仮説はまだ立てない
放課後の部室は、夕方になると、埃と金属と、少し古い紙の匂いが混ざる。理科準備室だった頃の名残だと久遠は言っていたが、正直なところ俺にはよく分からない。ただ、嫌いじゃない匂いだ。
「今日は何をするんだ」
「いつも通りです」
「観測か」
「記録です」
言い換えただけじゃないかと思ったが、口には出さなかった。出しても意味がない。
俺は椅子に座り、鞄を足元に置く。久遠は机にノートを広げ、ペンを手に取った。昨日から使っているノートとは別の、表紙が少し硬いやつだ。
「それ、何冊目だ」
「三冊目です」
「早くないか」
「分けたほうが後で楽なので」
「後っていつだよ」
「必要になったときです」
相変わらず、曖昧なようで断定的な言い方をする。
「今日は、質問は少なめにします」
「それは助かる」
「その代わり」
「代わりに?」
「こちらから話しかけないでください」
「理不尽だな」
「自然な行動を見たいだけです」
「俺が黙ってる方が不自然だと思うが」
「平均値としては許容範囲です」
俺は諦めて、机の上にあった古い雑誌を手に取った。何年前のものか分からない科学雑誌で、表紙のデザインがやたらと古い。ページをめくると、粒子加速器だの量子揺らぎだの、難しい言葉が並んでいる。
「……これ、誰が持ってきたんだ」
「私です」
「読むのか」
「たまに」
たまに、で済む内容じゃない気がする。
しばらく、部室には紙をめくる音と、ペンが走る音だけが響いた。外から聞こえるのは、遠くの運動部の掛け声と、風が窓を叩く音だけだ。
俺は雑誌を閉じ、ぼんやりと天井を見上げた。蛍光灯が一本だけ、微かに明滅している。
「なあ」
「……」
久遠は顔を上げない。
「話しかけるな、だったな」
「はい」
「でも今、何もしてないぞ」
「しています」
「何を」
「記録を」
意味が分からない。
「相澤くん」
久遠は突然、顔を上げた。
「今、何を考えていましたか」
「蛍光灯が切れそうだなって」
「理由は」
「点滅してる」
「それだけですか」
「それ以上あるか?」
「……分かりました」
ペンが走る。
「なんか、変な実験みたいだな」
「実験ではありません」
「じゃあ何だ」
「まだ、前段階です」
「前段階?」
「仮説を立てる前の、整理です」
「仮説って」
「言いません」
即答だった。
「相澤くん」
「なに」
「自分が、少しずつ見られていると感じませんか」
「感じる」
「嫌ですか」
「……嫌ってほどじゃない」
「それは良かったです」
その言い方が、妙に事務的だった。
そのとき、風が強く吹いて、窓が小さく鳴った。俺は反射的にそちらを見る。別に、何かが起きたわけじゃない。ただの風だ。
「今、視線が動きました」
「窓見ただけだ」
「理由は」
「音がした」
「はい」
それだけで、また記録。
「疲れないのか」
「疲れます」
「やめればいいだろ」
「やめません」
「頑固だな」
「合理的です」
俺は小さく息を吐いた。
しばらくして、久遠がノートを閉じた。
「今日は終わりにします」
「もう?」
「これ以上は、ノイズが増えます」
「ノイズって俺か」
「否定しません」
ひどい。
俺は立ち上がり、鞄を肩にかける。窓の外はすっかり暗くなっていて、校舎の明かりが点々と灯っている。
「帰るか」
「はい」
部室を出て、廊下を歩く。足音が二人分、静かに響く。
昇降口で靴を履き替え、外に出る。夜風が冷たい。
「相澤くん」
「なに」
「明日も、続けます」
「断る選択肢は?」
「あります」
「あるのか」
「選んだことはありませんが」
そう言って、久遠は先に歩き出した。




