対照群
朝、玄関を出た瞬間に分かった。
今日は――
何も起きない日だ。
空は快晴。
雲ひとつない。
アスファルトは乾ききっていて、昨日までの雨の痕跡すら見当たらない。
「……完璧すぎないか」
逆に怪しい。
ここまで条件が揃っていると、世界が俺を油断させに来ている気がする。
俺は一歩、外に出てから立ち止まった。
左右を確認。上も確認。念のため足元も確認。
落ちてくる看板なし。
陥没なし。
謎の水たまりなし。
「よし」
何に対する確認なのかは自分でも分からない。
通学路を歩く。
いつもなら無意識に歩いている道を、今日はやたら丁寧に踏みしめる。
……何も起きない。
信号は青。
しかも点滅すらしない。
「優秀かよ」
思わず呟いた。
学校に着くまで、
転ばない
ぶつからない
変な音もしない
完璧だ。
昇降口で靴を履き替えるときも、床は完全に乾いていた。
昨日あれだけ警戒した廊下が、今日は裏切る気ゼロである。
「世界、やる気なさすぎだろ」
教室に入ると、久遠理沙はすでに席にいた。
いつものようにノートを開き、ペンを走らせている。
「おはよう」
「おはようございます」
珍しく普通の挨拶が返ってきた。
……逆に不安になる。
席に座ると、久遠がちらっとこちらを見た。
「今日は挙動が落ち着いてますね」
「挙動って言うな」
「昨日は挙動不審でした」
「そこまでか」
「はい」
即答だった。
授業中も平和だった。
チョークは折れないし、プリントは配られるし、先生は噛まない。
俺はノートを取りながら、何度か天井を見上げた。
特に意味はない。
昼休み。
弁当を広げた瞬間、久遠が言った。
「今日は世界が正常です」
「でかいな主語」
「統計的に見て、昨日の相澤くんが異常でした」
「まだ言うか」
「はい」
迷いがない。
「昨日は、信号、廊下、清掃用具。今日は、それらすべてを問題なく通過しています」
「つまり?」
「気にしすぎです」
ばっさりだった。
「人は、危険を意識しすぎると逆に判断を誤ります」
「俺は誤ってないだろ」
「誤りかけてました」
修正も入る。
放課後、科学研究部。
今日は実験道具も出ていない。完全にだらけモードだ。
「今日の活動内容は?」
俺が聞くと、久遠はノートを閉じた。
「相澤くんの平常運転確認です」
「俺、実験動物か?」
「はい」
やっぱり即答だった。
「今日は立ち止まりませんでした。
歩く速度も安定しています。
視線の動きも通常範囲」
「やめろ、記録すんな」
「記録していません」
「じゃあなんでそんな詳しいんだ」
「記憶力がいいので」
それが一番厄介だ。
帰り道。
今日も何事もなく、踏切を渡り、信号を越える。
俺は立ち止まらない。
久遠も何も言わない。
「……なあ」
「なんですか」
「今日、本当に何も起きなかったな」
「はい」
「それでいいんだよな」
「それが理想です」
久遠は即答した。
「日常は、何も起きないことが一番価値があります」
「さすが優等生」
「褒めていません」
家に着く。
靴を脱ぎ、部屋に入る。
今日一日を振り返ってみる。
転ばなかった。
巻き込まれなかった。
助けることも、避けることもなかった。
「……普通すぎたな」
家に着いてから、俺は窓から一度だけ空を見上げた。
夕方の空は薄いオレンジ色で、雲の形も穏やかだ。
落ちてきそうなものは、何もない。
「……よし」
だから何が「よし」なのか、自分でも分からない。
玄関で靴を揃え、鞄を床に置く。
傘は使わなかった。
朝、入れた意味もなかった。
部屋に入って、制服を脱ぎ、ベッドに投げる。
特に急ぐ理由もない。
テレビをつけると、どうでもいいバラエティが流れていた。
画面の中では、誰かが転んで、誰かが笑っている。
俺は少しだけ眉をひそめて、チャンネルを変えた。
ニュース。
事故の報道は、今日は特に目につかない。
それだけで、妙に安心する自分がいる。
「……影響されすぎだな」
自分に言い聞かせるように呟いて、テレビを消した。
その日は、宿題も特に重くなかった。
数学の問題を解き、英語の単語を眺める。
久遠ならもう終わっているだろうな、と思いながら。
風呂に入ると、湯気で視界が白くなった。
滑らないように足元を確認してから、湯船に浸かる。
――確認する必要なんて、ないのに。
湯船の中で、今日一日を思い返す。
転ばなかった。
誰ともぶつからなかった。
助ける場面も、避ける場面もなかった。
完璧な「普通」だ。
「……これでいいんだよな」
誰も答えない。
翌日も、同じように朝が来た。
目覚ましは一度で止まり、寝坊もしない。天気予報は晴れ。
俺はもう一度、傘を見てから、そのまま置いていった。
通学路は、昨日と同じように平和だった。同じ道、同じ時間。違うのは、俺の意識だけ。
「今日は考えない」
そう決めて、前を見る。
学校では、久遠がいつも通りだった。
ノートを取り、質問をし、淡々と授業を進める。
「相澤くん」
昼休み、唐突に呼ばれた。
「なに」
「昨日、何も起きませんでしたね」
「確認か?」
「事実確認です」
相変わらずだ。
「だから言ったじゃないですか。気にしすぎだって」
「分かってる」
「なら、もう終わりです」
話はそれだけだった。
科学研究部でも、特別なことはしなかった。
ペットボトルロケットの案が出たが、材料がないという理由で却下。
久遠は「来週でいいです」と言った。その言葉が、やけに未来の話に聞こえた。
帰り道も、同じ。信号は青、踏切は静か。俺は立ち止まらない。
何も起きない。それが三日、四日と続いた。
少しずつ、「あの日」が特別だった気がしなくなってくる。
俺は、普通の高校生に戻っていった。
いろいろ考えた結果タイトル変更しました




