記録は主観を嫌う
翌日の朝は、驚くほど普通だった。
目覚ましは一度で止まり、玄関で靴を履くときも特に引っかかることはない。昨日の踏切のことも、部室での会話も、思い返せばどこか現実味が薄かった。
もともと俺は、何かを深く考え続けるのが得意じゃない。気になったとしても、時間が経てば自然に薄れる。そうやって今までやってきたし、それで困ったこともなかった。
だから、教室に入ったときも、いつも通りだった。
「おはよー」
「……おう」
声をかけてきたクラスメイトに適当に返事をして、自分の席に座る。窓際、後ろから二列目。黒板も見えるし、外も見える。文句のつけようがない位置だ。
一限目は現代文だった。教師の声が淡々と教室に広がり、ノートを取る音が規則正しく続く。俺は板書を写しながら、窓の外を一瞬だけ見た。雲の動きが遅い。たぶん、今日も大きな変化はない。
――そう思っていた。
昼休み、科学研究部の部室に行くと、すでに久遠理沙がいた。昨日と同じ白衣、同じ眼鏡、同じノートパソコン。違うのは、机の上に置かれたノートが一冊増えていることだけだった。
「早いな」
「相澤くんが遅いんです」
「昼休みだぞ」
「だからこそです」
俺は椅子を引いて座る。
「昨日の続きか」
「ええ。継続観測です」
その言い方が、どうにも引っかかる。
「なあ」
「なんですか」
「それ、本気でやる気なのか」
「当然です」
「俺の日常、面白くないぞ」
「知っています」
ひどい。
久遠はノートを開き、ペンを持った。手元の動きがやけに丁寧だ。
「今日は朝から記録します」
「許可取ってないだろ」
「不要です」
「そうかよ」
「起床時間は六時三十二分」
「なんで知ってる」
「昨日聞きました」
「聞いた覚えない」
「あなたが勝手に喋りました」
俺は思い出そうとして、やめた。たぶん本当なんだろう。
「登校ルートは通常」
「踏切は?」
「通りました」
「……問題は」
「ありませんでした」
一瞬、胸の奥がざらついた気がした。でも久遠はそれ以上何も言わず、淡々と書き続ける。
「昼休み、購買には行っていません」
「混んでたから」
「理由は不要です。事実だけで十分なので」
「割り切ってるな」
「主観は誤差を生みます」
俺は机に肘をつき、彼女を眺めた。こうして見ると、久遠は本当に高校生らしくない。落ち着きすぎているというか、妙に大人びているというか。
「久遠」
「なんですか」
「楽しいのか、それ」
ペンが止まる。
「……楽しい、とは少し違います」
「じゃあ何だ」
「確認です」
「何を」
「ズレを」
「ズレ?」
「はい」
久遠は眼鏡を押し上げ、こちらを見る。
「相澤くんの行動には、わずかなズレがあります」
「またそれか」
「無意識で、理由のない選択が多い」
「普通だろ」
「普通より、少しだけ多いです」
その“少しだけ”が、妙に気になった。
「それがどうした」
「今は、どうもしません」
「今は、って言うな」
「事実なので」
チャイムが鳴り、昼休みが終わる。
久遠はノートを閉じた。
「今日はここまでにします」
「助かる」
「放課後、また続けます」
「助からない」
久遠は小さく笑った。ほんの一瞬、からかうような笑みだった。
午後の授業は、相変わらず頭に入らなかった。黒板を見ていても、どこか別のところに意識が向いてしまう。自分が何か観察されている、という事実が、思った以上に落ち着かない。
放課後、部室へ向かう途中で、俺は昨日と同じ場所で足を止めた。理由はない。ただ、止まった。
「……なにしてるんですか」
後ろから声がする。久遠だった。
「別に」
「別に、で止まるのは統計的におかしいです」
「知らん」
「記録します」
「勝手にしろ」
階段を上り、廊下を歩く。部室に入ると、昨日と同じ夕方の光が差し込んでいた。変わらない風景。変わらない放課後。
それでも、昨日より少しだけ、空気が重い気がした。
「相澤くん」
「なに」
「気にしすぎないでください」
「どの口が言う」
「観測対象が意識しすぎると、データが歪みます」
「俺を物扱いするな」
久遠は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言った。
「人も、現象の一部です」
その言葉が、なぜか胸に残った。




