沈静化は終わる
ここ数日、目立った事故は起きていなかった。踏切は静かだし、信号はちゃんと青で切り替わる。
廊下で誰かが転ぶこともないし、物が落ちてくる気配もない。久遠のノートも最近は机の端に積まれたまま、開かれる頻度が減っていた。――落ち着いた。そう判断していいほどの平穏だった。
昼休み、俺は久遠と並んで旧校舎へ向かっていた。
「今日は測定だけです」
「実験じゃなくて?」
「基準データの取得です。温湿度、空気成分、換気量。異常がない時期の数値は重要なので」
ケースに入った測定器を抱えている。地味だが、科学研究部らしい作業だ。
理科準備室の前で、俺は一瞬だけ足を止めた。理由は分からない。分からないが――鼻の奥に、わずかな刺激があった。薬品とも焦げとも違う。空気が軽くひりつくような感覚。
「どうしました」
「いや……なんか」
言葉にできない。久遠は俺の顔を見てから、部屋の中へ視線を移した。次の瞬間、表情が変わる。
「……待ってください」
声が低い。久遠は器具を机に置いたまま窓へ向かい、換気扇を回した。続けて窓を開ける。
「ガス臭がします」
「え?」
「微量ですが。都市ガス系です」
壁の元栓を確認し、指で押す。
「……閉まりきっていません」
そのまま締め直した。
「火気厳禁です。今日はここ使いません」
研究者の口調だった。数分後、匂いは薄れる。
「……この濃度なら大事にはなりません。ただ、火花があれば危険でした」
背筋が冷える。
「劣化じゃありません」
久遠は静かに言った。
「この閉まり方は、人が触っています」
胸の奥がひくりと鳴った。
放課後、科学研究部。久遠はホワイトボードに簡単な配管図を書き、ノートに数値をまとめていた。気温、湿度、換気量、元栓の角度。
「事故未遂です」
「……未遂、って」
「火源があれば成立していました」
ドアが開く。
「お疲れ」
鷹宮環だった。
「理科準備室でトラブルあったって聞いたけど」
「ガス漏れの可能性がありました」
「そりゃ焦るね……」
タブレットを覗き込みながら言う。
「この棟、配管古いから」
久遠のノートを一冊めくる。
「……相変わらず細かい」
「基本項目です」
「助かる。生徒会に回す」
事務的だった。
「君、匂い気づいたんだって?」
「たまたまです」
「それで十分」
軽い調子で続ける。
「点検申請は出す。今日は封鎖」
それだけ言って端末に入力する。
「最近この部、静かだったろ?」
「はい」
「たまにまとめて来るんだよ、こういうの」
久遠は少し考えた。
「……偶然、ですか」
「今のところはね」
肩をすくめる。
「前に身内が事故に巻き込まれてさ。以来こういうの神経質で」
「生徒会長の職業病」
それで話は終わった。
帰り道、空気は澄んでいる。ガスの匂いなんてしない。なのに――胸の奥が落ち着かない。
「……本当に偶然か」
久遠は少し黙ってから言った。
「偶然であってほしいです」
その言い方が弱い。
夜、俺は寝つけなかった。布団の中で、鼻の奥にあの刺激が蘇る。翌朝は快晴。完璧すぎる普通。なのに家のコンロを一度確認してしまう。学校では久遠がノートの端に数字を書いていた。
「不自然です」
小声で。昼休み、また準備室の前で足が止まる。何もないのに。
「……止まりましたね」
「無意識だ」
「記録します」
帰り道も平穏だった。それなのに何度も周囲を見る。
「神経質になってますね」
「お前のせいだ」
「否定しません」
少しだけ笑った。
家に帰り、天井を見る。もし昨日、止まらなかったら。胸の奥が冷える。
スマホが震えた。久遠からだ。
【明日、少し早く来てください】
【何かあった?】
少し間が空く。
【嫌な予感がします】
短い。理由はない。でも、それが一番怖い。俺は画面を伏せた。世界は静かだ。静かすぎる。
――それが、一番信用ならない。




