保存と選択
写真は、小さかった。折り畳まれた薄い紙。
四歳くらいの久遠が、母親の腕の中で笑っている。研究者の顔ではない。ただの母親の顔だった。部室には、誰もすぐに声を出さなかった。
蛍光灯の音だけが、やけに大きい。
「……母は」
久遠が、ゆっくりと言う。
「こういう顔も、していたのですね」
感情を抑えた声だった。けれど、指先は震えている。俺は何も言えなかった。これまで開かなかった。今日、俺が近づいた瞬間だけ反応した。それだけが事実だ。鷹宮が、写真を覗き込む。
「裏、何か書いてない?」
久遠が写真を裏返す。小さな文字。手書き。
――観測者へ
――消しても押し付けてもだめ。存在している中から選びなさい。
部室の空気が変わる。
「……?なんだこれは……なにかのメッセージか?」
俺が呟く。久遠は、静かに読み上げる。
「“観測者”……私を観測している誰か、という意味でしょうか?」
意味が、はっきりしない。けれど。俺たちが今、議論していることと、奇妙に一致している気がした。
「消しても、は確率をゼロにするな、だな」
「押し付けても、は再配分の強制をするな」
「選べ……」
鷹宮が腕を組む。
「分岐の中から選ぶってこと?」
久遠は、ゆっくり頷いた。
「保存則の内部での再重み付け……干渉による増幅」
俺の背中に、冷たいものが走る。
「母は……そこまで考えていた?」
「断定はできません」
久遠は写真を見つめたまま言う。
「ですが、“書き換え”ではなく“選択”という言葉を使っている」
それは明確な違いだった。俺は椅子に腰を下ろす。
「なぁ」
誰にともなく言う。
「久遠を事故から助けるとき、俺は止めてるだけだよな」
久遠は顔を上げる。
「はい。未遂事象を回避しています」
「でも、その間、周りで事故が増えた」
沈黙。三か月。研究施設事故後。俺のバイク事故後。未遂回避の期間。どれも一致している。
「……再配分です」
久遠が、静かに言う。
「局所的に確率を下げれば、他所で密度が上がる可能性はあります」
「やっぱり俺は、久遠の分をどこかに押しやってるかもしれない?」
「可能性としては、否定できません」
鷹宮が顔をしかめる。
「それ、嫌だな」
嫌だ、で済む話じゃない。俺は、写真の裏の言葉を見る。
「……消さずに、誰かに押し付けずに助ける方法があるってことか?」
久遠は、ゆっくり息を吸った。
「おそらく…そして母はその方法を研究の中で発見している可能性があります。」
俺は苦笑する。
「そんな都合よくあるかよ」
「……ですが確証がないとここまで明確に書かないはずです。科学者なら……」
久遠の声は、落ち着いている。
「相澤くん」
久遠は静かに言った。
「あなたは、私に近づく事故を察知します」
「……ああ」
「それは観測です」
観測。
「観測は、波動関数を収縮させます」
部室が静かになる。
「あなたは、事故の分布に触れている可能性があります」
「触れてるって」
「干渉している」
俺は息を吐く。
「でも俺、選んでる自覚ないぞ」
「無意識の選択かもしれません」
鷹宮が、ぽつりと言う。
「じゃあさ」
二人を見る。
「もし、その選択を意識的にやれたら?」
久遠は、即答しなかった。写真を、そっと閉じる。ペンダントの中に戻す。カチ、と音がする。
「それは――」
少しだけ、間。
「非常に危険です」
「なんで」
「精度を誤れば、極小枝ではなく別の枝を増幅する可能性があります」
「別の枝?」
「より悪い未来」
久遠は、少しだけ言葉を選んだ。
「確率分布は一本の道ではありません」
ホワイトボードに小さく線を引く。一本の線が、途中で幾つにも分かれる。
「未来は連続的な分布です。観測されるまでは、複数の可能性が同時に存在しています。量子力学で言えば、重ね合わせの状態です」
線の先に、いくつもの細い線が広がる。
「この分かれた一本一本を、便宜的に“枝”と呼んでいます」
俺はそれを見る。
「全部、起こりうる未来?」
「はい。ただし、重みが違います」
一本は太く、他は極端に細い。
「太い枝ほど起こりやすい。細い枝は、極小確率です」
「選択によって行ける確率が薄いとか、そういうやつか」
「はい」
久遠は頷いた。
「干渉で重みを変えれば、細い枝を太くすることは理論上可能です」
「でも」
鷹宮が腕を組む。
「間違って別の枝を太くしたら?」
久遠は静かに答える。
「より悪い未来を増幅する可能性があります」
「それに」
久遠は続ける。
「仮に成功しても、保存は成立します」
「つまり?」
「どこかに歪みは残る」
俺は天井を見上げた。
「結局、逃げ道ないじゃん」
「完全な無傷は、存在しません」
淡々と。
「ですが、“最小化”は可能です」
最小化。それが、この世界で許される最大の奇跡なのかもしれない。鷹宮が、軽く息を吐く。
「つまり今の結論は」
指を立てる。
「① ペンダントは相澤にだけ応答する
② 写真の裏のメッセージは“選択”を示唆
③ 書き換えはダメ、再配分もダメ
④ 可能性があるなら、干渉による極小枝の増幅」
「……まとめるな」
「部長だから」
俺は、ペンダントを見る。ただの形見だったはずだ。でも今は違う。
「久遠」
「はい」
「もしだ」
喉が少し乾く。
「もし、その可能性があったとして」
久遠は、まっすぐ俺を見る。
「はい」
「お前は、選ぶか?」
ほんの一瞬。迷いが、走った。でも、すぐに消える。
「私は」
静かに。
「誰か多数を犠牲にする選択はしません」
「……ああ」
「……もし本当に、そんな状況になるなら
私が受け入れます」
淡々としている。けれど、それが本気なのは分かる。俺は、笑った。
「お前、ほんと面倒くさいな」
「合理的です」
「違う。頑固なんだよ」
少しだけ、空気が緩む。でも。俺の中で、何かが決まった。消さない。移さない。選ぶ。写真の裏の言葉が、頭から離れない。俺はまだ、自分の能力を“事故の予知”だと思っている。でも。もしそれが。分布に触れて、枝を揺らす力だとしたら。そのとき。俺は何を選ぶのだろうか?




