観測は止められない
校門を出たとき、夕方の光はすでに薄くなり始めていた。部室での議論は終わったはずだった。ペンダントは閉じられ、写真は戻され、理屈は一通り整理された。
だが、何も終わっていない。
空気が、重い。
久遠が立ち止まった。背中越しに、制服の襟がわずかに揺れる。
「……相澤くん」
声はいつも通りだった。だが、温度が違う。
「観測を、やめてください」
意味が、すぐに理解できなかった。
「……は?」
「私に近づく事故を、察知しないでください」
風の音だけが通り抜ける。
「無理だ」
即答だった。
「無意識なんだぞ」
「それでもです」
久遠は振り向いた。
目は、冷静だった。感情がないわけではない。
だが、揺れていない。
「あなたが“選ぶ側”になるのは、危険です」
「危険なのはお前だろ」
「違います」
間を置かず否定する。
「保存則は成立します」
静かな宣告のようだった。
「消せない。移せない。ならば選ぶしかない。ですが選択は干渉です」
一歩、俺に近づく。
「干渉は分布を変形させます」
俺は言葉を挟もうとして、止めた。
久遠は続ける。
「階段の未遂。あれは昨日までの分布より、明らかに確度が高かった」
あの瞬間を思い出す。視界が歪み、落下後の未来がはっきり見えた。“かもしれない”ではなかった。
“落ちる”。
確定に近かった。
「観測者が自覚した瞬間、状態は収縮する可能性があります」
シュレディンガーの猫。観測するまでは、生と死が重なっている。箱を開けた瞬間、どちらかになる。
「俺が観測者だと自覚したから、事故が太くなったって言うのか」
「可能性はあります」
否定しない。その事実が、重い。
「あなたは今まで、“事故を予知する人間”でした」
久遠の視線が、真っ直ぐに刺さる。
「ですが昨日から、“分布に干渉する観測者”になった」
言葉が、段階を一つ進める。
「自覚は、条件です」
「条件?」
「観測は物理過程です。ただの意識ではありません」
淡々とした説明。
「ですが、ここで扱っているのは巨視的な確率場です。もし意識が位相に影響を与えるなら――」
一瞬だけ、久遠は言葉を選ぶ。
「あなたが“選ぶ存在だ”と認識した瞬間、干渉の強度が上がる可能性があります」
俺は何も言えない。
つまり。
俺が覚悟を決めるほど、事故は濃くなる?
「だから、観測をやめてください」
「無理だって言ってる」
「意識的に選ぼうとしないでください」
「それは同じだ」
沈黙。久遠はペンダントを握る。
「もしあなたの選択が、他者に歪みを生んだ場合」
その先を言わなくても分かる。三か月間の増加。再配分。
「私一人の方が、合理的です」
「合理とか言うな」
声が低くなる。
「俺はそんな計算しない」
「ですが世界は計算します」
静かな反論。
「保存は必ず成立する」
逃げ場がない。そのとき。視界がわずかに歪んだ。
横断歩道。
信号は青。
久遠が一歩踏み出す。
右側。
白い光。
速度が速い。
ブレーキが間に合わない。
頭部打撲。
停止。
脳内に映像が流れる。
今回は、階段より鮮明だった。衝突音まで、はっきり聞こえた気がした。
「止まれ!」
俺は腕を掴んで引き戻す。直後、車が目の前を通過する。
風圧。
怒号。
タイヤの音。
だが事故は起きていない。世界は何も変わらない顔をしている。久遠は動かない。
「……今のは」
「未遂だ」
「いいえ」
久遠は首を横に振る。
「未遂ではありません」
ゆっくりと続ける。
「確定しかけていました」
俺も、同じことを感じていた。あれは“可能性”ではなかった。“落ちる未来が、ほぼ主枝になっていた”。
「確度が上がっています」
俺の喉が乾く。
「観測したからか」
「断定はできません」
だが。否定もできない。
「もし仮説が正しいなら」
久遠の声は、低い。
「あなたが“選ぶ”ほど、分布は収束を加速する」
「俺が救おうとするほど、死に近づく?」
「可能性はあります」
胸の奥が冷える。
「観測は中立ではありません」
「じゃあどうすればいい」
「選ばないでください」
「それは見殺しにしろってことだ」
「はい」
迷いがない。それが、苦しい。
「私一人のリスクで済むなら、その方が歪みは小さい」
「お前は」
言葉が詰まる。
「本気で言ってるのか」
「はい」
一切の装飾がない。
「私は多数を犠牲にしてまで延命する選択はしません」
「誰が多数って決めた」
「分布が決めます」
冷静すぎる。だからこそ、逃げ場がない。
「相澤くん」
久遠は続ける。
「あなたの能力は、今のところ私限定です」
「……ああ」
「それが拡張していないという事実は、重要です」
「どういう意味だ」
「分布は、まだ局所的です」
一歩近づく。
「ですが、あなたが干渉を強めれば、局所で済まなくなる可能性があります」
拡張。世界規模の歪み。
「私はそれを望みません」
沈黙。車の音が遠くで鳴る。俺は自分の手を見る。さっき掴んだ手首の感触が残っている。
「……それでも」
声は、低い。
「俺はお前を落とさない」
久遠の目が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
だが確かに。
「それは選択です」
「そうだ」
「その選択が、分布を変形させます」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだ」
長い沈黙。夕日が沈みかける。
「……あなたは、観測者です」
久遠は静かに言った。
「観測者は、箱を閉じることができません」
シュレディンガーの猫。箱の中は揺らいでいる。だが観測者は、必ず開ける。
「あなたは、見てしまう」
「見えるからな」
「見えなくすることは?」
「できない」
「ならば」
久遠は目を閉じる。
「私は、落ちる準備をします」
心臓が強く鳴る。
「ふざけるな」
「合理的です」
「違う」
一歩、踏み出す。
「俺は選ぶ」
静かに言う。
「消さない。移さない。選ぶ」
写真の裏の言葉。
――存在している中から選びなさい。
「俺は枝を太くする」
「危険です」
「知ってる」
「誤れば、より悪い未来を増幅します」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだ」
久遠は、しばらく俺を見つめた。やがて、ほんのわずかに目を伏せる。
「……頑固ですね」
「お前ほどじゃない」
ほんの一瞬だけ、空気が緩む。
だがすぐに戻る。未遂は二回。確度は上昇。
分布は収束を続けている。そして俺は、自覚してしまった。自分が観測者だと。観測は、止められない。
ならば。
止められないなら。
俺は選び続ける。箱を開け続ける。その先にどんな歪みが待っていようと。夕日が沈む。影が長く伸びる。平穏は、もう薄い膜のようだ。
分布は、確実に一点へ向かっている。だが俺は、目を逸らさない。観測者は、最後まで観測する。たとえ世界がそれを拒もうとしても。




