序章 カーネーションの庭園
紙のすれる音だけが響いている静かな空間。現世、ルールを守るものが少なくなってきている中で、ここだけは本当に静かだった。正面カウンターに飾られた四、五メートルほどもある時計の秒針が一秒、一秒を刻んでいくのに、まるで時が止まっているように感じる。ここは市立王紅図書館。蔵書されている本の冊数が、なんと二百万を超えている大規模な図書館だ。本の配置も独特なので、初めて来たものにとってここは迷路に匹敵するかもしれない。こういう現状からも、本の配置の改善を訴える声もあがっているそうだ。それでもこの図書館に人が来るのは、人気の本を多く取りそろえているというのと、マイナーで探しにくい本を仕入れているというところからだろう。
この図書館、メインホールは机や椅子がずらりと並んでいて、学生の勉強場所にも使われる。もちろん座って本を読みたい人のためにも利用されるが、各本棚の近くに広めのスペースがあり、そこにも椅子が設置されているため、たいていの人はそこを利用するか、もしくは立って読んでいるため、メインホールの机や椅子の利用者はほとんどが学生だ。
「んえぇっと…オクトーバーって何月のことだっけ」
正面カウンターから見てメインホール右奥の机に、一列に座って勉強道具を並べている中学生たちの一人が、隣のちょっと前髪の長めな学生に小声で訊いた。
「Octoberは十月のこと、だよ…」
やさしい口調で答える。
「セイちゃんの発音の仕方って、ホンット『日本人』って感じよね」
くす、と笑いながら、逆隣の後ろ髪が腰辺りまで流れている女学生がそう言った。
「うるっせーなー。英語は苦手なんだよ」
つんとした表情で口をとがらせて最初の学生が答える。
彼らの名は順に、円満聖一、逢坂熙、櫻木谷由麗乃。「セイちゃん」というのは、「聖一」の「聖」を「セイ」と読み、ユリノが名づけたあだ名である。ちなみに「熙」は「ヒロりん」と呼ばれ、「由麗乃」はキヨヒトに「ユリ」と呼ばれている。
彼らは後日学校で行われるテストの復習をしにここへきている。いつもはヒロキの家で復習を行っているのだが、今日はあいにくヒロキの家の都合が悪かったためと、静かで復習もはかどるだろうということからここでやることになった。実際は、ヒロキの気に入っている場所という理由もあったのだが。
「―あー、終わったっ」
一時間後。キヨヒトが大きな伸びをしながら言った。静けさの中に彼の声は響き、視線が集まった。あわてて体をすくめる。
ユリノが恥ずかしそうにひじで小突いた。
「悪い悪い」
頭をぽりぽりとかく。乱れている髪がさらに乱れる。
そんな中、ノートをぱたんと閉じたヒロキがおもむろに立ち上がる。
「…じゃあ、僕、本、探してくるから…。…帰る? 待ってる?」
「あっ、あたし付き合うよ」
「あ、俺も」
続いて二人も立ち上がった。
ヒロキは本が好きだ。特にファンタジーものがお気に入りで、よくここにも借りに来るが、テスト前にもかかわらず本を悠長に読んでいられるのも、彼の成績が九割以上関係するだろう。
そう、つまりは、頭が良いのだ。学年トップとまでは行かないが、一般生徒の平均的な学力よりは大幅に高い。だから本を読んでいられるのだ。
ヒロキがその系統の本棚を見て回る中で、奇妙な本を発見した。
―なんだろう、これ…?―
紫色の本で、タイトルも著者名も書かれていない。開いてみても中は真っ白だった。
「どしたの?」
本棚の横から顔を出したユリノが、本を不思議そうな顔つきで見ているヒロキに気づいた。
「あ…これ…」
彼女にその本を渡す。
「何コレ? 何も書いてないじゃない」
逆側の本棚に向かっていたキヨヒトも、二人の様子に気づいて振り返る。
「ん、どした。……なんだこれ?」
ページを先に進めたり、戻ったりするが、白紙のままで何も変わらない。
「ノート…じゃねーよな、外見からして。バーコードも王紅のマークもねーし」
もう一度ぱらぱらとページをめくる。最後のページまで開いたところで、何か書いてあるのに気がついた。
「ん?」
【Those who touch invite it to the fantasy world here.】
「ゾーズ…フー…トウチ…?」
「ゾゥズ、フー、タッチでしょ」
二人が発音のやり取りをしていることなど気にせず、ヒロキはただその英文を見つめた。
「………【ここに触れた方を幻想世界に招待します】?」
わずか五秒足らずで、訳してしまった。
「ヒ、ヒロ…ッ! お前、相変わらずすげ………幻想?」
ヒロキは書いてある言葉に心を奪われ、興味と好奇心でそのページに手を触れてみた。
一瞬、目が見開かれる。
思った瞬間、まぶたは閉ざされ―倒れた。
「え? ちょ、ちょっと、ヒロりん!」
………―
ユリノの呼びかけには答えない。ただ息だけをして、まるで眠っているよう。
ユリノがあせるなか、キヨヒトは冷や汗を頬につたわせながら、倒れた彼と同じ行為をしようとしていた。
「ちょっ、なにばかなことしようとしてるのよ! そ、そこに書いてることなんて嘘に決まってるでしょ! 倒れたのも…そ、そう、きっと館内が暑いから!」
「…でも…もし本当なら…」
言葉に詰まる。彼女は彼の手がその紙に触れる瞬間をただ見つめていた。
手に伝わる紙の質感。普通の印刷用紙のような―
………―
「……セイちゃん?」
何の反応もない。異変に気づいたユリノはとっさにキヨヒトの肩を揺らしていた。
倒れこむキヨヒト。先ほどからのここの騒ぎで館内はざわめき始めていた。
「セイちゃん! セイちゃん! そんな…まさかっ…こんなことって」
今にも泣きそうな表情になって、顔を伏せてしまう。たまたま近くにいた男性が、ユリノに近づいて肩に手を伸ばしつつ「大丈夫?」と声をかけた。
その瞬間、何かを決心したように、ユリノは顔を上げた。男性は驚いて手を引いたと同時に尻餅をついてしまった。
「あ、す、すみません…っ!」
軽く謝るが、そっちには意識が行っていない。ただ、倒れこんだキヨヒトの間に挟まった紫の本を引っ張り出すことに夢中だった。本が目の前まで来たら、今度はその最後のページを強引に開く。多少ページが破けてしまったが、この際どうでもいい。とにかく、ユリノはそのページに手をついたのだ。
………―
「だ、大丈夫、君…?」
男性が声を掛けるが、ユリノが反応することはなかった。
甘酸っぱいような香りが鼻腔を通り抜けた。
目を開けてみると、目の前には緑があった。どうやら、葉のようだ。
ゆっくりと立ち上がる。足元には黄土色。周りは赤やピンクと緑。
カーネーション。
いつの間に外に出たのだろう。キヨヒトはそう思考した。
目の前には大きな館がある。とするとここは庭園といったところだろうか。
色鮮やかなカーネーションたちが生き生きと咲いているところを見ていると、なんだか自然と心が穏やかになって、自分の中に秘める悩みとかがどうでもよくなりそうだった。
眠っている間に誰かにここまで連れてこられたのだろうか、と思考したが、ヒロキが倒れてしまってからの記憶がない。まさかあんな事態の中で眠ってしまったとでも言うのだろうか。
そして、
―これは夢か?―
その考えに至ったのである。
しかし、夢とはまた違った不思議な感覚がここにはあった。
人は、夢を見ると、それを夢だとは思わない。そして目が覚めたときに夢だったと気づくのだ。もちろん、夢の中でこれを夢だと分かる人もいるだろう。しかし、キヨヒトは飽くまで夢を見ているときにそれを夢と思わない方の人間だった。
もしこれが夢ならば、現実のことはほとんど覚えていないはず。しかし、しっかりはっきりと覚えている。そしてこれを夢ではないかと自覚しているのだ。
今までのキヨヒトの夢の見かたとは明らかに違っていた。
それならば、誰かにここに連れてこられたのか、という点になるが、それも違うだろう。
不思議と体が、いや、心も軽い。なんでもできそうな自由さというのが、感じられた。しかしこの感覚の正体が分からない。
―そういえば―
紫色の本に書いてあった文章を思い出す。
【ここに触れた方を幻想世界に招待します】
こんな非現実的なことが本当に起こったのだとしたら。
キヨヒトはとにかくあの館へ向かうことにした。
時折少し強めの風が吹いてくるときに花の香りが漂うのがすごく気持ちがいい。
そんな桃色の匂いに包まれているなか、館の目の前まで着いた。
館はレンガでできていて、外壁をところどころが植物が覆っている。レンガの汚れ具合や欠け具合から見ると、結構昔のものらしい。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せなかったので、記憶をたどるのをやめ、扉に手を伸ばした。
ぴたりと取っ手の寸前で止める。
館に勝手に入ってもいいものなのだろうか。そうためらっていたのだ。
「セ、セイちゃん!」
後ろから聞き覚えのある声がした。振り返ると、庭園の奥のほうからユリノが走ってこちらに向かってきていた。
「セイちゃんもここにきてたんだ…」
ユリノがすぐ目の前まで着てそう言った。それに彼はうなずいた。
「ああ、どこなんだ、ここ?」
「分かんない…。そういえば、ヒロりんは?」
ユリノが視界に現れる前から気にかけていたことだ。
「いや…見てない」
「そう…。あっ、この中にいるかもしれないね、入ってみよ!」
「あ、おい、ちょっと待」
キヨヒトが止めるのも聞かずにあっさりとユリノは扉を開けてそそくさと中に入っていってしまった。
―ああもう、人の話聞けよな―
彼女の後を追いかける。
中は広々とした廊下のところどころに部屋へ通じると思われる扉があり、途中には階段が見えた。
「すみません! 誰かいませんか!」
キヨヒトが叫んでみるが、反応はない。留守なのだろうか。
「これだけ大きな館に使用人さんの一人もいないなんて考えられないわよ。もしかしたらここは廃墟なのかも。進んでみましょ」
「あ、おい、待てって!」
また置いてけぼりにされてしまった。走って進んでいくユリノは次々に扉を開けて回っていた。
小走りで追いかけて、ユリノの許へ着いた頃には既に扉は全て開かれていた。どの部屋も書斎のようなつくりで、本棚だらけだ。ただ、その中にも数部屋だけ更に廊下に続く道があった。別館に続いているのだろうか。
そんなことを考えていると、木がきしむ音が聞こえてきた。
「なにしてるの、はやくっ!」
階段を上っていくユリノの足音だった。いつの間にあそこまで上ったのか。
キヨヒトはあわてて追いかける。ユリノの表情はまるでヒロキを探すというよりも、冒険しているように見えた。
二階に着くと、一階と同様に片っ端から部屋という部屋を開けて回った。
キヨヒトは着いていくのがやっとだったのだが、ある声に足を石のように固まらせた。「何を、しておるのかね?」
―人…いるじゃねーか…―
まるで一昔前のロボットのように体を声がした方向に向けるキヨヒト。彼が追いかけてこないのに気づいて、ユリノも足を止めて振り返った。
「あ…」
「あの…俺たち…」
どう説明すればいいのか分からなくて、先の言葉が出てこない。
「友達を、探しておるのかね?」
「へ…?」
白いひげに覆われた老人が、いきなり的中した答えを言ったため、きょとんとしてしまう。
「あ、あの…なんで…」
「友達が待っておるよ。さ、ついてきなさい」
老人が誰なのかは分からなかったが、とにかくこの館にヒロキがいることは間違いなさそうだった。
言われるがまま、何も反論せずにその老人の猫背になった小さい背中についていく。
本当にここは変なところだった。開けていく部屋部屋が本棚しかない。
「さ、ついたよ」
ヒロキがいるらしい扉を老人が開けると、その部屋もまた本棚で埋まっていた。
その中で、ヒロキがとある本に夢中になっている。
「あ…みんな」
「ヒロッ!」
「ヒロりん!」
すぐさま駆け寄る。ヒロキは読みかけていた本を閉じた。
「お前こんなところで何やってんだよ」
「ごめん…。気づいたら…この人の、目の前にいたんだ…」
目線で老人を指す。
「いやあ、びっくりしたよ。いきなり何もないところから子供が現れるんだからなあ」
「どうも、すんません、勝手に入ってきて」
キヨヒトが頭を下げた。
「コイツが、俺が止めるのも聞かずにずかずかと入っていくもんですから…」
そういってユリノの頭に手をやって無理やり押し下げた。
「ちょ、なによ、私のせい? ヒロりん探してたんだし、このおじいさんも優しそうだし、いいじゃない。…ね、いいわよね、おじいさん。許して?」
やり取りを見ていた老人は、さも久しぶりに楽しそうなところを見たといわんばかりににこにこと笑い出した。
「いいわい、いいわい。そんな些細なこと気にせんて」
「わあ、おじいさんありがとう!」