何も起きなかった日の記録
その日は、朝から少しだけ雨が降っていた。
本降りというほどでもなく、地面を濡らすかどうか迷う程度の細かい雨だ。俺は玄関で靴を履きながら、一瞬だけ立ち止まった。空を見上げ、曇り具合を確認する。灰色の雲は低く、今にも雨粒を落としそうで、でも決定打に欠けている。
俺は折りたたみ傘を鞄に入れた。
使うかどうかは分からない。でも、入れておくことにした。
理由は特にない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
家を出て、いつもの通学路を歩く。雨の日は歩道の色が変わる。乾いたコンクリートよりも暗く、少しだけ光を反射する。靴底が地面に触れるたび、普段よりも感触がはっきり伝わってくる気がした。
人通りは少なかった。
雨の日は、それだけで外出を避ける人が増える。俺は人混みが得意じゃないから、こういう日は嫌いじゃない。歩幅を気にせず、自分のペースで進める。
交差点に差しかかる。
信号は青だったが、点滅を始めている。渡れるかどうか、微妙なタイミングだ。
俺は一歩、前に出かけて――止まった。
走れば渡れただろう。
でも、走る理由がなかった。遅刻しているわけでもないし、急ぐ必要もない。そう考えた瞬間、足が自然と止まった。
信号が赤に変わる。
車が動き出し、水たまりを跳ね上げながら通り過ぎていく。俺は一歩下がり、歩道に戻った。
それだけのことだ。
学校に着く頃には、雨はほとんど止んでいた。昇降口で靴を履き替えると、床が少しだけ湿っている。誰かが雑に傘を振ったせいだろう。滑らないよう、歩幅を気持ち小さくする。
廊下を歩いていると、前を歩いていた生徒が足を取られた。
一瞬、体が大きく傾く。
「うわっ」
声が上がったが、その生徒は手すりを掴み、何とか踏みとどまった。周囲の生徒が一斉にそちらを見る。大事にはならなかったようで、すぐに視線は散っていった。
俺は、その様子を横目で見ながら、歩く速度を少し落とした。
理由はない。
ただ、そうしただけだ。
教室に入ると、いつもの席がそこにあった。窓際、後ろから二列目。椅子を引き、座る。机に手を置くと、少しだけ冷たい。
「おはよー」
後ろの席から声がかかる。
「おう」
それだけで会話は終わる。
それでいい。
授業はいつも通りだった。教師の声、板書、ノートを取る音。集中しているようで、どこか上の空。久遠理沙の方を見ると、すでにノートを取り終えて、教科書を読み返している。相変わらずだ。
昼休み、購買には行かなかった。
混んでいそうだったし、弁当もある。久遠と少しだけ目が合ったが、何も言われなかった。
放課後、俺は鞄を持って立ち上がり、科学研究部の部室へ向かった。
廊下を歩いていると、清掃用具が壁際にまとめて置かれているのが見えた。バケツには水が残っていて、床に少し溢れている。光を反射して、濡れているのがよく分かる。
俺は、その手前で立ち止まった。
回り道をするほどの距離じゃない。
でも、そのまま通る気にならなかった。
ほんの少し遠回りして、乾いている側を歩く。
そのとき、背後で大きな音がした。
振り返ると、別の生徒が滑って尻もちをついていた。驚いた声が上がり、誰かが駆け寄る。幸い、怪我はなさそうだった。
俺は一瞬それを見て、また前を向いた。
胸の奥が、ほんの少しだけざらついた気がした。
部室に入ると、久遠はすでに来ていた。今日は白衣ではなく、制服のままだ。机の上にはノートが開かれ、ペンが置かれている。
「遅いです」
「誤差だろ」
「記録上は三分です」
相変わらず、細かい。
「今日もやるのか」
「はい」
久遠は迷いなく答え、ノートに何かを書き足した。
「朝、信号で止まりましたね」
「見てたのか」
「偶然です」
「廊下で、歩く速度を落としました」
「それも偶然だろ」
「清掃用具の前で立ち止まりました」
「……よく見てるな」
久遠はペンを止め、俺を見た。
「相澤くん」
「なに」
「今日、何かありましたか」
「何も」
「本当に?」
「本当に」
しばらく沈黙が落ちる。
久遠は何か言いたそうに口を開き、でも閉じた。
「……分かりました」
それ以上、踏み込んでこなかった。
俺は少しだけ、ほっとした。
何も起きていないなら、それでいい。理由なんて、後からどうとでもなる。
部室の窓の外では、雲が切れて、夕方の光が差し込んでいた。床に反射する光が、さっき見た水たまりを思い出させる。
「久遠」
「なんですか」
「こういうの、続けて意味あるのか」
「あります」
即答だった。
「今は、説明できませんが」
その「今は」が、また引っかかる。
帰り道、雨は完全に上がっていた。
アスファルトはまだ少し湿っている。俺は無意識に歩幅を調整し、足元を確認しながら歩いた。
その日、俺の周りではいくつかの小さな事故が起きていた。
どれも大したことじゃない。
どれも、誰かが少し注意すれば防げた程度のものだ。
そして俺は、どれにも巻き込まれなかった。
この時は、まだ。
それを特別なことだと思う理由が、どこにもなかった。




