観測対象・相澤悠真
放課後の校舎は昼間よりも静かで、音が少ない。人の声が消えると、代わりに自分の足音や衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。俺はその感じが嫌いじゃなかった。静かすぎると落ち着かないくせに、騒がしいのも苦手だ。たぶん、俺はその辺が全部中途半端なんだと思う。
昇降口で靴を履き替えたあと、すぐに歩き出さず、少しだけ立ち止まった。理由はない。あるとすれば、すぐに歩き出す気分じゃなかった、それだけだ。靴紐を結び直し、鞄の位置を肩で調整してから、ようやく旧校舎へ向かう。
科学研究部の部室は旧校舎三階の端にある。遠いし、不便だし、夏は暑く冬は寒い。正直、場所だけ見れば不満は多い。それでも部室に向かう足取りが重くならないのは、そこに久遠理沙がいるからかもしれないし、ただ単に慣れただけかもしれない。
階段を上る途中で、俺は一段目で足を止めた。一段飛ばしで上ろうとしたのに、やめた。理由は分からない。誰かが来る気配もないし、急ぐ必要もない。ただ、そのまま上る気にならなかった。
三階に着いて廊下を歩く。部室の前で、また一拍置いた。中からキーボードを叩く音が聞こえる。久遠はもう来ているらしい。あいつは時間に正確だ。正確すぎて、時々怖い。
ドアを開けると、いつも通りの部室がそこにあった。元は理科準備室だったらしく、無駄に広く、天井が高い。蛍光灯は何本もあるのに、光が均等に落ちず、部屋の隅には影が残る。壁の白は長年の埃と時間でくすみ、実験台の表面には細かな傷がびっしり刻まれている。
棚にはフラスコやビーカー、用途不明の金属器具、空になった試薬瓶が並んでいる。誰も使っていないのに、誰も捨てない。部室というより、保留された空間みたいな場所だ。
「……遅いです」
久遠理沙は、ノートパソコンから目を離さずに言った。
「いつも通りだろ」
「体感的に三分遅いです」
「体感で怒るな」
「怒っていません。記録です」
俺は適当に椅子を引いて座り、背もたれにもたれた。
「何してる」
「昨日からのメモ整理です」
「もう始まってるのか」
「始めました」
「相変わらず勝手だな」
「効率的と言ってください」
久遠は白衣姿のまま、画面を睨んでいる。眼鏡の奥の目は真剣で、俺の方を見る気配はない。
「相澤くん」
「なに」
「落ち着きすぎです」
「座ってるだけだ」
「それが問題です」
「存在してるだけで怒られるの初めてなんだが」
「怒ってません。観測しづらいだけです」
ひどい。
久遠は一度ため息をつき、キーボードから手を離した。
「今日から、少し質問します」
「嫌な予感しかしない」
「安心してください。全部日常の話です」
「それが一番信用できない」
「今日、部室に来るまで」
「うん」
「普段と違う行動はありましたか」
俺は今日一日を思い返した。通学路、授業、昼休み、放課後。特別な出来事はない。
「……靴紐を結び直した」
「理由は?」
「ほどけそうだったから」
「本当に?」
視線が刺さる。
「……なんとなく」
「禁止です」
即座に切り捨てられた。
「購買の前を通りませんでしたね」
「人が多そうだった」
「結果的に、そこで生徒が転倒しています」
「偶然だろ」
「ええ。偶然です」
即答だった。
「昼休み、階段を使いました」
「混んでたから」
「エレベーターは、その後停止しました」
「昇降口で立ち止まりました」
「靴履き替えてただけだ」
「平均より三秒長いです」
「校舎を出る前、振り返りました」
「無意識だ」
「把握しています」
淡々と入力される言葉を聞きながら、俺はなんとなく居心地の悪さを感じていた。
「なあ」
「なんですか」
「それ、意味あるのか」
キーボードの音が止まる。
「分かりません」
「即答すぎるだろ」
「分からないから集めています」
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯が微かに唸っている。
「相澤くん」
「なに」
「自分が選ばなかった行動を、意識したことはありますか」
「ないな」
「普通です」
「人は選んだ行動だけを正解だと思いたがります」
「まあ、そうだな」
「でも、選ばなかった側に何があったかは、誰も見ません」
「それが俺に関係ある?」
「今のところはありません」
少しだけ安心する。
「ただ」
久遠は一拍置く。
「あなたは、選ばない行動が多い」
「慎重なだけだろ」
「平均的な人間にしては、です」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてません」
久遠はノートパソコンを閉じ、こちらを見る。
「相澤くん」
「なに」
「今日から、あなたは観測対象です」
「言い方考えろ」
「安心してください。危険なことはしません」
「信用できない」
「あなたの日常を、記録するだけです」
窓の外では夕焼けが校舎を赤く染め、運動部の声が遠くに響いていた。世界は何も変わらず、放課後は穏やかに流れていく。
それでも胸の奥には、説明できない違和感が残っていた。小さくて、無視できそうで、けれど確かにそこにある感覚。
この時は、まだ。
それを気に留めるほどの理由があるとは、思っていなかった。




