束の間の理想郷
今日はやけに平和だった。ホワイトボードは消されたまま。数式もヒートマップもなく、机の上にはコンビニの袋と紙コップが並んでいる。
……この部屋でこんな光景、久しぶりじゃないか。
「でさ」
鷹宮が名簿を片手に言った。
「今日、誕生日だよね。相澤くん」
「……は?」
思わず声が出た。
「マジで?」
「部の登録情報に書いてある。六月十日」
「……忘れてた」
久遠の肩が、ぴくっと跳ねた。俺は気づいた。
――今、確実に跳ねた。
「へえ」
鷹宮はニヤニヤしながら久遠を見る。
「……知ってた?」
「……偶然です」
視線が合わない。絶対嘘だ。
「ほら」
鷹宮が机に袋を置く。
「ケーキ。コンビニだけど許せ」
「十分だろ……」
ロウソクは三本。誰がどう見ても即席だ。
「おめでとー」
ぱちぱち、と適当な拍手。久遠は少し遅れて、小さく手を叩いた。
「……おめでとうございます」
声が、ほんの少しだけ硬い。ケーキを食べている間。久遠は明らかに落ち着かなかった。椅子を引き直す。プリントを整える。シャーペンを落とす。
「……」
落ちた。反射的に俺が手を伸ばす。
「危な――」
久遠の指と、軽く触れた。一瞬。
「……」
「……」
固まった。
「……すみません」
「いや、今のは俺が勝手に――」
視線が泳ぐ。鷹宮がにやにやしてる。
「はいはい青春青春」
「黙れ」
ケーキを片付けたあと。鷹宮が急に立ち上がった。
「じゃ。私は生徒会の用事あるから消えるね」
「露骨すぎませんか」
「気のせい気のせい」
ドアの前で振り返る。
「……あ、ちゃんと渡しなよ」
久遠が硬直した。
「な、何を――」
「じゃーねー」
逃げた。完全に逃げた。部室には俺と久遠だけが残った。沈黙。気まずい。やばい。
「……」
久遠が鞄を探り始めた。
がさごそ。
「……」
取り出して、戻して、また探る。
「……久遠?」
「少し待ってください」
耳が赤い。確実に。やっと出てきたのは、小さな紙袋。両手で差し出された。
「……これ」
「……え?」
「……誕生日、なので」
袋、少し重い。
開けると――中には黒革のベルトの腕時計。装飾はほとんどない。文字盤は落ち着いた色で、針が静かに並んでいる。
「……これ」
思わず声が低くなる。久遠は目を逸らした。
「……一週間、悩みました」
「え」
「文房具、書籍、電子機器、アクセサリー……候補は二十三件ありました」
「多すぎだろ」
「途中で時計店に入りました」
ぽつりと続ける。
「……三回」
「通いすぎじゃないか」
「最初は見るだけのつもりでした」
少し間。
「……でも、毎回同じ棚の前で止まってしまって」
俺は時計を見る。
「……これ?」
久遠は小さく頷いた。
「何度も手に取って、戻して……また別の日に行って、同じことをして」
「買えよその時点で」
「……慎重なのです」
言いながら耳が赤い。
「時間を測る装置は、観測と不可分なので」
「……はい?」
「……日常的に身につけられて、壊れにくくて、危険性が低くて」
理屈が走り出している。
「……それに」
小さく。
「あなたは、時間に追われる側なので」
胸が、少し詰まった。
「……ありがとう」
素直に言うと、久遠はほっとした顔をした。
帰り道。校門を出ると、夜風が涼しい。街灯が等間隔に並んで、影が伸びている。……なぜか、久遠が近い。肩一個分。近い。
「……」
「……」
気まずい。
「……美味しかったですね」
「ケーキ?」
「はい」
横断歩道。信号は青。……一瞬だけ、胸の奥がざわっとした。でも、すぐ消えた。何も起きない。普通に渡る。歩き出すと、無意識に俺は半歩前に出ていた。
「……相澤くん」
「ん?」
「……盾にならないでください」
「してねえよ」
「しています」
即答だった。
「……無意識です」
「……癖だ」
久遠は少し考えてから言った。
「……悪くありませんが」
小さい声。
「……何?」
「何でもありません」
絶対何でもある。駅前で別れる。
「……今日は、ありがとうございました」
「俺の方こそ」
少し間。
「……その」
久遠が言いにくそうに続ける。
「……来年も、祝えたらいいですね」
胸が、少しだけ詰まった。
「……そうだな」
久遠は小さく頷いて、歩き出した。街灯の下で、その背中が少しだけ揺れている。俺は一人になってから、腕時計を握った。確かな重さ。今日は、止めなくて済んだ。誰も怪我しなかった。……なのに。胸の奥が、妙にドキドキする。
六月の夜は、穏やかだった。それが――
少しだけ、不自然なくらいに。
俺は立ち止まって、もう一度、さっき別れた方向を見た。街灯の向こう。もう久遠の姿は見えない。無意識に、腕時計の文字盤を親指でなぞる。時間。観測。選ばされた場所。
「……」
小さく息を吐く。もし、次に何かが起きたら。もし、この平穏が壊れるなら。今度も――もっと確実に。あいつは。久遠だけは。絶対に、守る。理由なんて、もう十分だった。




