理屈は、あとから追いつく
科学研究部の部室に、久しぶりに三人分の足音が響いた。
……正確には、今までは二人だった。
「失礼しまーす!」
勢いよくドアを開けて入ってきたのは、制服の上に白衣を羽織った女子生徒だった。
肩までの黒髪を後ろでまとめ、片手にはタブレット。歩きながら画面を操作している。
「……久しぶりですね、部長」
久遠が言った。
「ほんとそれ。生徒会が地獄でさ。体育祭の予算調整に文化祭の申請に、放課後が消えていく消えていく」
「部活はどうするんですか」
「最低限は顔出す。じゃないと幽霊部員量産しそうだし」
軽く笑う。鷹宮環。三年生。科学研究部部長で、生徒会長。
この学校で一番忙しい肩書きを、二つまとめて背負っている人間だ。
……俺は、この人と初対面というわけじゃない。春休みの終わり。
バイクと接触して病院に運ばれたとき、待合室で一度だけ顔を合わせている。
ほとんど会話はしていない。名前も、その時は知らなかった。
ただ、同じ制服だったことと、生徒会の腕章をつけていたことだけが妙に印象に残っている。
それから数日後。新学期が始まってすぐの頃に、「科学研究部、興味ない?」
と声をかけてきたのが、この人だった。
理科室っぽい場所でのんびりできそう、くらいの軽い理由で頷いた。
「二人で回してたって聞いたけど」
「問題ありませんでした」
久遠は即答する。
「言い切るなあ……」
鷹宮は俺を見る。
「相澤くん。元気?」
「まあ……普通です」
「それが一番測りづらいんだよね」
初対面でもないのに、やたら観察されている感じがする。
ここ数日は、本当に何も起きていない。
信号は止まらない。廊下で誰も滑らない。踏切も静かだ。
久遠も「異常なし」と判断していた。だから俺も、少しだけ警戒を解いていた。
……その矢先だ。
「で?」
鷹宮は机の上に積まれたノートの山を指した。
「これ、何?」
「観測記録です」
久遠は淡々と答える。
「何の?」
「相澤くんの行動と、その結果です」
「……個人研究?」
「今は、部内の予備データです」
“今は”。
その言い方が妙に引っかかる。
鷹宮は一冊引き寄せ、ぱらぱらとページをめくった。
ページを繰る速度が異様に速い。
「……細かいな。時間、天候、位置、視線の方向」
「基本項目です」
「三日分?」
「いえ。六日分です」
「……多」
思わず声が漏れた。
「暇だったの?」
「忙しかったです」
「余計怖いな」
「踏切未遂のあとに観測開始。校内事故が増えて、最近は沈静化……」
鷹宮は呟く。
「出来すぎじゃない?」
背中が少し冷えた。
久遠は答えない。代わりにペン先だけが机を叩いた。
「だからさ」
鷹宮は軽く言った。
「これ、部として続けよう」
「……正式に、ですか」
「うん。研究テーマに昇格」
「倫理面は――」
「観測だけ。誘導なし。強制なし」
俺を見る。
「……だよね?」
「俺、拒否権あります?」
「一応」
「使ったら?」
「悲しむ」
即答だった。
「……部長」
久遠が小さく言った。
「相澤くんは被験者ではありません」
「分かってる分かってる。“協力者”」
俺のほうを見る。
「ね?」
「……言い換えただけだろ」
しばらく鷹宮は部室を見回した。
棚の薬瓶。埃を被った金属器具。ホワイトボードの数式。
「相変わらずここ、秘密基地みたいだね」
「予算が足りません」
「それは生徒会案件だな……」
眉を揉む。
「また申請出しといて」
「既に三件あります」
「多いな!」
「相澤くん」
鷹宮が言った。
「続けていい?」
断る理由は、正直なかった。
最近は平穏だ。……平穏、のはずだ。
「……別に」
「決まり」
早い。
窓の外では夕方の光が校舎を橙色に染めていた。
穏やかな放課後。
何も起きていない世界。
鷹宮はノートを閉じながら、何でもない調子で言った。
「……事故ってさ」
「?」
「起きない時ほど、溜まるんだよ」
「……何がですか」
「確率」
さらっと言う。
久遠が眉をひそめた。
「根拠は?」
「勘」
俺と久遠が同時に見る。
「……嘘。経験則」
軽く笑う。
「避けられるなら、避けた方がいいに決まってるでしょ」
そして、ぽつりと続けた。
「巻き込まれるのって、理不尽だからさ」
一瞬だけ、声のトーンが落ちた気がした。
でも、それ以上は言わない。
「相澤くん」
「はい」
「君ってさ。誰かを助けるの、嫌いじゃないよね」
「……別に」
「ふーん」
それだけで終わった。
帰り支度をしながら、俺はその言葉を深く考えなかった。
ただの雑談だ。部長らしい説教みたいなものだ。
1部改稿しました




