然だった。
だが、世界が終わる前の私は、大学受験のために毎日パンフレットを読み漁っていた理系の高校三年生だった。
私は、樵であるお父さんが夢にも思いつかない「ある場所」の存在を知っていた。
私たちの山から南西へ四十二キロ。
都市部の混乱から離れた丘陵地帯の上に、バイオセキュリティのために孤立して建てられた『国立大学・薬学部および臨床薬理研究キャンパス』がある。
あそこはパニックの初日に怪我人が押し寄せる病院ではないし、モルヒネや鎮痛剤を探す略奪者を引き寄せる「緑の十字架」の看板も出ていない。研究棟の地下にある空調管理された試薬・治験薬保管庫には、市販の商品名ではなく、あの銀色のシートに印字されていた『化学物質名(ビソプロロールフマル酸塩)』のラベルが貼られた純粋な原末と、何万錠もの臨床用サンプルが密閉保管されているはずなのだ。
片道四十二キロ、往復八十四キロ。橋の落ちた川と、死者のうろつく谷を越えていく徒歩の旅。
私は黙ってその時を待ち、二年目と三年目のすべてを準備に費やした。
そして運命の日は、お父さんの薬が切れる「一週間前」にやってきた。
『九百九十三日目』。三年目の冬の入り口だった。
私は二十歳になっていた。体重はもう四十五キロではなかった。無駄な脂肪の一切ない五十二キロの引き締まった筋肉と、塩と氷で革のように硬くなった掌、ウールの帽子の下に収まる短い黒髪。背中には長柄の山鉈を背負い、私が着ているお父さんのお下がりのジャケットの両腰には、サプレッサーを装着した二丁の黒いピストルが吊るされていた。
一方でお父さんは、この二ヶ月で目に見えて衰弱していた。
唇は常に紫色がかり、ポーチの階段を三段上がるだけで荒い息を吐いていた。昨夜、私が密かに確認した最後の薬のシートには、もう『残り七粒(七日分)』しか残っていなかった。
その九百九十三日目の午後二時。
山小屋から一キロ下った「渓谷の首」に仕掛けてあった空き缶の警報ワイヤーが、乾いた音を立てて鳴り響いた。
私たちはすぐさま、岩尾根の上にある監視所へと走った。
凍てつく霧の向こうを双眼鏡で覗き込んだ瞬間、私の背筋が凍りついた。
三年間のうちに麓の街のネズミ一匹、缶詰一つまで食い尽くしたのだろう。猟銃とマチェット(山刀)で武装した五人の男たちのグループが、初日にお父さんが伐り倒した二本の杉のバリケードを乗り越えて林道を登ってきていたのだ。私たちの薪ストーブの煙を見つけたに違いなかった。
だが、連中は五人だけではなかった。彼らが麓で立てた銃声と物音に引き寄せられ、枯れ沢の谷底に沿って、六十体を超える飢えた感染者の黒い群れがアリの行列のように斜面を這い上がってきていた。
「小型の罠じゃ止めきれん数だ、結衣……!」
マイナス五度の冷気の中で額に冷たい脂汗を浮かべながら、お父さんが岩に片手をついて喘いだ。
「全員を『悪魔の渓谷』の狭い水路へ誘導して、大カマ(巨大丸太の山)を落とすぞ。俺が下の縁にある解除ウインチへ走る、お前は上から援護しろ――」
お父さんはそう言って、私たちが三年間の労働で断崖の縁に積み上げた『百二十トンのトドマツの丸太の山』――たった一本の太い鋼鉄ワイヤーで支えられた最終防衛ライン――の支柱へと向かって岩場を走ろうとした。
だが、わずか十メートル走ったところで、お父さんの足がもつれた。
左胸に太い釘でも打ち込まれたかのように片手で心臓を強く鷲掴みにし、苦悶の表情で凍りついた岩棚から足を滑らせたのだ。
――ボキッ!
乾いた嫌な音が響いた。斜面の岩の隙間に右足首が挟まったまま体重がかかり、お父さんの右足の腓骨が折れたのだ。お父さんは雪煙を上げてその場にうずくまり、不整脈の激しい発作と骨折の激痛で息もできずに動けなくなった。
眼下百五十メートルの渓谷では、すでに五人の略奪者たちが狭い水路へと足を踏み入れており、尾根の上で倒れたお父さんの姿を見つけて猟銃を構えた。
「おい、見ろ! あそこの丸太の横にジジイが一人倒れてるぞ! 丸太を落とされる前に撃ち殺せ!」
リーダー格の男が叫び、ライフルの照準をお父さんに合わせた。
その瞬間、私の頭の中には恐怖のかけらもなかった。あったのは、お父さんが千日間かけて私の骨の髄まで刻み込んだ「数学」と「技術」だけだった。
「伏せてゆっくり息をしてて、お父さん!」
私は石積みを飛び越えながら叫んだ。「ここからは私の仕事よ!」
渓谷の四十メートル真上にあるカラマツの幹の陰へと滑り込みながら、私は両腰のホルスターから二丁の黒いピストルを同時に抜き放った。
低い枝の上に両手首を固定し、お父さんを狙っている男の額のど真ん中に緑色の三つのトリチウムサイトを重ね合わせ、静かに引き金を絞った。
――シュッ、カチャ。
風が枝を折る程度の音しか立てずに、147グレインの亜音速弾が上から垂直に吸い込まれた。ライフルを構えていた男は、どこから撃たれたのかすら理解できないまま、顔面から雪の中へと突っ伏した。
――シュッ、カチャ。シュッ、カチャ。
二秒間で、さらに二発。
二人目と三人目の略奪者が、鉛の弾丸で膝の皿を砕かれて渓谷の底に転がり落ち、銃声のしない不気味な森の中で狂ったような悲鳴を上げた。
その生きた人間の悲鳴が最高の餌となり、後ろから迫っていた六十体の感染者の群れが一斉に速度を上げ、狭い渓谷の漏斗のど真ん中へと雪崩れ込んで男たちに噛みつき始めた!
残った二人の略奪者が、パニックになって斜面をよじ登り、私の方へ滅茶苦茶に銃を乱射しながら大カマのワイヤー支柱へ逃げようとした。砕けた岩の破片が私の頬を浅く切ったが、私は瞬き一つしなかった。
左手のピストルをホルスターに戻し、お父さんの横に落ちていた重い薪割り斧を拾い上げると、岩棚を疾走して鋼鉄ワイヤーの固定株へと飛び込んだ。
八ミリ径の鋼鉄ワイヤーが、百二十トンの丸太の重圧を受けてピンと張り詰め、低く唸っていた。
一年半前の私なら、傷一つつけられなかっただろう。だが今の私は、アイゼン(滑り止め)の爪を氷に深く踏み込み、お父さんに何千回も教わった通りに腰と肩を回転させた――『腕で振るなよ結衣、背中の体重と重力を使え!』――そしてウインチの固定ピンめがけて、真上から斧の刃を叩き落とした!
灰色の冬の空に、赤い火花が散った。
鞭がしなるような金属音とともに固定ピンが弾け飛んだ。
一瞬、山全体が息を呑んだ。
次の瞬間、長さ十メートルのトドマツの丸太・百二十トンが一斉に動き出し、足元の岩盤を揺るがす天地崩壊のような轟音を立てて垂直の渓谷へとなだれ落ちた。
木の雪崩は斜面にいた最後の二人の略奪者を飲み込み、谷底の六十体の感染者の群れをひとまとめに押し潰して、樹皮と雪と岩石の巨大なダムの下へと永遠に生き埋めにした。
谷間に静寂が戻ったあとも、私は立ち止まらなかった。
雪の中で青ざめて浅い息をしているお父さんのもとへ駆け寄り、即座に添え木を当てて折れた右足首を固く縛り上げた。
そして腕力だけで抱え上げようとはせず、荷物運搬用のソリのロープをお父さんのベルトに繋ぎ、山小屋まで続く松の木に設置してあった『二車滑車』にロープを通した。自分の五十二キロの体重すべてを使って一歩ずつロープを引き、八十五キロのお父さんをたった一人で山小屋のベッドまで運び込んだのだ。
◇
夜の八時過ぎ。
朝の分の薬が効き始め、お父さんの不整脈はようやく落ち着いたが、折れた右足首は大きく腫れ上がり、自力でベッドから立ち上がることは完全に不可能な状態だった。
ストーブの火がパチパチと爆ぜる薄暗い部屋の中で、お父さんは自分の枕元に座る私の顔を見上げ、どこか吹っ切れたような、穏やかで静かな笑みを浮かべた。
「……お前は、俺よりずっと強くなったな、結衣」
お父さんはかすれた声で言い、私の硬くなった指先を握った。
「今日、お前があの丸太の山を落として俺をここまで運んだのを見て……俺の役目はもう全部終わったんだと分かったよ。足まで折っちまったしな。たとえ数日後に俺がこのベッドから起き上がれなくなっても……もう何の思い残りもない。お前は一人でこの山を生きていける」
私はお父さんの手を握り返さなかった。
静かに立ち上がると、部屋の隅のお父さんのリュックから『最後の青い薬の箱』を取り出し、さらに自分のポケットから、二年間大切に持っていた『あの焼け焦げた金属ボタン』を取り出して、お父さんの目の前のサイドテーブルにコツンと置いた。
お父さんの目が見開かれ、息が止まった。
「……十四ヶ月前から、全部知ってたよ、お父さん」
私は震えない声で、お父さんの目を真っ直ぐに見下ろして言った。
「薪箱の裏に落ちていた空のシートを見たの。このシートに残っている薬は、あと『七粒』。きっかり一週間分ね。そして二年前の春、お父さんが私の松葉茶に眠り薬を入れて夜の射撃場へ降り、誰かを殺してまで私にこの二丁のピストルを持ってきてくれたことも、ストーブの灰に残っていたこのボタンで最初から分かってた」
「ゆ、結衣……お前、いつから……」
「だから、ここからは私の番よ」
私は壁に立てかけてあった登山用の軽量リュックを背負い、その上から自分の道路地図帳を開いてお父さんに見せた。
「ここから四十二キロ南西の丘の上に、国立大学の薬学部と臨床薬理研究キャンパスがあるわ。あそこは病院じゃないから略奪者にも荒らされていない。地下の試薬保管庫に行けば、お父さんの心臓の薬『ビソプロロール』が何千錠でも眠ってる。今から私が行って、一週間以内に持って帰ってくる」
お父さんの顔色が一瞬で変わり、折れた右足の激痛も忘れて上半身を跳ね起こそうとした。
「馬鹿なことを言うな、結衣!! 往復八十キロ以上の冬の死の谷を、お前一人で歩いて渡れるわけがないだろう!?」
お父さんはベッドの縁を掴み、涙の滲んだ目で私を怒鳴りつけた。
「いいんだ、結衣! もう十分なんだよ! 俺の命は三年前に母さんが死んだあの朝に、とっくに終わってたんだ! 神様がくれた千日間で、俺はお前をここまで強くすることができた。俺は今、世界で一番幸せな父親として、安らかに笑って死ねるんだ! だから頼む……俺が三年かけて守り抜いたお前の命を、こんな年寄りの寿命を少し延ばすためなんかに危険に晒さないでくれ……!」
初めて見る、お父さんの涙だった。
自分のために泣いたことなど一度もなかった強いお父さんが、私の手を掴んで子どものように懇願していた。
私は優しく微笑み、お父さんの肩をゆっくりとベッドへ押し戻すと、湯気を上げるブリキのマグカップをその唇へと運んだ。
「……分かったわ、お父さん。まずはこの温かい松葉茶を飲んで、今夜はゆっくり休んで。足が折れてるんだから、熱を出したら大変よ」
お父さんは安堵したように息を吐き、私の手から松葉茶を最後の一滴まで飲み干した。
その五分後。
お父さんのまぶたが急に重くなり、ろれつが回らなくなった。
「ゆ、結衣……? なんでだ、急に、目が……」
「二年前の四月の夜、お父さんが私に飲ませたのと同じ『薬局の抗ヒスタミン薬』を半分だけ溶かしたのよ、お父さん」
私は眠りに引きずり込まれていくお父さんの額を撫でながら、静かに囁いた。
「お父さんは『安らかに死ねる』なんて言ったけど、私の計算は違うわ。来年の冬も、再来年の冬も、十二トンの薪を一人で割るのは大変すぎるもの。お父さんには、あと三十年は隣でノコギリの反対側を引いてもらわなきゃ困るのよ」
私はお父さんが完全に深い眠りに落ちたのを確認すると、ストーブの横に置いてあったお父さんの冬用ブーツとかんじきをすべてロープで縛り、外の高い木の枝へと滑車で吊り上げて、折れた足では絶対に外へ一歩も出られないように封印した。
代わりにベッドのすぐ脇のテーブルには、一週間分の炊いた玄米と塩漬け肉、沸かした水のタンク、おまる、そして『残り七粒(七日間分)』の薬のシートを、手が届く位置に完璧に並べておいた。
『毎日一粒ずつ、絶対に欠かさず飲んでベッドの中で待っていて。七日目の朝、最後の薬がなくなる前に、必ず私がドアを開けるから』
黒い方眼ノートを破いた紙にそう書き残し、私は二丁の消音ピストルと二千発のうちの百発、そして一週間分の蜂蜜と干し肉を背負って、吹雪の止んだ真夜中の山へと飛び出した。
(第四章・了)
◇
【最終章:八十四キロの死地と、千日目の夜明け】
七日間。百六十八時間。
三年前に死んだ世界を突っ切る、片道四十二キロ、往復八十四キロの孤独な行軍が始まった。
凍てつく星空の下、黒岳の急斜面を滑り降りながら、私は闇雲に走ったりはしなかった。頭の中では、メトロノームのようにお父さんの声が規則正しく響いていた。
『いいか結衣、冬の山で焦る奴は汗をかく。汗をかけば服が濡れ、マイナス十度の中で服を濡らした奴は夜明け前に低体温症で死ぬ。歩幅を一定に保て。鼻で息をし、すべてのカロリーを計算しろ』
一日目と二日目は、風が遮られて感染者が溜まりやすい谷底の舗装道路を徹底的に避け、高い尾根伝いの獣道を歩き続けた。
私はもう、手のひらの水ぶくれで泣いていた四十五キロの女子高生ではなかった。鹿の脂で防水加工した編み上げブーツに「かんじき」を括りつけ、重心を低く保ち、いつでも抜けるように長柄の山鉈を腰に差して進んだ。木々の間を彷徨う二、三体のはぐれ感染者を見つけても、貴重な銃弾は一発も使わなかった。風向きを読んで自分の匂いが届かない風上へと回り込み、三十メートルの距離を保って音もなく追い抜いた。
二日目の夕方、私は北の山脈と南西の丘陵地帯を分断する大河のほとりに辿り着いた。
危惧していた通り、コンクリートの道路橋はパンデミックの初期に軍によって爆破され、崩れ落ちていた。二十メートル下の谷底では、黒く凍てついた激流が岩壁にぶつかって白い飛沫を上げている。十二月のこの水温に落ちれば、三分以内に心臓麻痺を起こして死ぬ。
だが、対岸に残された橋脚の鉄塔から、吊り橋を支えていた太いメインワイヤーが一本だけ切れずに垂れ下がり、こちら側の岸のアンカーに辛うじて引っかかっていた。
私はリュックから鋳鉄製の滑車二つと、高強度ケブラーロープを取り出した。
自分の腰にハーネスをしっかりと巻きつけ、谷底から丸太を吊り上げる時にお父さんに教わった通りの手順で、メインワイヤーに滑車を噛み合わせた。
そして凍てつく激流の二十メートル上空へと身を躍らせ、ブーツの底を濡らすことさえなく、わずか六十秒で対岸へと滑り渡った。
三日目の午後――山小屋を出てから七十時間後――冬枯れの木々の向こうに、灰色の鉄筋コンクリート造りの巨大な建物群が見えてきた。
『国立大学・薬学部および臨床薬理研究キャンパス』だ。
私は土手の茂みに身を潜め、お父さんの双眼鏡で三十分間じっくりと敷地内を観察した。
私の読みは完全に当たっていた。
ここから五キロ離れた大学付属病院は略奪者に焼き討ちされて廃墟と化していたが、この研究キャンパスの鋼鉄の正門は、三年前の初日に作動した緊急ロックによって固く閉ざされたままだった。略奪者の車も、生存者のバリケードもない。入り口の学術的な看板の意味を理解できない連中にとって、ここはただの「食い物のない退屈なオフィスビル」にしか見えなかったのだ。
私は鉤縄を使って側面のフェンスを乗り越え、並木道の奥にある『第4研究棟:分子薬理学および心血管研究部門』へと向かった。
一階のガラス扉は、内側から突き破られて砕け散っていた。
私は赤いフィルターを貼った懐中電灯を点け、右手にサプレッサー付きのピストルを抜くと、試薬や治験用サンプルが保管されている空調管理された地下倉庫――『地下二階(レベルB2)』へと続く非常階段を音もなく降りていった。
地下二階の防火扉をわずか二センチ押し開けた瞬間、鼻が曲がるような腐敗臭と淀んだ空気の塊が顔面に吹きつけた。
薬品保管庫の重厚な金庫扉へと続く、長さ三十メートル・幅わずか二メートルの袋小路のコンクリート廊下には、略奪者はいなかった。だが、もっと厄介なものがいた。
三年前、停電でエレベーターが止まった際に地下へ閉じ込められたのだろう。白衣を着た二十体近い研究員や検査技師の感染者たちが、完全な暗闇の廊下にひしめき合って蠢いていたのだ。地下の静寂の中で、彼らがリノリウムの床を引きずる足音は、乾いた落ち葉が擦れるような不気味な音を立てていた。
廊下の幅はたったの二メートルしかない。
たとえ十七発入りのピストルを二丁持っていても、あの狭い通路で扉を開けて正面から撃ち合えば、マガジンを交換する前に後ろから押し寄せる群れの質量に押し潰され、壁に縫い付けられて食い殺される。
『いいか結衣、絶対に腕の力で戦うな。地形と物理法則を使え』
私は非常階段の分厚い鋼鉄製の防火扉と、天井を走る消火配管を見上げた。
リュックから細い鋼鉄ワイヤーの束と、お父さんの鉄の楔を取り出す。
きっかり十分間、私は完全な無音の中で作業した。防火扉のすぐ後ろ、階段の踊り場の入り口の「すねの高さ(床から三十センチ)」に、三本の鋼鉄ワイヤーを交差させてピンと張り巡らせた。そして、自動で閉まる重い防火扉を半分開いた状態で鉄の楔で止め、その楔に結んだロープを天井の配管の上へと通した。
準備を終えた私は、ナイフの柄で鋼鉄の扉を二度、強く叩いた。
――カン、カンッ!
暗闇の廊下で、二十の頭が一斉にこちらを向いた。
地の底から湧き上がるような複数の唸り声が地下室を満たし、白衣の群れが一塊となって、私の姿が覗いた扉の隙間へと猛烈な勢いで突進してきた。
私は階段を三段下がり、二丁の消音ピストルを胸の高さに構えた。
先頭の六体の感染者が、開いた扉の隙間から踊り場へとなだれ込んできた。暗闇の中で、彼らはすねの高さに張られた三本の鋼鉄ワイヤーに気づかない。全力で走ってきた六体の足がワイヤーに引っかかってへし折れ、折り重なるようにして踊り場の床へ顔面から激突し、後ろから押してくる群れの足を塞ぐ「肉のバリケード」となった。
その瞬間、私は足元に垂らしていたロープを強く引いた。
鉄の楔が抜け、強力なドアクローザー(自動閉鎖装置)のバネによって、分厚い鋼鉄の防火扉がギロチンのように激しい勢いで閉まり、廊下側に残っていた十四体の群れを扉の向こうにガッチリと挟み込んで食い止めた!
踊り場のこちら側に転がっているのは、ワイヤーに足首を絡ませて這いつくばる六体だけ。
私は二丁のピストルを向けた。暗闇の中で、緑色のトリチウムサイトが冷たく光る。
――シュッ、カチャ。シュッ、カチャ。シュッ、カチャ。
六発の亜音速弾。
消音器の先端に乗せた見えないコインを一枚も落とすことなく、私は冷徹に、外科手術のような正確さで六体の後頭部を撃ち抜いた。
続いて、死体が挟まって十センチだけ開いたまま止まっている防火扉の隙間に銃口を差し込み、向こう側で扉を押し続けている残りの十四体の額を、爪先一つ触れさせることなく一匹ずつ順番に処理していった。
わずか四分後、地下二階の廊下は完全な静寂に包まれた。
私は動かなくなった白衣の群れを乗り越え、突き当たりの『臨床治験薬・原末保管庫』の重厚な扉の前に立った。電気が切れてロックされたままの電磁錠の隙間に、鋼鉄製のバールの先端を深く叩き込む。壁に両足を踏ん張り、背中の筋肉をテコにして体重を乗せると、ガキン!と乾いた音を立ててロックが弾け飛んだ。
地下十メートル、厚さ一メートルのコンクリート壁に守られ、電気が止まってからも三年間ずっと「摂氏十二度」の一定温度を保ち続けていた保管庫の中へと足を踏み入れ、ステンレスの棚を懐中電灯で照らし出した瞬間――私は安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で棚に掴まって堪えた。
すべての薬品が、商品名ではなく『化学物質名』のアルファベット順で整然と並んでいた。
B列、第4棚:『循環器系 ―― 選択的β1遮断薬』。
私の目の前に並んでいたのは、湿気を吸ってしまう薬局の紙箱などではなかった。
十年の長期保存に耐えるよう、窒素ガスを充填して完全真空パックされ、乾燥剤のシリカゲルとともに密閉された『医療用アルミニウム製の円筒形キャニスター(密閉缶)』が十二本。その白い研究用ラベルには、はっきりとこう印字されていた。
『ビソプロロールフマル酸塩 10mg ―― 臨床標準品ロット。内容量:1缶あたりフィルムコーティング錠 1,000錠』
十二缶。合計『一万二千錠』。
たとえ年月が経って薬効成分が二割落ちたとしても、この窒素充填された密閉缶の中には、お父さんの心臓をこれからの一生ずっと動かし続けられるだけの薬が眠っていたのだ!
私はそのアルミ缶を五本――『五千錠分』――と、折れた足首のための病院用抗生物質と鎮痛剤の箱を三つ掴み取り、まるで金の延べ棒を包むようにエマージェンシーシートで丁寧に巻いてリュックに詰め込むと、三日目の夜が更ける前にキャンパスから飛び出した。
◇
本当の試練――この山が、私を「樵・健司の娘」として認めるかどうかの最後のテストは、帰り道に待っていた。
五日目の午後。山小屋まで残り二十キロの黒岳の裾野を登り始めた時、北の海から発達した猛烈な寒波が襲来し、視界のすべてを奪うホワイトアウト(猛吹雪)となった。
気温はマイナス十六度まで急降下した。トドマツの森を揺らす暴風が真正面から吹きつけ、一歩進むごとに私の体を後ろへと押し戻し、まつ毛が凍りついて目を開けることさえ困難になった。
普通の人間なら、すべての足跡が消えた白い地獄の中で方向感覚を失い、同じ場所をぐるぐると回って凍死していただろう。
だが、私は雪に埋もれた地面など見なかった。私が常に見上げていたのは、地上から二メートルの高さにある『杉の巨木の幹』だった。
そこには十年前、お父さんと森林組合の仲間たちが冬の吹雪の中で帰り道を見失わないように刻み込んだ『V字の方向刻み(ナタ目)』が残されており、二年目の冬にお父さんが「いいか結衣、吹雪いたら足元を見るな、木の幹の傷を読め」と私にすべて暗記させてくれた道標だったのだ。
六日目の夜から七日目の未明にかけて、私は一睡もせずに歩き続けた。
凍りついた蜂蜜と塩漬けの干し肉を奥歯で噛み砕きながら、猛吹雪の暗闇の中を一歩、また一歩と登り続け、あの丸太の雪崩で埋まった『悪魔の渓谷』の絶壁を、自分が残してきた鋼鉄ワイヤーを手繰ってよじ登った。
そして、深い新雪の向こうに山小屋の黒い屋根の輪郭が見えた時、東の空が淡い薔薇色に白み始めていた。
『七日目』の朝。お父さんの命の期限である『千日目』の夜明けだった。
屋根の石造りの煙突からは、もう糸のように細い白い煙しか上がっていなかった。私がベッドの脇に置いていった薪が、まさに尽きかけているのだ。
私は外周のワイヤー罠を解除し、膝から下の感覚が完全に消えた両足でポーチの階段を三段駆け上がると、山小屋の分厚い木の扉を力任せに押し開けた。
松脂と薪の匂いが残る薄暗い部屋の奥で、お父さんは目を覚ましていた。
添え木で固定された右足を毛布の下に伸ばし、ベッドの枕に背をもたれさせて座っていた。頬はこけ、入り口の扉をじっと見つめるその節くれだった指先には、三十三個のポケットがすべて空になったアルミのシートが握られていた――まさに今、最後の水で『七粒目の最後の薬』を飲み干したばかりだったのだ。
頭の先からつま先まで氷と雪にまみれながらも、五体満足で扉の前に立つ私の姿を見た瞬間、お父さんの手からブリキのコップが滑り落ち、床の上を転がった。
「ゆ、結衣……」
お父さんの喉から、掠れた声が漏れた。無精髭に覆われたその険しい頬を、大粒の涙が二筋、ゆっくりと伝い落ちた。
「結衣……帰ってきたのか……。生きて、帰ってきたのか……!」
私はブーツのかかとで後ろの扉を閉め、部屋を横切ってベッドの脇のテーブルに重いリュックを下ろした。
寒さでかじかんだ指でファスナーを開け、国立大学の地下から持ち帰った五本の銀色の密閉アルミ缶を一つずつ取り出し、見開かれたお父さんの目の前の木の板の上に、カチャン、カチャンと音を立てて並べた。
「窒素充填の完全真空パックで『五千錠』よ、お父さん」
私は白い息を吐き出しながら、雪まみれのニット帽を短い黒髪から脱ぎ捨てて、疲れた笑顔を作った。
「予定より二時間早く配達完了。……生き残るのは勇気じゃなくて、純粋な数学だって教えてくれたのはお父さんでしょ?」
お父さんは化学名のラベルが貼られた五本のアルミ缶を見つめ、それからお父さんのお下がりのチェック柄のジャケットを着て、両腰に消音ピストルを下げ、震えることのない硬い手をした私の姿を見上げた。
そして三年間のうちで初めて、お父さんは両手で自分の顔を覆い、子どものように声を上げて泣きじゃくった。泣きながら笑い、笑いながら泣いて、私の凍えた片腕を自分の胸へと強く抱き寄せた。
「この、クソガキが……!」
お父さんは私のジャケットの凍りついた袖に額を押し当てて嗚咽した。
「俺に似て、本当に頑固で、しつこい悪魔みたいな娘だ……! 死神まで騙しやがって……!」
「先生が良かったからね」
私はお父さんの白髪の混じった頭に自分の額をコツンと当て、私の手のひらの下で、お父さんの心臓が力強く、ゆっくりと、規則正しいリズムを刻んでいるのを確かめた。
「さあ、早くその足首を治してよね、お父さん。あと一ヶ月もすれば一月になるんだから。来年の分の『十二トンの薪』を、私一人で割る気なんてさらさらないんだから!」
山小屋の小さな窓の外で、ついに千日目の太陽が吹雪の雲を突き破り、黒岳の手つかずの白い雪原をダイヤモンドのように眩しく照らし出した。
あの谷の下の世界は三年前に終わった。だが、この山の上での私たちの本当の暮らしは、今日の朝からもう一度始まるのだ。
【完】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
「余命千日の樵の父」と「体重45キロから山のサバイバーへと成長した娘・結衣」の1000日間の物語、いかがでしたでしょうか?
映画やゲームのような派手な超能力ではなく、「ガソリンの劣化」「12トンの薪割り」「滑車とワイヤーを使った物理トラップ」「亜音速弾とサプレッサー」など、現実に極限状態を生き抜くためのリアルな知識と家族の絆をテーマに執筆しました。
もし少しでも「父と娘の絆に胸が熱くなった!」「リアルなサバイバル知識が面白かった!」と思っていただけましたら、ページ下部より【ブックマーク登録】や【ポイント評価】、リアクション等で応援していただけますと、今後の執筆の大きな励みになります!
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