表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
世界は静かに傾いた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/36

観測は止められない

校門を出たとき、夕方の光はすでに薄くなり始めていた。部室での議論は終わったはずだった。ペンダントは閉じられ、写真は戻され、理屈は一通り整理された。

だが、何も終わっていない。

空気が、重い。

久遠が立ち止まった。背中越しに、制服の襟がわずかに揺れる。


「……相澤くん」


声はいつも通りだった。だが、温度が違う。


「観測を、やめてください」


意味が、すぐに理解できなかった。


「……は?」

「私に近づく事故を、察知しないでください」


風の音だけが通り抜ける。


「無理だ」


即答だった。


「無意識なんだぞ」

「それでもです」


久遠は振り向いた。

目は、冷静だった。感情がないわけではない。

だが、揺れていない。


「あなたが“選ぶ側”になるのは、危険です」

「危険なのはお前だろ」

「違います」


間を置かず否定する。


「保存則は成立します」


静かな宣告のようだった。


「消せない。移せない。ならば選ぶしかない。ですが選択は干渉です」


一歩、俺に近づく。


「干渉は分布を変形させます」


俺は言葉を挟もうとして、止めた。

久遠は続ける。


「階段の未遂。あれは昨日までの分布より、明らかに確度が高かった」


あの瞬間を思い出す。視界が歪み、落下後の未来がはっきり見えた。“かもしれない”ではなかった。


“落ちる”。


確定に近かった。


「観測者が自覚した瞬間、状態は収縮する可能性があります」


シュレディンガーの猫。観測するまでは、生と死が重なっている。箱を開けた瞬間、どちらかになる。


「俺が観測者だと自覚したから、事故が太くなったって言うのか」

「可能性はあります」


否定しない。その事実が、重い。


「あなたは今まで、“事故を予知する人間”でした」


久遠の視線が、真っ直ぐに刺さる。


「ですが昨日から、“分布に干渉する観測者”になった」


言葉が、段階を一つ進める。


「自覚は、条件です」

「条件?」

「観測は物理過程です。ただの意識ではありません」


淡々とした説明。


「ですが、ここで扱っているのは巨視的な確率場です。もし意識が位相に影響を与えるなら――」


一瞬だけ、久遠は言葉を選ぶ。


「あなたが“選ぶ存在だ”と認識した瞬間、干渉の強度が上がる可能性があります」


俺は何も言えない。


つまり。


俺が覚悟を決めるほど、事故は濃くなる?


「だから、観測をやめてください」

「無理だって言ってる」

「意識的に選ぼうとしないでください」

「それは同じだ」


沈黙。久遠はペンダントを握る。


「もしあなたの選択が、他者に歪みを生んだ場合」


その先を言わなくても分かる。三か月間の増加。再配分。


「私一人の方が、合理的です」

「合理とか言うな」


声が低くなる。


「俺はそんな計算しない」

「ですが世界は計算します」


静かな反論。


「保存は必ず成立する」


逃げ場がない。そのとき。視界がわずかに歪んだ。

横断歩道。

信号は青。

久遠が一歩踏み出す。

右側。

白い光。

速度が速い。

ブレーキが間に合わない。

頭部打撲。

停止。

脳内に映像が流れる。

今回は、階段より鮮明だった。衝突音まで、はっきり聞こえた気がした。


「止まれ!」


俺は腕を掴んで引き戻す。直後、車が目の前を通過する。

風圧。

怒号。

タイヤの音。

だが事故は起きていない。世界は何も変わらない顔をしている。久遠は動かない。


「……今のは」

「未遂だ」

「いいえ」


久遠は首を横に振る。


「未遂ではありません」


ゆっくりと続ける。


「確定しかけていました」


俺も、同じことを感じていた。あれは“可能性”ではなかった。“落ちる未来が、ほぼ主枝になっていた”。


「確度が上がっています」


俺の喉が乾く。


「観測したからか」

「断定はできません」


だが。否定もできない。


「もし仮説が正しいなら」


久遠の声は、低い。


「あなたが“選ぶ”ほど、分布は収束を加速する」

「俺が救おうとするほど、死に近づく?」

「可能性はあります」


胸の奥が冷える。


「観測は中立ではありません」

「じゃあどうすればいい」

「選ばないでください」

「それは見殺しにしろってことだ」

「はい」


迷いがない。それが、苦しい。


「私一人のリスクで済むなら、その方が歪みは小さい」

「お前は」


言葉が詰まる。


「本気で言ってるのか」

「はい」


一切の装飾がない。


「私は多数を犠牲にしてまで延命する選択はしません」

「誰が多数って決めた」

「分布が決めます」


冷静すぎる。だからこそ、逃げ場がない。


「相澤くん」


久遠は続ける。


「あなたの能力は、今のところ私限定です」

「……ああ」

「それが拡張していないという事実は、重要です」

「どういう意味だ」

「分布は、まだ局所的です」


一歩近づく。


「ですが、あなたが干渉を強めれば、局所で済まなくなる可能性があります」


拡張。世界規模の歪み。


「私はそれを望みません」


沈黙。車の音が遠くで鳴る。俺は自分の手を見る。さっき掴んだ手首の感触が残っている。


「……それでも」


声は、低い。


「俺はお前を落とさない」


久遠の目が、わずかに揺れた。


ほんの一瞬。


だが確かに。


「それは選択です」

「そうだ」

「その選択が、分布を変形させます」

「知ってる」

「それでも?」

「それでもだ」


長い沈黙。夕日が沈みかける。


「……あなたは、観測者です」


久遠は静かに言った。


「観測者は、箱を閉じることができません」


シュレディンガーの猫。箱の中は揺らいでいる。だが観測者は、必ず開ける。


「あなたは、見てしまう」

「見えるからな」

「見えなくすることは?」

「できない」

「ならば」


久遠は目を閉じる。


「私は、落ちる準備をします」


心臓が強く鳴る。


「ふざけるな」

「合理的です」

「違う」


一歩、踏み出す。


「俺は選ぶ」


静かに言う。


「消さない。移さない。選ぶ」


写真の裏の言葉。

――存在している中から選びなさい。


「俺は枝を太くする」

「危険です」

「知ってる」

「誤れば、より悪い未来を増幅します」

「知ってる」

「それでも?」

「それでもだ」


久遠は、しばらく俺を見つめた。やがて、ほんのわずかに目を伏せる。


「……頑固ですね」

「お前ほどじゃない」


ほんの一瞬だけ、空気が緩む。

だがすぐに戻る。未遂は二回。確度は上昇。

分布は収束を続けている。そして俺は、自覚してしまった。自分が観測者だと。観測は、止められない。

ならば。

止められないなら。

俺は選び続ける。箱を開け続ける。その先にどんな歪みが待っていようと。夕日が沈む。影が長く伸びる。平穏は、もう薄い膜のようだ。

分布は、確実に一点へ向かっている。だが俺は、目を逸らさない。観測者は、最後まで観測する。たとえ世界がそれを拒もうとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ