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インケルトゥス・コーザリティ――未確定因果の恋  作者: ののそら
世界は静かに傾いた

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観測の揺らぎ

部室を出る頃には、外はすっかり夕方だった。ペンダントは閉じられ、机の上には何もない。

けれど、何かだけが残っている。空気の密度が、違う。


「今日はここまでにしましょう」


久遠はいつも通りの声で言う。鷹宮は伸びをした。


「頭使いすぎ。保存とか枝とか、もうお腹いっぱい」


俺は笑う。でも、笑いきれない。写真の裏の言葉が、まだ残っている。

――消しても押し付けてもだめ。

――存在している中から選びなさい。


階段へ向かう。校舎は静かだった。夕方の光が、コンクリートを橙色に染めている。俺は二人の後ろを歩いていた。

久遠が先頭。

その一段後ろに鷹宮。

最後尾が俺。


そのときだった。ほんの一瞬。


視界の端が、ぶれた。久遠の足先が、階段の縁を掠める。滑った。ほんの数ミリ。それだけ。

だが俺の中で、何かがはっきりと鳴った。

来る。

久遠の重心が前に傾く。踏み外す。二段、三段、転がる。その先にある踊り場の角。頭部打撲。一瞬の映像が、脳内を焼く。俺は考えていなかった。反射だった。腕を伸ばす。久遠の手首を掴む。体重がかかる。靴底が階段を擦る音。一瞬、時間が伸びた気がした。久遠の身体は、空中に傾いたまま止まっている。

その向こう側に、もう一つの光景が見えた気がした。踊り場で倒れている久遠。動かない。血。瞬きの間に消える。現実に戻る。


「……っ」


久遠が息を詰める。俺は強く引き寄せた。鷹宮が振り向く。


「え、なに?」


久遠は、体勢を立て直した。数秒の沈黙。階段には、何も起きていない。ただ、夕方の光だけがある。


「……今のは」


久遠が静かに言う。


「私の不注意です」


俺は何も言わない。違う。俺の中では、はっきりしている。あれは未遂じゃない。

もう“落ちた後”の光景のほうが現実に近かった。確定しかけているように感じた。俺が掴まなければ、落ちていた。鷹宮が笑う。


「びっくりしたー。久遠もドジるんだ」


久遠は否定しない。ただ、階段の縁を見つめている。やがて、ゆっくり言った。


「……再発していますね」

「でもなぜ…三か月は、経っていたはずです」


空気が、冷える。俺の喉が乾く。

ペンダント。

開封。

観測者。

選択。

シュレディンガーの猫。


観測した瞬間、状態は確定する。

もし俺が――

自分を“観測者”だと認識した瞬間。分布が一段、収縮したとしたら。可能性だった事故が、より太い枝になった?保存は破っていない。

でも。干渉はした。


「偶然だろ」


俺は言う。でも、自分の声が少し軽い。久遠は首を振らない。否定もしない。ただ、静かに階段を見ている。


「観測は、状態を変えます」


その声は、落ち着いている。


「私たちは昨日まで、“可能性”の話をしていました」


一段、降りる。


「今日は、“現象”が起きました」


俺の手はまだ震えている。久遠の手首の温度が、残っている。


「……俺の能力は、久遠限定だよな」


確認するように言う。


「はい」


即答。


「他者の事故には反応していません」

「じゃあ今のは」

「私に限定された、局所的な揺らぎです」


沈黙。夕方の校舎は、やけに静かだ。


「確率をゼロにはしていません」


久遠は小さく言う。


「移してもいません」

「……ああ」

「ですが、収束は進んでいる可能性があります」


一点へ。

俺の背中に冷たい汗が流れる。俺は掴んだ。つまり、選んだ。意識していない。でも、選んだ。枝を一本、切り替えた。階段を降り切る。外の風が当たる。平穏だ。事故は起きていない。それなのに。確実に何かが動き始めている。俺は空を見上げる。もし観測者であること自体が、干渉だとしたら。シュレディンガーの猫は、箱を開けた瞬間に生死が決まる。

なら。

俺が“箱を見ている”と自覚した瞬間。箱の中は、もう揺らがないのか?久遠が歩き出す。

その背中は、いつも通りだ。でも俺には分かる。なにかこの前より一段階進んだ気がした。

風が吹く。俺は自分の手を見る。この手で。

俺は何を選ぶのだろうか。

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