神の如き所業
久遠の家は、住宅街の奥にあった。風に揺れる植木も、門柱も、手入れはされているが、どこか時間が薄い気がする。
「……入ってください」
久遠は鍵を回した。玄関は整っていた。生活感はある。だが奥へ進むほど、空気が変わる。
廊下の突き当たり。
一枚の扉。
「ここが、母の書斎です」
開けた瞬間、空気が違った。埃の匂いではない。時がそのまま止まっている、という感じだった。机の上にはノート。紙束。手書きの数式。途中で止まったグラフ。まるで、人だけが消えて、痕跡だけ残ったように…。
「……事故のあと、そのままです」
久遠は静かに言った。
「整理もしていません。触ったのは、必要最低限だけ」
棚には、専門書がびっしりと整列して並べられている。きっと久遠の母親は几帳面な性格だったのだろう。その中から久遠は1冊の本を取り出して渡してきた。
《都市災害の確率場モデル》
じっくり見ても分からないので飛ばしながら見ていると最後のページ。途中で切れた式。
∂P/∂t = −∇・J + S
「……なんかここに手書きで書いてある。これは…シュレディンガー方程式か?ネットニュースかテレビかなんかで見たことある気がする」
俺が言うと、久遠は頷いた。
「正確には、これはシュレディンガー方程式そのものではありません」
ページを指でなぞる。
「確率密度の連続の式です」
「Pは確率密度、Jは確率流。Sは外部からの生成項です」
「保存則か」
「はい。S=0なら完全保存。外乱があれば、そこから生成・消滅が起こります」
俺は息を吐いた。
「母親は、事故を“点”じゃなく“流れ”で見てたってことか」
「そうです。事故は発生するのではなく、流れ込む」
書斎の空気が少しだけ重くなる。久遠は続けた。
「外乱が加わると、分布は乱れます」
「研究施設事故」
「はい」
「俺のバイク事故も」
「おそらく」
画面のグラフを並べる。研究施設事故後、三か月。俺の事故後、三か月。どちらも上昇。どちらも減衰。
「外乱エネルギーが散逸し、準安定状態へ戻る」
久遠は淡々と言う。
「現在は、その状態に近い」
「でも中心は動いてない」
「はい」
書斎の時計が、静かに刻む。
「……周囲が落ち着くのは自然です」
「収束の途中?」
「その可能性が高いと思います」
俺は机の上の未完成の数式を見る。母親は、保存を前提にモデルを作っていた。事故を減らそうとしていた。世界を壊そうとしていたわけじゃない。
「……母は、事故を予測し、偏りを検知し、危険を減らす。それを目的として研究をしていました」
「でも事故は起きた」
「はい」
一瞬だけ、久遠の視線が揺れた。
「外乱の原因は分かっていません」
書斎には、事故“以前”の資料しかない。事故後の解析は存在しない。それが逆に重い。俺はゆっくり息を吸う。
「今は落ち着いてる」
「はい」
「でも中心はそのまま」
「はい」
「じゃあ――」
喉が少し乾く。
「いつか、また揺れる」
久遠はすぐ否定しなかった。
「外乱がなければ、ゆっくりと収束します」
「中心に?」
「はい」
一点へ。
俺の能力は、ここ数日反応していない。
未遂もない。
事故もない。
街は平穏だ。
なのに。静かすぎる。ページをめくる。
交通事故発生率。インフラ障害。医療事故。すべて“発生確率密度”として場で扱われている。
「事故は点ではなく、密度分布として存在する」
久遠は静かに読む。
「局所的に減少させても、総量は保存される可能性がある――」
俺は息を吐いた。
「……俺たちが言ってるやつと同じだな」
「はい。理論の出発点は、完全に一致しています」
ただし。久遠はページを閉じた。
「ここから先が未完成です」
書斎にある資料は、すべて事故“以前”のもの。
事故後のデータは存在しない。当然だ。母はその事故で亡くなっている。
「事故後の解析は、ここにはありません」
久遠は論文を机に置いて鞄からノートパソコンを取り出した。
「これは私が集めました」
画面を開く。研究施設事故の直後、周辺地域の事故発生率が一時的に上昇しているグラフ。
「……やっぱ増えてたのか」
「この前も話した通り三か月間、局所的に上昇しています」
さらに別のグラフ。俺のバイク事故の時期。同じく、三か月。
「……理論通りだな」
「はい。大きな外乱のあと、場が荒れ、やがて減衰する」
久遠は続ける。
「そして現在は――」
グラフは滑らかだ。
「落ち着いている」
「そう見えます」
“見える”。
その言い方に、違和感はなかった。事実として、今は事故は増えていない。俺の能力も、ここ数日は反応していない。
「……俺が久遠と回避した時も約三か月だったよな」
「はい」
久遠は画面を切り替える。俺の事故から数えて、ほぼ九十日間。その間、未遂と小事故が増加。その後、沈静化。
「外乱のエネルギーが散逸したと考えられます」
「物理的だな」
「物理です」
即答だった。俺は書斎を見回す。この部屋は、時が止まっている。母は、確率を保存量として扱おうとしていた。でも、その先を書き終える前に亡くなった。
「……母は、事故を減らすモデルを作ろうとしていただけです」
机の上の論文タイトル。
《都市災害の確率場モデル》
完全に、現実的な研究だ。陰謀でも、宇宙規模でもない。ただのリスク低減モデル。俺はふと思う。
「……今は落ち着いてるんだよな」
「はい」
「じゃあ問題ないんじゃないか」
言ってから、自分でも軽いと思った。久遠はすぐに否定しなかった。ゆっくり画面を拡大する。赤い領域。薄い。だが消えていない。中心は、動いていない。
「……周辺の揺らぎは減衰しています」
「うん」
「ですが、分布の中心は固定されたままです」
俺は視線を上げた。久遠の顔。表情は変わらない。でも、ほんの一瞬だけ。視線が、わずかに揺れた。ほんの数ミリ。それだけだった。
「……久遠」
呼ぶと、返事が一拍遅れた。
「はい」
「今の、安心してる顔じゃないだろ」
沈黙。書斎の時計が、かすかに鳴る。
「……周囲が落ち着くのは、自然です」
久遠は静かに言った。
「外乱が収束する過程です」
「じゃあ中心は?」
わずかに、間。
「……収束が進んでいる可能性があります」
背中が冷えた。
「一点に?」
「はい」
俺の能力は、今は反応していない。久遠に近づく事故もない。街は平穏。なのに。
なぜか、落ち着かない。
「最近は落ち着いているよな」
「はい」
「で?」
「……大きな事象は、起きませんでした」
そこは事実だ。久遠を引き止めることも頻繁には無くなった。
でも。
俺は、書斎の空気を吸い込む。未完成の保存則。外乱後の三か月。そして今の沈静。偶然か。自然減衰か。
それとも――
もし、今静かであっても、収束点が変わっていなければまた、起きるはずだ。それもそこまでの歪みが溜まって一気に。余震後の大地震みたいに。
俺はふと思ったことを久遠に聞いてみた。
「……なぁ久遠。もし、もしだ。この世界の確率を人の手で書き換えれるとしたらどうなる」
久遠は一瞬、はっきりと表情を強張らせた。
「それは現実的ではありません」
いつもの即答。けれど、声がほんの少しだけ硬い。俺は黙って続きを待つ。久遠は視線を落とし、ゆっくりと続けた。
「もし、書き換えることが出来れば――それは“確率保存則”を破ることになります」
書斎の机の上に置かれたノートを指先でなぞる。
「保存している量を、人為的に増減させるということですから」
「増やす、減らす?」
「はい。例えば、ある事故の発生確率をゼロにする。完全に消すと仮定します」
久遠は静かに言う。
「保存が成立しているなら、本来その分はどこかに再配分されるはずです。でも、それを無視して“消す”なら――」
一拍。
「総量が変わります」
「それがそんなにまずいのか?」
「物理的には、極めて不自然です」
久遠は顔を上げた。
「エネルギー保存則が破られるのと同じです。閉じた系の中で、突然エネルギーが消えたり増えたりする」
「宇宙のルール違反ってことか」
「はい」
静かな肯定。
「確率は観測されるまで揺らいでいますが、分布そのものには整合性があります。それを外側から書き換えるというのは――」
言葉を選ぶ。
「系の外部に、さらに上位の操作系が存在することを意味します」
俺は苦笑した。
「神様みたいなやつか」
「物理学では、そのような存在は仮定しません」
即答。
「ですが仮に、人がそれを行えるとすれば」
久遠の視線が、ほんのわずかに揺れる。
「世界は閉じた系ではなくなります」
「どうなる」
「局所的な整合性が崩れます」
静かな声。
「因果の連続性が乱れる。あるはずの事象が起きず、起きないはずの事象が生じる。履歴が歪む可能性があります」
書斎の空気が、わずかに冷える。
「……副作用ってやつか」
「はい。保存を無視した介入は、別の場所で歪みとして現れるかもしれません」
「結局、再配分じゃないのか」
「それは“自然な再配分”ではありません」
久遠は小さく首を振る。
「保存則に従うなら、分布は連続的に変形します。でも書き換えは、不連続です」
「飛び石みたいに?」
「はい。確率振幅が突然跳ぶ」
俺はしばらく黙る。
「じゃあ――」
喉が少し乾く。
「もし久遠の未来の確率が、ほぼ一点に収束してるとして」
久遠の肩がわずかに動く。
「それを、無理やり別の結果に書き換えたら?」
沈黙。久遠はゆっくりと答えた。
「理論上は、極端な外乱になります」
「どのくらい」
「……この前の同時多発テロや、東日本大震災と同等、もしかするとそれ以上かもしれません」
俺は目を細めた。
「三か月どころじゃ済まない?」
「規模次第では、局所ではなく広域に波及します」
淡々としているが、指先がわずかに強くペンダントを握っている。
「確率は連続的に変形させるべきものです。急激な操作は、場全体に応力を生みます」
「応力」
「歪みです」
短く。
「保存を無視して一点を書き換えると、その歪みはどこかに解放される」
俺は小さく笑った。
「結局、逃げ場はないってことか」
「……はい」
久遠は否定しなかった。
「世界が閉じた系である限り、完全な“都合のいい改変”は存在しません」
書斎の時計が、静かに刻む。
「ただし」
俺は顔を上げる。
「保存則の内部で、分布を“選ぶ”ことは可能かもしれません」
「選ぶ?」
「ゼロにするのではなく、極小の確率を引き上げる」
ペンを取り、空中に小さな山を描く。
「小さな枝を、増幅する」
俺は息を止めた。
「それって」
「書き換えではありません」
久遠は言う。
「再重み付けです。保存則を破らずに、位相を揃える」
「位相?」
「干渉です」
目が、ほんのわずかに鋭くなる。
「確率振幅は重ね合わせです。強め合う方向に揃えれば、小さな枝も主成分になります」
「……じゃあ」
俺はゆっくり言う。
「完全に無理じゃない?」
久遠はすぐには答えなかった。やがて、静かに言った。
「理論上は可能性があります」
一拍。
「ですが、人間がそこまで精密に制御できるとは思えません」
「仮に出来たとしたら……それはとんでもない抑止力になり得ます」
視線が、俺に向く。
「抑止力とは…?」
「この世界はあらゆる確率で溢れています。朝食何食べた、今日着ていく服の色、その日通る道…」
「……そして、その日に生まれたと言う確率さえも、無かった事に出来る可能性があります。それはどんな兵器より恐ろしいものです」
俺は久遠の言葉を聞きながら、世界が酷く恐ろしいルールによって動いている気がした。生まれた事が無かったことになる、久遠とこうして話したことも、部長と久遠と部室で討論したことも、そして久遠から時計を貰ったことも…全て忘れてしまう。いや、無かった事に、存在しなかった事になってしまう。その事実が恐ろしくなって俺は逃げるために久遠に聞いた。
「久遠…他に何か母親が残したものは無いか?」
久遠は一瞬、視線を落とした。
「……研究資料ではありませんが」
そう前置きしてから、首元に手をやる。
制服の下から、細いチェーンが引き出された。
小さな銀色のペンダント。
中央に埋め込まれた透明な石が、書斎の光を反射する。
「この前も見せましたが、母が常に身につけていたものです」
俺はそれを見つめたまま、手を伸ばしかけて――止めた。
「事故のときも?」
「はい。遺品として返却されました」
久遠はチェーンを外さない。指先で、無意識にペンダントを握りしめている。
「……調べられるか?」
俺がそう聞くと、久遠はすぐには答えなかった。
「理論上は、可能です」
「でも?」
一拍。
「これは、母の形見です」
淡々とした声。でも、そこだけははっきりしていた。
「手放すことはしません」
「……だよな」
俺は頷く。
「じゃあ、学校でやろう。分光も磁性も、触らずにできる方法はある」
久遠は少し考えてから、静かに言った。
「……私も立ち会います」
「当然だ」
ペンダントは再び制服の下に隠される。研究対象でも、証拠物でもない。これは久遠のものだ。その線引きだけは、最初から揺らがなかった。俺はこのとき、それが世界の綻びに触れる大きな一歩になるとは思っていなかった。
大掛かりになってきましたね。




