揺らぎの余熱
翌日、校舎はいつも通りだった。朝のチャイム。ざわめき。
誰も昨日のことなど知らない。
俺だけが、手の感触を覚えている。
階段。掴んだ手首の重さ。ほんの一瞬見えた、もう一つの光景。
「相澤くん?」
久遠の声で、現実に戻る。
「……ああ」
いつもの距離。いつもの表情。
でも、俺は無意識に足元を見てしまう。
久遠の歩幅。
段差。
床の継ぎ目。
何も起きない。なのに、静かすぎる。
昼休み。科学研究部の部室。鷹宮が先に口を開いた。
「で。昨日のは偶然?」
「その可能性が最も高いです」
久遠は淡々と言う。
だが、ノートの端には既に文字が並んでいた。
《観測後の未遂発生》
《三か月経過後》
《再発?》
「三か月、経ってたんだよな」
俺が言う。
「はい」
研究施設事故後。俺のバイク事故後。いずれも約九十日。
「理論上、外乱は減衰しているはずです」
「じゃあ昨日のは?」
「説明がつきません」
久遠はそう言いながらも、否定はしない。鷹宮が机を叩く。
「ペンダントじゃない?」
部室が静まる。俺は目を伏せる。
「すぐに因果を結びつけるのは早計です」
久遠は冷静だ。だが。
「ただ」
その一言で空気が止まる。
「開封は初めてでした」
カチ、と音が蘇る。俺が近づいたときだけ反応した。
「観測者へ」
あの文字。
「観測は、状態を確定させます」
久遠はホワイトボードに箱を書く。
その中に、小さな猫。
「シュレディンガーの猫です」
鷹宮が苦笑する。
「出たよ」
「箱の中は、生と死の重ね合わせ状態です」
久遠は続ける。
「観測した瞬間、どちらかに収束します」
俺は小さく言う。
「じゃあさ」
二人を見る。
「俺が“観測者だ”って自覚した瞬間」
久遠の手が止まる。
「分布が一段、収束した可能性があります」
「事故が太くなった?」
「可能性の重みが、わずかに変わった」
沈黙。
「保存は破っていません」
「でも干渉はした」
俺の声は、低い。
久遠は否定しない。
「昨日は未遂でした」
「次は?」
答えはない。その日の放課後。帰り道。交差点で信号が点滅する。俺は無意識に久遠の腕を掴みかける。まだ青だ。何も起きない。だが、俺の鼓動だけが速い。
「相澤くん」
久遠が言う。
「過剰反応は、別の枝を太くする可能性があります」
「……わかってる」
でも体が動く。観測してしまう。選んでしまう。
夜。
自室。
天井を見つめる。俺はまだ、自分の能力を
“久遠限定の事故予知”
だと思っている。それは変わっていない。
でも。
もし。
予知ではなく、分布の揺らぎを感じ取っているだけだとしたら。
俺が強く意識した瞬間、揺らぎは増幅されるのか?
箱を見ていると自覚した瞬間、猫はもう決まっているのか?
手を見る。昨日、掴んだ手。
俺は、消していない。移してもいない。
でも。選んでいるのかもしれない。
その自覚が、
次の外乱になるとしたら――
窓の外で、風が鳴る。平穏は続いている。
だが、静かすぎる。
まるで。嵐の前の、無音のように。




