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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
1.まだ普通のはずの日常

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9/36

沈静化は終わる

ここ数日、目立った事故は起きていなかった。踏切は静かだし、信号はちゃんと青で切り替わる。

廊下で誰かが転ぶこともないし、物が落ちてくる気配もない。久遠のノートも最近は机の端に積まれたまま、開かれる頻度が減っていた。――落ち着いた。そう判断していいほどの平穏だった。

昼休み、俺は久遠と並んで旧校舎へ向かっていた。


「今日は測定だけです」

「実験じゃなくて?」

「基準データの取得です。温湿度、空気成分、換気量。異常がない時期の数値は重要なので」


ケースに入った測定器を抱えている。地味だが、科学研究部らしい作業だ。

理科準備室の前で、俺は一瞬だけ足を止めた。理由は分からない。分からないが――鼻の奥に、わずかな刺激があった。薬品とも焦げとも違う。空気が軽くひりつくような感覚。


「どうしました」

「いや……なんか」


言葉にできない。久遠は俺の顔を見てから、部屋の中へ視線を移した。次の瞬間、表情が変わる。


「……待ってください」


声が低い。久遠は器具を机に置いたまま窓へ向かい、換気扇を回した。続けて窓を開ける。


「ガス臭がします」

「え?」

「微量ですが。都市ガス系です」


壁の元栓を確認し、指で押す。


「……閉まりきっていません」


そのまま締め直した。


「火気厳禁です。今日はここ使いません」


研究者の口調だった。数分後、匂いは薄れる。


「……この濃度なら大事にはなりません。ただ、火花があれば危険でした」


背筋が冷える。


「劣化じゃありません」


久遠は静かに言った。


「この閉まり方は、人が触っています」


胸の奥がひくりと鳴った。

放課後、科学研究部。久遠はホワイトボードに簡単な配管図を書き、ノートに数値をまとめていた。気温、湿度、換気量、元栓の角度。


「事故未遂です」

「……未遂、って」

「火源があれば成立していました」


ドアが開く。


「お疲れ」


鷹宮環だった。


「理科準備室でトラブルあったって聞いたけど」

「ガス漏れの可能性がありました」

「そりゃ焦るね……」


タブレットを覗き込みながら言う。


「この棟、配管古いから」


久遠のノートを一冊めくる。


「……相変わらず細かい」

「基本項目です」

「助かる。生徒会に回す」


事務的だった。


「君、匂い気づいたんだって?」

「たまたまです」

「それで十分」


軽い調子で続ける。


「点検申請は出す。今日は封鎖」


それだけ言って端末に入力する。


「最近この部、静かだったろ?」

「はい」

「たまにまとめて来るんだよ、こういうの」


久遠は少し考えた。


「……偶然、ですか」

「今のところはね」


肩をすくめる。


「前に身内が事故に巻き込まれてさ。以来こういうの神経質で」

「生徒会長の職業病」


それで話は終わった。

帰り道、空気は澄んでいる。ガスの匂いなんてしない。なのに――胸の奥が落ち着かない。


「……本当に偶然か」


久遠は少し黙ってから言った。


「偶然であってほしいです」


その言い方が弱い。

夜、俺は寝つけなかった。布団の中で、鼻の奥にあの刺激が蘇る。翌朝は快晴。完璧すぎる普通。なのに家のコンロを一度確認してしまう。学校では久遠がノートの端に数字を書いていた。


「不自然です」


小声で。昼休み、また準備室の前で足が止まる。何もないのに。


「……止まりましたね」

「無意識だ」

「記録します」


帰り道も平穏だった。それなのに何度も周囲を見る。


「神経質になってますね」

「お前のせいだ」

「否定しません」


少しだけ笑った。

家に帰り、天井を見る。もし昨日、止まらなかったら。胸の奥が冷える。

スマホが震えた。久遠からだ。


【明日、少し早く来てください】

【何かあった?】


少し間が空く。


【嫌な予感がします】


短い。理由はない。でも、それが一番怖い。俺は画面を伏せた。世界は静かだ。静かすぎる。

――それが、一番信用ならない。

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